「小母さん。突然訪ねてすいません」
「大丈夫。こちらこそ、わざわざありがとう。典明もきっと喜んでると思う。片付けてないから散らかってるけど、ごめんなさいね」
「あ、いえ、大丈夫です。あの、典明くんの部屋、お邪魔しても大丈夫ですか」
「ええ、もちろん。ただ、荷物整理がまだ出来てなくて、散らかってるけれど」
「いえ、こちらこそ不躾にすいません」
花京院家の空気は、私が数ヶ月前に遊びに来たときと何も変わっていなかった。家具が減ったわけでも増えたわけでもないし、内装を変えたわけでもない。数ヶ月前と何一つ変わらない。花京院典明という一人息子が死んでしまっただけだ。人が一人減ってしまうということはそういうことなんだと思った。
彼の部屋に上がるのは久しぶりだった。中学の頃は受験勉強の為によく遊びに来ていたけれど、勉強会はいつもリビングでやっていたし、高校生になってからは遊びに行くことすら無くなった。花京院の部屋に上がるのは、たぶん、小学生以来だと思う。
廊下のフローリングはスリッパ越しでも充分に冷えを感じさせた。ゆっくりと歩きながら、一歩一歩を踏みしめながら、私は花京院の部屋がある二階への階段を上っていった。私は馬鹿だから、扉を開けたら驚いた顔の花京院がこちらを見てくれたら良いのに、と少し考えた。
久しぶりの花京院の部屋は整然としていた。当たり前だ。花京院は彼の母に似て几帳面な性格だった。
私が最後に遊びにきた頃とは家具のレイアウトも置かれている物もすっかり変わってしまっていたけれど、それでも花京院の部屋なんだと思わせる雰囲気や空気は残っている。小綺麗な焦げ茶のフローリングと白い壁の組み合わせは、真面目な彼によく似合う色だと思った。
部屋の真ん中に立って、その場で一周身体を回転させて内装を見渡した。綺麗に整理された机や本棚には、小難しそうな本のタイトルだけではなく、花京院が好きだったゲームの箱や漫画も置いてあった。私も時々一緒に遊んだゲームのタイトルを見つけたとき、懐かしい記憶が少しだけ脳裏を過ぎった。ゲームは得意ではなかったから、花京院と勝負をして勝てたことは一度もない。
一通り部屋の中を見終えたとき、扉を小さく叩く音が聞こえた。入って良いかしら、と小母さんの声。はい、と返事をすると、マグカップが二つ置かれたお盆を持ったおばさんが入ってきた。
「暖房もいれたばかりだったから、寒いでしょう。良かったらどうぞ」
マグカップの中身はココアだった。私が受験勉強のために花京院の家に行く機会が多かった頃、彼の母はよくココアをいれてくれた。少し多めの砂糖の甘さが勉強で疲れた頭には丁度良くて、私はこの人のいれるココアがとても好きだった。
「ありがとうございます」
机の前に腰を下ろして、マグカップの片方へ手を伸ばした。少し悴んでいた手に、ココアの温度は思ったよりもずっと熱かった。
「まだちょっと熱かったかな」
「いえ、大丈夫です」
「部屋、まだ全然手をつけることが出来てなくてね。掃除もしてないから、埃が見苦しくて。ごめんなさいね」
「いえ、こちらこそ、すいません。まだ落ち着いてないときに」
「そんなこと、全然気にしないでね。実は思ってたよりも忙しくはないの。まだ親の葬式にも出たことが無かったから、葬式の後ってこんなに余裕があるものなんだって、驚いたくらい」
小母さんの言葉に私は何も返せず、だからといって愛想笑いを浮かべるべきでもない気がして、小母さんの顔を見ることが出来なかった。誤魔化すようにココアを喉に流し込むと、甘さと温かさがどろりと胸を染めた。
向こうがココアを飲むタイミングを見計らって、チラリと顔を見た。近くで見る目の下は、薄っすらと青みがかっている。記憶の中の小母さんは、もう少しだけふっくらとした頬をしていた気がする。
「典明は」
少しの沈黙のあと、おばさんが口を開いた。
「なにか隠し事とか、してなかった?」
「……たぶん、してなかったと、……あ、いや、私が気付いてないだけかも知れませんが」
「そう。……あの子、昔から、あまり自分から人と関わろうとしない子で、なにか、秘密にしていることがあるように見えたから、もしかしたら、なまえちゃんにならって思ったのだけれど」
隠し事なんて考えたことも無かった。でも、私だって花京院に言えないことのひとつやふたつはあるから、花京院が私に言わないことがあったって、全然おかしい話ではない。
「でも、だとしても、何か悪いことを隠すような人じゃあなかったと思います。典明くん」
「……そう、そうね、典明だものね……あ、ごめんなさい、私」
私の言葉に、小母さんはホロリと涙を零した。
一階から電話の音が聞こえた。今、この家には私とおばさんしかいないから、必然的に小母さんが受話器を取りに一階へと下りていった。私は中身がぬるくなってきたマグカップを置いて、もう一度部屋を見渡した。
掃除が出来ていない、という小母さんの言葉通り、よく見ると確かに棚や学習机にはほんのりと埃が積もっていた。花京院が大切にしていたゲーム機や、学校で使っていた鞄にも。
疑問が生まれた。花京院が隠し事をしていたかなんて、今となっては確認する術が無いし、そもそも花京院は隠し事をするのだろうか。兄妹のように育ったから、嘘を吐いているときの仕草や雰囲気はある程度なら互いに知っていた。花京院が何かを隠していることを私は見抜くことが出来なかったということなのだろうか。内容まで分からなくとも、何かを隠しているということくらいなら分かりそうなのに。
……違う。たぶん、違うんだ。そうじゃあないんだ。私は花京院のことを知っていると思っていたけれど、それが違うんだ。
私は、彼のことを本当に理解していたのだろうか?
もしかしたら、私は、花京院のことを誰よりも知っているんだって思い込んでいたんじゃあないだろうか。だって、本当に知っているんだっていうなら、私はとっくに花京院が何も言わずにこの家を飛び出した理由を知っている筈だ。小母さんの言葉にどう答えるべきかだって知っている筈だ。
「……なんで、家出したのさ。小母さん、泣いてるじゃん、親不孝者」
独り言ちても、この問いへの答えが返ってくることはない。どうしてとか、なんでとか、そんな気持ちがいくら浮かんできたって、それをぶつける為の矛先も解消してくれる人もいない。
花京院典明は死んだ。
死んでしまったのだ。