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緊迫した空気に支配されて、じとりと気持ちの悪い冷や汗が背筋を伝う。
『どーするの?』
と訊けば、ルキアのつぶらな瞳が、未だに空中に向かって拳を繰り出してるチャドに向けられた。カンナの栗色の瞳もチャドに集まる。
視線を感じたチャドが振り向いて、三人の視線が交差した。
眼だけでお互いどうするのか会話して。ふと気づくと、敵である虚は上空に逃げていた。チャドがもしも電柱を振り回しても届かない距離だ。遠くから、こちらを見下ろして窺っている。
『チャド、もうそこには何もいないよ』
「…ム」
「ああ。奴はまた空に逃げた」
「空…!」
「安心しろ。私に考えがある!」
ヤツが空に逃げている間に――…と、思ったあたしとチャドだけれど…。
「……」
『……』
何を考えたのか知らねぇが、ルキアの言う通りにしてみれば。チャドの肩に抱えられたルキアの構図が出来上がった。他人から見るとシュールな光景である。
思わず沈黙してしまうあたしとチャド。ルキアだけが、やる気満々で。温度差が辛い。
『ルキア…なにもこんなところで天然を発揮しなくても……』
「……ム」
チャドが、あたしの呟きに静かに同意した。
「っなっ!姉…カンナさん!私は天然ではありませんよっ!」
「……転入生……」
『ルキア…君は天然だよ』
「…ホントに……これでいくのか…?」
閑静な住宅地で、朝からこれだけ騒いでも、住民が一人も現れないのがせめてもの救いだな。
もしも誰かが通ったら、絶対に白けた視線を頂いたことだろう。あたしも、半眼になるのをとめられない。
チャドの前髪は長く目が隠れているので、彼が半眼なのかどうかは判断できないが、彼も彼で不安を感じているらしい。念を押すようにルキアに尋ねてた。
「そうだ!貴様の怪力と私の能力!その2つを有効に活用するにはこの方法しかない!さぁ早く投げろ!」
「…何というか…すごく頭の悪い作戦のような気がするが…」
「貴様に言われる筋合いはない!」
『すごい自信だね。……チャドの馬鹿力であそこまで飛んでいく気?』
「えぇそうです!カンナさん見てて下さい!やって見せます!!」
『……』
キリッとした眼で言われても、説得力に欠けると思う。ああこんな時、ツッコミ属性の一護が恋しい。
チャドとルキアが漫才のような掛け合いをしているのを、他人事のように眺める。
いくらチャドが無茶苦茶なヤツで馬鹿力だとしても、あんなに空高く飛び上がった虚に辿り着けるのだろうか?人間じゃなかったとしても、彼女は本調子ではないのに。とは思うが、空気を読んで口にはしなかった。
音にするほど、あたしは、役に立ててないから。
《無様だな。早くオレの名前を思い出せよ。それで問題は一気に解決なんだがな》
『名前を思い出せって……あたしは、君の名前なんか知らないって』
思い出してとか言うなら、名前を教えてくれればいいのに。
謎の声の名前を知る事が出来たら、力を手に入れる事が出来る――…とか、なんとか前に言ってた。…力?死神の力の事か?もしかして……頭に響くこの声の持ち主は、死神の力に関連していると言うのか。
またも疑問が一つ増えた。
《ああマジ苛々すんな。早く思い出せってんだ》
『いや、名前知らないし。名前なんて言うの?守れるだけの力をくれるんでしょ』
《っあぁもうッ!それは、テメェが思い出さなきゃ意味ねぇんだッて!》
名前はまだ知らないが、この声の持ち主は、人を馬鹿にした性格で、実は口が悪いって事だけは判った。口調は悪いのは知っていたけど、今までは穏やかな声音だったから口の悪さは目立たなかった。
イライラした感情が乗せられたその声は、切羽詰まっていて、どれだけ口が悪いのか物語っていた。って…あたしも人の事言えないけど。
印象が悪くなるからと普段の口調には気を付けてるが、キレるとあたしも口調が悪くなるんだよね。自覚しています。
《チッ。オレの声が完全に聴こえるようになってンのに……なんでテメェは…チッ》
『おい今二回舌打ちしたな!あたしに二回も舌打ちしたなっ!』
《はぁ……こうなったら中に無理やり引っ張ってくるしかないか》
『聞けよッ!』
――人の話を訊かないヤツだな。
はぁっと深い溜息を吐いて。取り込んでいた二人が静かになったのを訝しみ視線を戻すと、チャドによってルキアが上空に突き上げられていた。
おー流石、馬鹿力だー…なんて呑気に眺めてる場合じゃなかった。
『っ!?ルキアッ!』
上空で優雅に待ち構えていた虚が、にやりとあくどい笑みを零して攻撃を繰り出そうとしているのを、見逃さなかった。
カンナの焦った声が、チャドの耳朶にもルキアの耳朶にも届く。気付いた時には、遅かった。
肉眼では確認できない距離で――…虚は何かをルキアに放っていて。
繰り出された一撃によりルキアの身体が、地上へと落とされる。ひゅうッと喉が鳴る。
カンナはテニスラケットを握り締めたまま、落下するルキアの着地地点へ走り寄った。前方でチャドも、彼女を受け止めようと動いていた。
『!』
チャドが体を張って、ルキアを受け止めたのを見て、歩幅を緩める。
虚の攻撃を受けたせいで左腕が痛い。
『ルキアッ』
「…ど…どうした…?」
「う…イヤ…すまぬ不意をつかれた」
チャドに受け止められて衝撃を和らげられて助かったルキアは、体に纏わりつく何かに眉を顰めた。ぬるりと虚とは違う生き物が肌を伝ってる。
気持ちが悪くて、「く…そッ」っと悪態を吐いた。
ルキアがイライラしている原因が、あたしの眼にも映る。どうやらチャドには視えないらしい。
『ヒル?』
「はがれろこの…ッ!」
「なんだ…どうしたんだ…?」
視えない何かと葛藤してる転校生を助けたくても、自分には視えないのでオロオロしてるチャド。
チャドの眼には、ルキアが地面に転がって独りで悪態を吐いてる奇妙な光景にしか映らない。
『ヒルだよ。ルキアはヒルに咬まれてる。……血…いや霊力を吸って…る?』
あたしはチャドに説明しながら、ルキアに尋ねた。
僅かだが、ヒルにルキアから感じる霊力が移動しているのを感じて焦る。加勢してヒルを彼女から離そうとしゃがみ込もうとしたその時、
“へへへへへ!その通り!そいつはヒルだ!吸いついたらなかなか離れねェぞォ!!”『!』
前方から、ヤツの声が聞こえて、体がぴくりと反応した。
チャドはヤツを視る事できないし、ルキアはヒルを剥がすのに手が離せない。あたしは二人を守るようにして前へ立ち、ラケットを構えた。
『ルキア!そのヒル、ヤツから出たの?分裂?』
「いえ、ヤツの分裂した小さい奴等から吐き出されました。…ですが……ヤツとは無関係ではないでしょう」
『虚って…あんな能力を持ってるのが普通なのかい?あたし、あんな力を持ったヤツは初めて見たんだが……、』
《そんな事も忘れたのかァ》
――忘れた?いやあたしはそんな情報はもとから持ってない。
眉間に皺が寄る。って、謎の声を気にしてる暇はなかったと頭を左右に振って脳内から追い出した。
「……虚は、魂魄を食べて力をつけて、成長していくんです」
『ってことは…死神を食べてあんな化け物みたいな力をつけたと?』
「えぇ。おそらくは」
厄介だな。
小人サイズの虚もまだわらわら出て来てるし、奴等はヒルを放てるときた。あー小人サイズの虚は虚じゃなくて、ヤツの体内から出来てる生物だ。同じ力を感じるから間違いない。どちらにしろ厄介だ。
虚は斬魄刀で斬らないと魂は救えない。だから一護が戻ってくるのを待つしかないのだが。
――チッ…一護のヤツ遅いッ!これ以上劣性な状況はヤバイ。
ギリリッと下唇を噛んで、ラケットを握りしめる。チャドとルキアはあたしが護る。
『………チッ』
へへへと笑うあの虚の笑い声は、とても癪に障るな。
“しかもただのヒルじゃねェ!!”「…ホロウ?……カンナ…そのホロウとやらは、そっちにいるのか?」
あたしと背後の二人を嘗め回すようにぎょろりと眼球を動かす虚から、視線を外さずに、チャドに『あぁ』と頷く。
後ろからチャドの息を呑む音がした。視えなくとも緊迫した空気というものは肌で伝わる。
「姉様…」
“そいつは俺の……”守るように立ちはだかるカンナの背中に、ヒルを離すのに躍起になってたルキアの手が止まる。
“昔”何度も、助けてもらった背中。頼もしいと安心できる背中を――…ルキアは眩しいものを見るかのように瞳を細めた。
“ターゲットよ!!”『ターゲ……、』
何を言ってるんだと眉を寄せたのは一瞬で。すぐに異変に気付く。
口笛を吹く仕草で奏でられた不快な音に、警戒して、虚の一挙一動を見逃さないよう瞬きすらしなかったあたしを、虚はにたりと嘲笑った。
パァァーン
『――!?』
「転入生!!」
『ル…キア……?ルキアッ!』
背後から、鼓膜を破るかと思われるくらい大きな爆音がして、チャドの焦った様子にルキアに何かあったのだと悟る。
振り返ろうとしたが、敵が前にいるのに視線を逸らすのは自殺行為に等しい。
「な…何が起きた…?」
「う……」
『どうした!大丈夫なのか?』
へへへと笑う虚を睨み上げて、後ろに呼びかけて。辛そうなルキアの呻き声に焦燥感が募る。
答えてくれそうなチャドは、状況が見えてないらしく、返答がない。
“へへへ…!!驚いたかァ?死神!!そのヒルは小型爆弾よ!!この俺の舌から出る音のみ反応して炸裂する!!”『おいっチャドッ!ルキアは大丈夫なのかッ!?』
“俺の能力は飛べることだと思って油断してたろ!?まったく!死神ってヤツは!!へへへへへ!!”ルキアに何が起こったのか、腹立たしくも目の前にいる敵が教えてくれた。とても腹立たしい。
「く……、…チャド…!」
『ん?チャド?』
相手の次の出方を窺うあたしの視界に影が出来たので、チラリと視線を上にずらせば、視えないだろうにチャドがあたしとルキアを守るように虚の前に立ちはだかっていた。
また勘を働かせて、拳で虚を弱らせる気なのか?
じっとりとラケットを握る手の平に、嫌な汗が流れるのにも気にせず、チャドを見つめる。一護と同じくらいの安心感をチャドに感じている自分に気付いて、ひっそりと笑った。
“…出てきたなデカいの。テメーには……こいつでどうだ?”「!!」
ルキアとカンナが睨んでる場所を見つめていたチャドには、何もないただの変わりない道端だったのに。空中から突然現れた鳥籠に、目を見開いた。
鳥籠の中には――…
『インコ…って……昨日の…』
チャドが知り合ってからずっと守っていたインコが俯いていて。訝しむカンナの言葉をどこか遠くで聞きながら、チャドは息を呑んだ。
「シバタの鳥カゴが…どうしてここに…」
〈…ゴメン、オジチャン…〉
茫然と呟くチャドを見遣る。
ぽつりとインコから放たれた魂魄の声は、哀しみに溢れていて、か細い声だったのに耳の奥まで鮮明に聞こえた。
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