子供に何も警戒しなくても取り越し苦労かもしれないが、俺の名前を知っているこの男の子の正体が判るまでは、微量だが警戒心が働く。けれど――…、
「あねうえが、言っておった!!その、うでわは、たいせつな人にわたすって、言っておったのだ!!」
「――は、ぇ…」
名を思い出すのを放棄した幼子が、誤魔化すように付け加えた言葉を耳にして、コンラートの耳たぶがぴくりと反応した。
――もしや…と、じわりと脳裏に、子供の言葉が浸透する。
「おにーちゃんは、それがしのあにうえになるお方なのだな!!それがしは…むらたどのはイヤだけど、おぬしならだいかんげいでござるぞっ!」
もしかしてと鈍りそうな頭を回転させるコンラートの星空の瞳と漆黒の瞳が絡まる。……言われてみれば、似てるかもしれない。
“兄上”と耳にして、昔は弟が俺の事もそう呼んでくれていたなと、母上と同じ髪と瞳を持つヴォルフラムを思い出した。
「あねうえが、しょうらいをちかった方がいると言っておられてな、さいきんずっとしあわせそうでござった!だから、それがしは、おぬしならだいかんげいなのだ!」
「…名前を訊いてもいいかな」
「それがしは、土方ゆうきでござるよっ。おにいちゃんは、えーっと」
「ウェラー・コンラートだよ。ユウキのお姉さんは、コンラッドって呼んでくれているよ」
“ヒジカタ”と訊いて、全ての疑問が解決した。
ここが、推測した通り、陛下とサクラが住んでいる地球なのかと思うよりも、サクラが弟に自分の事を大切だと話してくれていた事が、とてつもなく嬉しくて。本当にサクラは俺の事を好きでいてくれているんだと実感出来て、じわじわと温かい熱が胸の中で溢れ出る。
サクラの弟に直接会えたことにも嬉しく思って、警戒の色を消して、ユウキに優しく微笑んだ。
「こん、…コ、コンラっ」
「言いにくかったら、“コン”でいいよ」
「!コンにぃ。コンにぃのおめめ、まことにキラキラしてて、お星さまみたいでござるっ。あねうえが、コンにぃのおめめが好きだって言ってたー」
それは初耳だ。
あまりにも嬉しすぎて、頬がだらしなく緩む。サクラは恥ずかしがり屋で、あまり自分の気持ちを口にしてくれない。両想いだったことにも、数時間前に初めて知ったくらいだ。
「あねうえ…コンにぃが来てるのに、まだかえってこない…」
コンラートが遠くに住んでいるとサクラから訊かされていたらしい、ユウキは、ひとしきり喋った後、ぽつりとそう零した。
ユウキの顔が寂しそうに陰って、そんな彼に何と声を掛ければいいのか迷った。サクラがいるだろう場所を俺は知っている。彼女が今無事なのかは判らないが――…自分と同じくこの世界ではなく異世界の眞魔国にいたのだ。
もしもサクラが無事だったならば、彼女は眞魔国のあの小さな教会にいる筈で、地球にはいない。
サクラとユーリは、あちらにどれだけいても、こちらでは数分しか経っていないと言っていたから――…恐らく、サクラがバイト先から飛ばされて、まだ間もないはず。
――俺も…早くあちらに帰らなければ……。
帰らないと、陛下やサクラがこちらの世界に帰って来るころには、全てが終わっている可能性がある。良い方向に終わっていたのなら、それが一番いいのだが、悪い方向に転がってしまっている可能性もある。
なにより、俺自身が自ら動きたい。待つだけは嫌だ。それに眞王との約束もある。
「(だが…)」
俺がこちらにいるのはサクラの魔力によって飛ばされたからで。サクラは俺に、地球にいて欲しかったのかもしれない。俺にユウキを託したのかもしれない。
恥ずかしい話だが、サクラの事を誰よりも愛していると自負しているのに、俺はユウキに会うまで彼女の家族が弟だけなんて知らなかった。
情けないとは思うも、それを顔には出さずに――…「サクラは、すぐに帰ってくるよ」と、何も知らないユウキが望むだろう言葉を吐いた。
それしか言えなかった……気休めにはなるだろうと思って。このままサクラが帰って来なかったら、流石に可笑しいと気付くだろう。だから気休めの言葉を放ったのだ。
「でも、おそいでござるよ」
サクラが弟のユウキを大切にしているって、彼女の話を訊いていた俺が誰よりも知っている。尺魂界を恋焦がれていても、地球には目に入れても痛くないユウキがいるから、簡単には死ねないのだと、あの夜に訊いた。
俺は、サクラがいる眞魔国を守りたかったのに。
サクラが動く必要なんかないのに…いつも彼女は、俺に相談しないで、突き進もうとする。無茶をするから俺が守りたいと、あの戦争で誓ったのに。
それなのに、サクラは陛下の側にいてくれと俺に頼んだ。サクラはユーリが地球に帰るから、俺をも地球へと送ったのだろう。あちらの世界の魔族と人間は、例外を除いて異世界に行く事は出来ない。
例外とは、眞王陛下の手によってそれが可能になるのだ。実際に、過去俺はジュリアの魂を持って地球に来た事があるから知っていた。
今回は、サクラの魔力によって地球に来てしまった。……望んでなかったのに。
俺はあちらで、サクラがいる眞魔国を守りたかったのに。
「……大丈夫だから」
俺が苦しむのは平気だ。だけど、サクラの苦しむ姿なんて見たくない。そう思っての決断だったのに――…サクラはそれを許してくれなかった。
――勝手だと思う。
俺の気持ちも訊かずに、そんな選択して、俺が嫌だと言うのを知っているくせに、サクラは自分が傷つく事を選んだんだ。……勝手だ。
サクラに辛い選択をさせてしまった――…その事実が悲しくて、そして悔しかった。
どうして。
どうして、いつも俺達はすれ違ってばかりなのだろう――…。あの戦争の時も。今現在も。
次に彼女に会える時、俺達は同じ場所に立っているのだろうか――…。
「心配しなくとも、サクラはすぐに帰ってくるよ」
胸の中をいろんな感情がぐるぐると渦巻いて、その感情から背けたくて、辛くて、それでも自身を振るい立たせるために、有らん限りの大きな声で、雄叫びを上げたかった。
だが、哀しいかな。
叫んだところで、無駄だと頭の何処かにいる冷静な自分が無情にも呟いている。そんな事は、嫌でも、痛感してる。
軍人であるコンラートは、ここでも乱れる感情を表には出せなかった。軍人であるがゆえに。
「サクラに、すぐに会えるよ」
コンラートは、寂しさを瞳に宿してサクラを心配しているユウキに向かって、曖昧に笑った。
――すぐに会える。
その言葉は、俺の願望だ。どんな場所に足を立たせようとも、泥水を飲むはめになろうとも、サクラに会いたい。もう二度と俺に笑い掛けなくなったとしても、無事な姿のサクラに会いたい。
その想いだけが俺を動かしていて、過酷な状況に陥ったとしてもその想いだけが俺を正気で保たせてくれる。
こちらへ飛ばされる前に“聞いた”眞王陛下の声と、人間の土地にあるだろう“箱”と、サクラを思い浮かべて――…コンラートは、左の拳に力を入れた。
その頃、コンラートが新たに誓いを立てていた頃――…、
眞魔国や、カロリアを中心とした人間の土地で、謀つ者、阻む者、陥落を企む者達の様々な陰謀が複雑に絡まりはじめていることを、地球にいるコンラートはまだ気付かない。
(サクラの為に、眞魔国の為に)
(俺は俺で動くよ)
(明るい未来を思い描いて、君の幸せを切に願う)
――第四章完――
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