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妖怪の住処に足を踏み入れたような――…肌をぴりりと刺すこの感じ。前は感じなかった。

敷地内に入った途端、ぞわりと嫌な空気を感じて。ああ…やはり“霊”が絡んでいると嘆息した。の、だけれど…前回の高校と同じく、隠されたように霊が視えない。

気配は感じられるんだけれど、異様な気配の数なんだから一人くらいは捕まえられそうなのに、今のところ浮遊霊すらいない。何かに怯えて隠れている子供のような…例えるとそれが近いかもしれない。いるにはいるのだ。


――今回も妖怪は関わってない、霊だけかな。

調査を進めていけば、領域を荒らされたとして何かしらのコンタクトはあるだろうと考察していた時だった――…。濃厚な獣の臭いがしたのだ。

むっと咽るような濃い臭いが鼻を突き刺す。


「それじゃあ安原さん、授業が終わり次第関係者をここに……」

『っ、』


鼻を抑えて思わず蹲る。ナルが動作を止めて近付く気配がした。

「どうした」と、近しい人にしか分からないナルの心配した声色が耳に届いたけど、返せる余裕はなくて。

眉をひそめた滝川さんと、瞬きしている麻衣と修君が視界の端に映った。彼等の疑問に答えたのは私ではなかった――会議室の外から沢山の悲鳴が聞こえたのだ。


「っ、なんだっ」


瑞希の変化と聞こえた只事ではない悲鳴の数に、ぼーさんが逸早く反応し飛び出した。

我に返って続く瑞希と、瑞希の様子を見ていたナルもすかさず飛び出し、三人に一拍置いて麻衣と安原も追いかける。


「どうした!?」

「…いっ、犬が――…」


廊下へ出て真っ直ぐ走ったそれほど離れてない床にしゃがみ込む女子生徒二人。

駆け付けた私達に、震えた声と手で説明してくれようとしているんだけど……恐怖で、単語しか出てなかった。震えている指先は、教室内へと向けられていて。必然的に私達の目線は、彼女達の視線の先へ集まった。


「…例の犬か」

「ちょっ…危ないよ!」


顔色が悪い女子生徒の方は、足を怪我している。

付き添うようにいる女の子は、彼女の友達なのだろう。心配そうに怪我している彼女を見ていて。二人とも、怯えていて、瞳から大量の涙を流していた。

彼女達を一旦麻衣に任せ、すくっと立ち上がったナルと滝川さんは、派手な物音がする現場内へ乱入しようとした――…。

異様な気配が漂っているのを察知した私も二人を止めようとしたが、あちらさんの行動の方が早かった。


『あ、れは…』


ナルと滝川さんの背中越しに見えたその生き物は、妖怪に慣れている私にも緊張感をもたらした。

血走った両目に、息が荒く開きっぱなしの口から大量の涎が垂れて、もはや理性がないのは誰の目にも明らかで。素人目の女子生徒達にも、下手に刺激を与えれば、命の危険もあるのだと理解できる状況だった。

電気はついているのに暗く見えるのは、ソイツがいるから。

漂う良くない空気を出している元凶は、ナルと滝川さんの存在に気付き、獣らしくハアハアと狙いを二人に定める。


『下がって!』

「!廊下に戻れっナル!」

「――!」


昔、犬神という妖怪に会ったことがある。

その名の通り、犬の妖怪。いや、彼は妖怪より憑き物が本来は正しいのだけれど、今は妖怪として一括りしておく。

犬神を使役する儀式はおぞましいが、人に使役されてない状態の犬神は理性的で、話はちゃんと通じた。


――似ているようで似てない、目の前にいる犬の…幽霊とも妖怪ともどっちつかずなソレは、なんなのよッ。

怨念の塊のようで、魂の気配がする黒い犬は、唸りながら距離を縮めようとしている。危ないっ。


『(――結ッ)』


ドア付近で逃げようとした二人より、獣の方が早かった。

重力など無視しているかの如く軽やかに飛び跳ねた黒い犬は――…真っ先に、ナルと滝川さんに鋭い爪を向ける。

内心舌打ちし、女子生徒二人を庇うように立ったまま、ソイツと二人の間に長方形の結界を張って攻撃を防いだ。当たるッと思った周囲から耳を劈く悲鳴が轟く。

弾かれ床に転がった犬の周りには、私達が駆け付ける前に相当暴れたのだろう、机や椅子が無造作に転がっていた。

結界を知っていたナルと滝川さんの二人は、何が起こったのか瞬時に把握。誰が、結界で守ってくれたのか、考えるまでもない。だが安心できない。隙を見せてはいけない緊迫した空気がその場に広がった。


『――っ?!』


攻撃を阻止され怒り狂ったソイツは、瞬きを一回した一秒も満たない間に立ち上がり、結界を切り裂いた。

結界が破かれたのだと――…当然視えているのは私だけだから。

息を呑んで、まだ立ったままだった二人に手を伸ばそうとした。聡い彼等は、私の焦った顔に、全てを把握してくれた。

グルグルルと唸り声を上げながら飛び上がった黒い犬から身を守ろうと、姿勢を低く構えた二人をあざ笑うかのように――…


「――き、」

「消えた……」


ソイツは皆が見ている前で、空中で消えたのだ。

しんっとした後、次々に悲鳴が上がる。

私達は、今の出来事を前に硬直したまま。周りは騒々しいのに、ここだけ切り離されたように静寂だった。

今目の前で見た出来事を咀嚼するのに時間がかかったのは、全員に当てはまることで。私がのろのろと立ち上がり、麻衣と滝川さんがはッと顔色を変え、振り返る。


「…大丈夫か?」

「あ、うん。あたしは別に。でもこの人が…」

『血が出てる。修君、保健室どこ』


普段なら、人当たりの良い笑みをその顔に乗せている彼は、流石にこの状況で笑みなんて浮かべてなかった。

固まった表情の修君を仰ぎ見る。以前話したものすごく頭がいい生徒会長とは、彼の事だ。


「案内するよ」

『うん、宜しく』


私と彼は、友達で、私にしては珍しく腹を割って話せる友達。異性だから真砂子とはやっぱり話す話題も違うけど、一緒にいて何も考えなくていいのは修君と真砂子の前だけかもしれない。

真砂子には私の力が露見してからの付き合いだったから下手に隠す必要はなかった。

彼には一族の話も私の力の話もしてない。

修君に関しては、ナルとは違った同族嫌悪と言いますか…お互い本音は表へと出さない性格をしているから、修君は私が人間が嫌いだと初見で見抜いちゃったのよね。だから隠す必要もなくて、初対面から楽だった。

修君の場合は、本音を知られたくないから隠しているというよりも、人を心の中でほけほけと笑っていたい性格の持ち主だと思う。人によってはそれを腹黒と言うのだろう。


「保健室に行こう。立てる?」

「あ、僕が背負います」

『もう大丈夫よ。――それじゃあ行こうか』


前半は、泣きじゃくる怪我した女子生徒に。後半は、修君に告げた。

保健室まで付き添いたそうにしていた女子生徒は、担任の教師に教室へ戻れと厳しく言われ、心配そうにしながらも私達に頭を下げて戻って行った。

こんなことで騒ぐな、戻れと叫ぶ教師達と、混乱している生徒達。

他のクラスの生徒まで目撃していたから、場を鎮めるのに教師陣は苦労している様子だった。必然的に私達は注目を浴びる結果となった。


『(結界術…視える人いないだろうけど変に思われたかな)』

「…安原さん。怪談に関係した生徒を事件ごとに分けて会議室に連れて来てもらえますか」

「わかりました」

「瑞希、残ってくれ」


『ぇ、』と吐息が洩れた。え、聞いてなかった。

修君と麻衣が大丈夫だからと言ってくれたので、私は保健室までついて行くお役目から外されたのだと理解した。

修君がいるから、怪我した女子生徒も安心だろうと思い、彼等に頷く。

“アレ”は見た感じ、害があるからとナル達に狙いを定めて攻撃をしただけであって、女子生徒が標的になったのはたまたまだっただろうから。今一人になっても、また怪我を負わせられるような事態にはならないと思ったから任せたのである。


「はー…あーびっくりした。今度ばかりは教師も“見なかった”ってわけにはいかねぇよな」


見えていても、見てないと言っていた教師達。

私達第三者と、これだけの生徒達が目撃したのだから、白を切るのに限度がある。


『…そうですね』

「しょっぱなからやってくれるじゃないか」


叫んでいた教師陣の努力が報われ、生徒達がいなくなった廊下で、私はナルと滝川さんに凝視された。――な、なに。


「お前さん…」

「瑞希がアレを消したのか」


滝川さんの言葉尻を拾ったナルによって、疑問は解決した。ナルの黒い瞳と瑞希の栗色の瞳がぶつかる。


――あー…そっか。

二人からしたら、私が滅したと考える方が自然なのね。


『いや。私じゃない』


私だってあそこでアイツが消えるとは思ってなかったのよ。と、首を左右に振って否定。

あの場にもう用がなくなったのか、それとも分が悪いと退却したのかは定かではないけど。私の仕業じゃないからね、そのところ宜しく。

一言だけで、あの黒い犬とやらはまた出てくる危険性があるのだと把握した二人は同時に顔を顰めたのだった――…。



――え、私のせいじゃないよね?え、滅しておくべきだった?

重く吐き出されたナルの溜息が、私の胸を突き刺した。御免ね、あの場で滅する勇気は臆病な私にはなかった。

いやいやそもそも私は助手の立場であって、一族だと露見した現在でもそのスタンスは変えないわよ。よって、以後もこの力を調査に役立てる気はないからねっと心の中でナルに念じた。




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