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 花京院とは幼い頃からの付き合いだった。幼馴染み、といえばわかりやすいだろうか。気付けば家は隣同士で、気付けば家族ぐるみの付き合いだった。
 たぶん、彼の家族を除けば、誰よりも長く一緒にいたし、誰よりも彼の性格を理解していた、と思う。そう自負出来るくらい、私が花京院と過ごしてきた時間は生まれてからの十数年の大半を占めている。幼い頃はくだらない理由で喧嘩もしたし、かと思えば、どちらかが落ち込んでいるときにはもう片方が慰めもした。私が成績よりも少し上の高校を受験することに決めたときには、私よりもずっと成績の良かった花京院は、わざわざ受験勉強に付き合ってもくれた。
 それだけに、花京院が姿を晦ましたという出来事は、当時の私にとって激震が走るほどに衝撃だった。隣にいることが当たり前の存在が、当たり前ではなくなってしまってから、ようやく自分が花京院に対して抱いていたものを自覚した。我ながらありきたりで馬鹿だと思った。これが漫画なら、すぐに飽きて読まなくなるくらい、本当に、ありふれた愚か者だ。

「警察からは、何か、進展はあったとかって……」
「……そうね、昨日尋ねたときは、特に無かったみたい」
「そう、ですか……」

 私が尋ねる度に、花京院のお母さんは独り言のような弱々しい声でそう答えた。
 藁にも縋る思いで出した捜索届けは、一ヶ月経ってもなかなか功を奏さない。手掛かりも目撃情報も少なすぎるそうだ。いつもよりも早く家を出た日の昼頃、友人の家にいるという花京院から掛かってきた電話が、小母さんが聞いた最後の声だった。
 そうでなくとも、事件性の無い失踪は警察にとって優先順位は低いらしい。電話での会話内容が事件性を匂わすものではなかったことも相俟って、警察の調査は人手の限界を感付かせていた。待つ側の人間にはどうすることも出来ない、不合理な現実だ。
 小母さんはこの一ヶ月で見違えるほど痩せた。私も、小母さん程ではないがスカートが緩くなっていた。私の家族も、私も、花京院の家族も、誰しもが花京院典明の失踪について上手く言葉を繕うことが出来ず、日が経てば経つ程私の頭はどんどんと最悪の方向へと不安を煽り立て続けた。
 花京院が行方知れずになる理由に心当たりは全く無かった。少なくとも自主的に家を出ていくような性格ではなかったし(良くも悪くも、彼にそんな度胸は無かったと思う)そもそも彼は自分の家族を大切にしていたから、家族を悲しませると分かっているようなことは絶対にしない筈だった。
 それが、私が知っている花京院典明だった。





 この数日をどうやって過ごしたのか、あまり覚えていない。たぶん、いつも通りに学校へ行って、授業を受けて、部活をして、家に帰ったらご飯を食べて、お風呂に入って、少しだけテレビを見て、寝ていたと思う。学校の友人が心配したのか、休日に家を訪ねてきたけれど、体調が悪いからと言って追い返した。本当は、身体はどこも悪くない。
 今日は月曜日だから、学校に行かなきゃいけない。けれど、どうしても行きたくなくて、行ったら授業中に突然倒れてしまうんじゃあないかなんて不安になってしまって、生まれて初めてずる休みをした。両親は何も言わなかった。
 ベッドで寝ている私に、昼食が出来たという母の声が届いた。目を覚ましてからずっと同じ姿勢のままだった。私は何をしているんだろうと思うけれど、身体が言うことを聞いてくれない。いや、そもそも起きようと思っていないのかもしれない。何だか夢の中にいるような気分だ。地に足がついていないように身体がふわふわと漂っている。これが世間の呼んでいる『怠け』というものだとしたら、怠け癖のある人は普通の人よりもずっと辛い思いをしているんじゃあないだろうか。
 なかなか降りてこない私に痺れを切らした母が、私の部屋の扉を開いた。早く食べないと冷めるわよ。そう言う母の声は分かり易く心配していた。ごめん、もう起きる。そう言葉にしたつもりだったけれど、上手く声を出せたのかは分からない。
 いっせーの、と心の中で自分の身体に合図をつけて、腕立て伏せをするように力を込めて腕で布団を押した。私の肉体は一体どのタイミングで鉛にすり替わってしまったんだろう。身体を起こしただけなのに酷い疲弊感だ。
 そろそろとカーテンを開いた。日はすっかり昇っていて、日差しの強さに目の奥が痺れた。普段ならもっと楽に動けて……普段、普段、普段ってどうしてたっけ。今まで自分がどうやって起きていたのか思い出せない。私は今までどうやって過ごしていたんだっけ。

「ご飯、冷めてきたから温めなおそうか」
「……うん」

 声を出そうとしてから声帯が震えるまでに時間が掛かった。喉のどこかに穴が空いているようだ。問題なく呼吸が出来ていることが不思議に思う。
 母が温めなおしてくれた白飯と味噌汁を口に運んだ。母の作るご飯は相変わらず美味しいけれど、この美味しさを感じることがいけないことのように思えてしまって、味噌汁の温度が私の体の奥から後ろめたさを浮き上がらせてきた。美味しい筈なのに、半分も減らせなかった。母が代わりに、とヨーグルトを出したけれど、その気遣いは私の気持ちを惨めにさせるだけで、そう思ってしまう自分に対して更に惨めな気持ちになった。
 部屋に戻ろうと思って、廊下でふと立ち止まった。廊下の小棚には黒電話が置いてある。棚の隣に置いてある椅子は母の長電話の定位置だ。
 私は受話器を手に取った。耳に当ててみるけれど、ダイヤルを回してはいないから、当然受話器の向こうからは電子音しか聞こえない。
 花京院とは電話よりも直接話す方がずっと多かった。だって隣人同士だ。電話を介するよりも、直接聞きに行った方が手っ取り早い。そのせいか、花京院の家の電話番号は未だに覚えていなかった。黒電話の横には花京院の家の電話番号がメモ書きされて置かれている。ここへ電話をかければ、何も無かったように花京院の声が聞けるような気がする。葬式に出て、見送って、彼の骨まで見たはずなのに。もう何日も経っているはずなのに、そんな気がしている。
 ゆっくりと紙に書かれた番号を回して、途中で受話器を戻した。この番号に電話をかけても花京院が出ることは二度と無い。二度と無いのだ。
 だって、花京院は死んでしまった。
 死んだ人間の声はもう聞けない。そんなの当然だ。だって死んでしまったのだから。
 分かってるのに。充分すぎる程言い聞かせ続けているのに。