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外がかなり寒ったんだなと思ったのは、室内へと案内されてからだ。

エアコン独特の温度に身を包まれて、思いの他冷えていた手先がぴくりと反応した。温かい風に乗って、家主の香りが赤く色付いたリンの鼻を擽る。一応防寒のためにしていた手袋は外してポケットの中にある。


「こんな時間に押しかけてすみません。訪ねるべきではないと考えたのですが…ないと困るだろうと思いまして」


わざとらしい香水の匂いなんかではなく、自然な石鹸の香り。けれど、どこか花の蜜のような甘い匂いが仄かに混ざっていた。

ブラウンを基調にした落ち着いたインテリアだが、愛くるしいうさぎの絵が描かれたクッションなどの小物に瑞希が可愛い年頃の女性であると教えてくれる。クマのぬいぐるみなども飾ってあり、彼女の意外な一面を垣間見た。

もっとシンプルな寂しい内装を想像していたから。いい意味で予想を裏切られた。

生活感あふれる室内は、人の気配が感じられる家の中は、彼女のテリトリーだからだろうリンに安らぎを与えてくれる。


『ぁ!ケータイ…』

「事務所のテーブルに置いてありました」

『…忘れてました』


『リンさんが持ってきてくれなかったら、明日まで気付かなかったと思います。忘れていたのすら知りませんでしたよ』と、苦笑する瑞希さんの手の上にサーモピンクの機械を乗せた。

自分よりも小さな手の平に渡ったひんやりとする無機質な機械に感情があれば、持ち主の元へと帰れてさぞほっとしていることだろう。明るく照らされた人工的な光の下で、自分が運んでいたときよりも活き活きと輝いているように見える。

彼女の後ろからおどろおどろしい表情をしている式神が視界に飛び込み、苦笑する。

リンに認知できるようにわざわざ姿を現したらしい二人に、どうやら歓迎されてないようだと察した。言わずもがな黒狼と雪女の二人だ。もう一匹の姿は見当たらない。


「夕飯時にお邪魔してしまいましたね」


無邪気で子供のような狐がいたら話は変わったのかもしれない。穏やかに瑞希さんと会話をして楽しんで帰れただろうに、そう落胆する。

彼女の式神二人のせいで、リビングまで通されたがすぐに帰った方がよさそうだ。


「仕事ばかりしてると時間の感覚が狂うからいけませんね」


人様のお宅へお邪魔するのに失礼な時間帯だと理解していたのにも関わらず訪れたのは、時計を見なかったからではない。

気付いていながら瑞希さんに会いたい気持ちが先走って。暴走しそうな感情を持て余すのもどうかと思い、素直に自分の欲求に従って行動に移したからだ。

瑞希さんの事を考えると居ても立っても居られないなんて……自分は彼女よりも年上で立派な社会人だというのに、お恥ずかしい限りである。

恋というのはそういうものだと開き直って脳内で囁いた。排他的な彼女がリンには信頼を寄せてくれているのが優越感と希望を与えてくれるから、調子に乗ってしまう。

恋愛に対して積極的に見えないだろうリンだが――…実は計算高く、ちゃっかりしているのは、本人しか知らない。ひょっとしたらナルには知られているかもしれないが。確認してない為事実は知りえない。

涼やかな表情の下で、邪な欲望をひたすら隠しているとは露知らない彼女は、あろうことか、


『夕飯一緒に如何ですか』


リンを夕食に誘ってくれた。

ここでどうこうするつもりはないが一人暮らしの女性が男である私を簡単に誘うとは、彼女は男というものを解っていない。リンはそう思いながら敢えて男の危険性を教えないことにした。

まあ言わなくても、彼女の後ろにいるセコムが後で教えるかもしれない。だから、自分はまだ無害だよとしれっと頷いた。

本当は、エプロン姿の瑞希さんに誘われ血液がぶわッと逆流したかのような熱が全身を支配していて。下から這い上がる欲望のまま、かわいらしくはにかむ瑞希さんの華奢なその体をこの腕の中へと閉じ込めたくなっているというのに。

リンの葛藤を知らない目の前の彼女は、血色のいい頬を赤く染めて、都合のいいように解釈したくなるような誘い文句を紡ぐのだ。



『カレーですけど』



手作りが食べれるらしい。

表へと出そうなソレを口に手を当てることでどうにか堪えた。



「カレーですか」



リンさんにくすりと笑われ我に返る。


――ってなに言っちゃってんの私?!

このまま帰したくなかったっというか、わざわざ届けてくれたのにそうですかってそのまま帰すのも悪いと思って。そう他に深い感情はない断じてない。


「是非」


整った顔立ちに甘い笑みを浮かべたリンさんに、くらりとしたとか誰にも内緒だ。

クールで仕事人間で表情が変わるのは稀な彼が笑みを溢すと、きっと本人が考えているよりも威力がある。貴重価値があるよね!なんか変に緊張してきた。私の家なのに。

コートを脱ぐ彼のなんてことない動作がやけに生々しく思えて、意味ないのに息を止めてキッチンへと逃げ込んだ。

だから知らない、ジェットがリンと私の様子を見比べて、それはそれは重い溜息を吐き出してたなんて。


『あ。』


ぐるぐるとお鍋の中をかき回して、『お肉…』、やっと冷静になった私は重要なことを思い出してしまった。

ちょうどいいタイミングでリンさんが、「手持無沙汰なのも暇でして良ければお手伝いしても構いませんか?」と、来てくれて内心焦る。

誘った手前、実はあなたが食べれないものを作ってましたなんて言えず。後はサラダを作るだけだったせいか、リンさんにサラダを頼んでしまった。必然的に二人の空間になってしまったキッチンに謎の緊張が走る。


「オリーブオイルはありますか?」

『えっと、下に…』

「あ、ありました」


トマトとレタスを乱雑に出していたから、どれを使うか察してくれたらしい。さすがリンさんできる男だ。しかもドレッシングを作ってくれるのか。市販のあるのに。つくづくリンさんは侮れない。

彼にできないことなどあるのだろうか?弱点とか知りたい。悪用はしないけどこうもなんでもそつなくこなす人を見ると、弱みを握りたくなるよね。相手がリンさんだから?それとも私の性格が捻くれてるから?分からん。

カリカリに焼いたベーコンと炒り卵も混ぜて、ドレッシングと絡めてる長身の男性の姿は――自分達世代には絶対に出せない大人の魅力があって、意味もなく頬に熱が集まった。


『リ、リリリンさんっ』

「はい?」

『その、おにくっ…お肉!』

「お肉?」


なぜか単語でしか物を言わない瑞希を不思議に思いつつ。彼女の目線を辿って、リンの片目も鍋に向かう。

ぐつぐつと煮込まれてる野菜と牛肉を見て、なるほどと頷く。


「ああ。依頼が入っている間は、ナルも私も精進潔斎してますが、全く食べないわけではないですよ」

『えっそうなんですか?』

「確かに調査の数日前から、いざという時に力が乱れると困るので肉類は断ちますが。普段の食生活では肉も魚も食しますよ」


リンさんから帰ってきた意外な返答に、瑞希は目を丸くした。驚きをあらわにする彼女を瞳に焼き付けて、苦笑を溢す。

身を清めるために余計なものは断ち切ってる生活をしているが。毎日ではない。ナルは知らないが少なくともリンはそうだ。特にナルは大きな力を持っている上に、彼の半身がいない状態では、力が暴走する危険性もあるわけで。

リンにはナルのようにこれといって注意しなければならない事柄はなく。強いて言うならナルに付き合っていると言っても…過言ではないかもしれない。


『念のため?』

「えぇ、まあ。と言っても、そんなに多くは食べれませんが」

『それ歳なんじゃ…』

「なにか言いましたか」


――返事はやッ!


『イエナニモ』


無駄に笑みを寄越すリンさんから、さっと視線を逸らして。首を振る。

彼の微笑みは心臓に悪いといつも思うが、今の威圧的な笑顔は別の意味で心臓に悪い。無表情が常の癖に、笑顔に種類があるなんて聞いてないぞ。

突き刺さるもの言いたげな何かから逃げたくて元凶に背中を見せて、戸棚から食器を取り出す。今の会話は終わったのだと態度で示したのだー。

カレー皿とサラダ用の食器を人数分取り出していたら、それほど怒ってなかったのか変わらない抑揚のない声が、「そう言えば」と、後ろからした。その切り出し方をされれば自然とリンさんを見るわけで。

視線の先に立っているリンさんは、ドレッシングを和えていて、彼の綺麗な黒と合わなかった。なので油断していた。


「こうして一緒にキッチンに立っていると、」

『?はぁ』

「夫婦みたいですね」


思考が停止した私を振り返って、リンさんがうっすらと整った顔に笑みを乗せて。もう一度言った。


「夫婦みたいですね、そうは思いませんか?」


しかも同意を求めてきた。

なんだなんだ何が起こっている。この男は何を言っているんだ。

答えを待っているらしい上機嫌な彼を凝視し、ぐるぐると回りそうな視界と脳内で懸命に考える。え、ちょっと待ってくれない?あああ深く考えてはダメよ!リンさんは私をからかっているだけなのよ!瑞希、さらっと流すのよ!


「新婚みたいで照れますね」


リンは口をぱくぱくさせて顔全体を真っ赤に染めた彼女の反応に笑みを深めた。


――なに言ってるのー!あなたホントにリンさんですかー?!

こんな時に限って上手い切り返しが閃かなくて無言でお皿をリンさんに渡し、そそくさと用意して席に着いた。リンさんもテーブルに運ぶのを手伝ってくれた。

わけのわからない、だけど居心地は悪くないくすぐったいこの空気を…心臓に悪いから誰か払ってくれと念じていれば。リンさんの黒目が不意に前方へ向けられ、


「そうでした、…二人っきりではありませんでしたね」


と言われ、私の心臓に非常に悪い時間は終わりを告げた。

甘い空気を感じ取ったジェットが、寛大に鼻息を鳴らして。通常運転なヴァイスと、起きたらしいテイルも交ざり、全員で食卓を囲んだ。

二人っきりではなくて残念だと私だけに聞こえる音量で溢したリンさんを終始意識しっぱなしな夕食だった。彼はおいしいですよって言ってくれたけど、味なんてわからなかった。

とにかくこの時間が過ぎ去ってほしいと念仏を唱えて。悶々としているのが私だけなのが悔しくて、そう思っているはずなのに、いつもとは違う食卓にリンさんがいるだけでそわそわしている自分にも気付いていて。なんだかんだ楽しい時間だった。


「名残惜しいですがお暇致します」

《おー帰れ帰れ。しっしっ》


恥ずかしくてずっと黙っていた私の代わりなのか…いやいつもと変わりないか、ヴァイスが元気にずっと喋っていて。

意味深な空気を察知したジェットが、リンさんに喧嘩を吹っかけていて、テイルはジェットを指さして文句を言っていた――…にぎやかだった。

何か一つ忘れている気がするけど、胸がほっこりして幸せだなって感じた。リンさんと親しくなって度々感じる幸せ指数は右肩上がりだ。


『また夕飯食べに来てくださいね』


社交辞令ではなく本心からそう思えた。

瑞希の花が綻ぶような笑みを真正面から受け取ったリンは、顔面を手で隠して高鳴る鼓動を鎮めた。彼女のセコムが、《来んなよ。いいか、ぜってぇ来るなよ》とか、大声で喚いていた気がしたが、瑞希の笑顔の威力を前にリンの耳には届かない。

瑞希はリンの笑顔は貴重だと言っているけど、他人に本心を見せない彼女の笑みの方が貴重で威力があるのにとリンは一考した。最早凶器だろう。現にこうやってやられてる。





意外な訪問者

(……皆僕のこと忘れてない?)
(真冬のベランダは寒いんだけどー!)
(僕を忘れてイチャイチャしないでー!)
(会話は聞こえないけど見えてるんだからねっ)

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