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 花京院が突如行方をくらましてから二ヶ月弱が経った頃、彼は無言の帰宅を遂げた。
 無言とは隠喩だ。即ち、言葉を発せない状態で帰ってきたのだ。高校生にもなれば、その言葉の意味は聞かずとも分かる程には簡単な言い換えだ。
 花京院典明は死んでしまったのだ。
 どういう経緯でそうなってしまったのか、私は知らない。分かる筈も無い。突然両親に何も残さず行方をくらませた理由も、日本から遠く離れた地でその命を散らした理由も、極々平凡に平和に生きている私が想像することなど出来ない。同い年の男の子が、突然家出をして国外へ飛び出してしまう理由なんて、そこで死んでしまう理由なんて、分かるわけがない。
 今日は冬にしては空気が湿っていた。雨が降っているというのもあるのだろう。季節に似合わないじっとりとした空気が無性に不快に感じた。どんな季節でも、雨は嫌いだ。
 葬式の会場には、黒い服で身を包んだ人達が蟻のようにぞろぞろと集り、私もその中にすっぽりと収まっていた。他人だらけの空間は息苦しい。煙草の臭いや化粧や香水の香りが混ざっていることが、殊更それを顕著にさせている。真綿を詰められたような喉を解放したくて、会場の椅子に座り、司会者が開式を告げたとき、私は静かに深呼吸をした。
 普段折り曲げて短くしているスカートは本来の長さで履いていた。高校の制服をこんな形で使うことになるなんて、入学当時の私は考えていなかった。スカートの裾が膝に当たることに違和感を覚えたが、室内の寒さを思えばこの長さで履くことも悪くはないと思った。
 住職が大きな木魚を叩きながら、抑揚のない低音で経を唱えている。しんと静まった会場の中では、一定の拍を刻みながら紡がれるそれはよく響いた。ずんずんと響く音の振動は私の心臓へ緩やかに染み込んでいく。経の意味は知らない。宗教には執心していないし、関心も薄い。ただの文字の羅列に、死んだ魂を癒す力はあるのか。今、この場で行われていることは、実際に何か効果をもたらしているのか。本当に意味があることなのか。私にはわからない。博識だった彼の魂は、それらの持つ意味もきちんと知った上で、住職の無機物のような声に意味を感じることが出来ているのだろうか。
 若くして散った命は後悔を抱えてはいないだろうか。
 彼の魂はこの世から旅立つことが出来ているのだろうか。
 いや、死んでしまったから、何かを考えたり感じたりということ自体も出来なくなっているのかも知れない。生きている人間は、死んだ人間のことは何一つとして知ることなんて出来ない。こんなこと、私がいくら考えたって仕方がない。
 長かった木魚の音が鳴り止み、花京院の葬式が終わった。広い会場には、焼香による焦げた香りが充満していた。悲しさでいっぱいのこの空間の中で、それはとても心地の良い香りに感じた。まるで、残された人を癒すために用意されたようだ。
 出棺の前に別れ花を渡された。周りの人達が色んな言葉を棺の中へと投げかけながら花を添えていく。私も人の波に乗りながら、ゆっくりと棺へ近付いた。椅子に座っていたときには見えなかった中身が、一歩、また一歩と棺に近づく度に、徐々に視界に入ってきた。
 私は初めて花京院の死に顔を見た。
 綺麗な顔だった。本当に死んでいるのかと疑ってしまうくらい、穏やかな寝顔だ。それでも、肌には血の通った色は無く、恐る恐る触れた頬は吃驚するくらい冷たかった。本当に、死んでしまっているのだ。魂が抜けた、亡骸だ。
 それでも、ひょっとしたら、実は精巧に作られた人形なのでは、なんて考えも捨てきることが出来なかった。そう思い込みたかった。きっとそれを口にしてしまったら、大馬鹿者だと罵られても仕方がないだろう。それくらい、棺の中で横たわる花京院典明は、美しかった。
 とても恐ろしい事実が眼前にある筈なのに、これは受け入れなければいけない現実の筈なのに、目の前で行われている一連の動きが全てテレビの向こうの出来事のように見えた。ざあー、ざあー、と砂嵐の音が聞こえてくるような、そんな気すらした。周りにいる私の知らない人たちは皆泣いているというのに、目の前でフィクションのドラマを見せられている気分になってしまっている私は、大好きな人が死んでしまったという事実を前に、終始涙を流すことは無かった。
 花京院の首元に置いた菊の花が、その綺麗さが、醜く惚ける私を嗤っていた。



「なまえちゃん、骨上げは来る?」

 花京院のお母さんが私に尋ねた。出棺を終えた直後だった。

「良いんですか」
「ええ。きっと、典明も喜ぶと思う」

 彼の母の言葉を、断ることは出来なかった。断るつもりもなかった。
 式を挙げた会場よりもずっとこじんまりとした小さな部屋に、花京院夫妻を始め、彼の親戚らしい人達が十数人程集まった。
 窮屈な空間に息が詰まりそうだ。隣に立っているおじさんにこびり付いた煙草の臭いが鼻をつついて、小さな頭痛を感じた。別れを告げるには相応しくない気分だ。
 ふと一人の男性に目が留まった。花京院も男子の中では身長が高い方だったが、その花京院よりも更に大きな人だった。体格もしっかりしていて大人びた雰囲気を纏っているので、学生服ではなかったら私よりもずっと年上の人だと思ったことだろう。
 この男性は花京院が学校で作った友人だろうか。だとしたら、こんなに目立つ人、私もすぐに気付いた筈なのに。私の中に浮かんだ疑問は、式場のスタッフの一声によって遮断された。

「それではこれより、骨上げを執り行います」

 並んだ順番に、二人ずつ、花京院だった白いそれを箸で掴み、運び、小ざっぱりとした骨壷へと納めていく。プラスチックで出来た長細い箸は、擦れる度に安っぽい音を立てた。
 狭い室内は、誰かの鼻をすする音がよく聞こえる。
 目の前に並べられている焼けた骨は、まるで海岸に打ち上げられた珊瑚の死骸だ。これが、こんなものが、かつての花京院典明だったのだ。博識で、真面目で、柔和な微笑みが似合う、私が恋をした花京院典明だったのだ。箸でつまんだ白い欠片は、恐ろしいほどに軽く感じた。
 終始無言のまま執り行われた骨上げは、まるで大勢の大人が玩具で遊んでいるようだ。おかしな風景だと思った。大人に弄ばれる玩具が、花京院が気の毒だ。
 私が三度目の納骨をする前に、骨壷が花京院の骨でいっぱいになった。典明くんは若いから骨が綺麗に残って入りきらないんだ。大人の誰かが呟いた。スタッフが一礼をして、手に取った小さな麺棒ではみ出た骨を押し潰した。焼けた骨がゴリゴリと悲鳴を上げて砕けていく度に、おばさんが涙を堪えるように眉頭を押し上げた。
 あんなに大きな身体だった花京院は、サッカーボールよりも小さな入れ物に収まった。



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