14-7
「何もかも終わったら、会えますから」
――たとえ望まぬ再会になったとしても。
自分がどうなったとしても、ユーリとサクラは守る。
だからサクラが危険をおかしてまで“漆黒の姫”としての使命を全うしなくてもいいんだ。ユーリは眞魔国にとって必要なお方、サクラは自分にとっても眞魔国にとっても必要な存在だ。絶対に失わせるものか。
コンラッドが心の中で新たに決意を決めたら、それを察したかのようにサクラにキッと睨まれた。
『嘘つき』
「ぇ、」
『私のことを好きだと言っておったくせにっ……コンラッドは私と離れても平気なのだな』
私とて、コンラッドを置いて守る為だとか言って、敵方に回る覚悟をしておったから、コンラッドを責める資格などないのに、言わずにはおられぬかった。コンラッドがそう決意したことに言い知れぬ哀しみに襲われた。
コンラッドを権力でも使って、なり振り構わず強制的に眞魔国に留まらせることは可能だろう、そしてその隙に私が動けばいいのだ。
だけど、いざコンラッドの覚悟を決めた双眸を見てしまったら、哀しくて己の揺るぎない心が揺らいでしまった。一度離れたくないと思ってしまえば、固めた決意もぐらぐらと揺らぐ。
ここまで狂わしてくれるヤツなど後にも先にもコンラッドくらいだろう。
「っ」
彼はユーリと眞魔国を守ろうとしている。
そこまでしてユーリが大切なのか。フォンインコット卿スザナ・ジュリアは友だったと言いながら、その魂を自分の身を顧みず守ろうとしている。
不安で、怖くて。なのに胸の中がどろッと黒い感情で埋め尽くされる。なんでか悔しかった。彼にここまで決意させるユーリにもジュリアさんにたいしても。悔しいといった感情が押し寄せる。
――嘘つき。
私のことを好きだと言っておきながら、私を平気で置いていけるのだ。
「平気だなんてことは――…」
『嘘つきっ!私のことを置いて何処にも行かぬと約束してくれたではないかッ!』
忘れたとは言わせぬぞッ!!
私が精神世界で眞王に会って熱を出したあの日――…コンラッドは、不安がる私に、そう約束してくれたではないかッ。
「忘れたわけでは――…」
『…嘘つきっ!!!私を独りにするつもりではないか!!』
「っ!俺はサクラのことがッ」
『…私のことがなんだ?』
堪えるように口を閉じたコンラッドを見上げて、彼の辛そうな表情を見て私は顔を歪めた。
――こんな事を言いたかったわけではないのに、コンラッドを責めたかったわけではないのに。
中途半端に彼と接して、拒絶も出来ぬ癖に曖昧な態度を取ってるのは他ならぬ己なのに、なに私は被害者面してるのだ!私は勝手すぎるっ。
雨に打たれて湿った風が二人の間に流れ――…黙っていたレタスの手から震動が伝わって、気まずくなり視線を逸らせば、視界に己の護衛であるブレット卿オリーヴの部下、ランズベリー・ロッテが飛び込んだ。
ロッテの瞳は心なしか早くしろと言っているようで。途端、己の頭の中は急激に冷えていく。
「サクラ俺はっ、」
『…すまぬ、今申した事は忘れてくれ。ほら、時間がないのだろう?早く行くぞ。さ、レタスも行こう』
私は彼にそれだけ言って馬を待たせている場所へと促した。極力コンラッドを見ないようにして、ロッテの側に向かう。
後ろで彼が重い足を引き摺るような気配がして、私の心はズシンッと重くなって悲鳴を上げている。
気持ちを吐露すればどれだけ楽になるだろうか。こんな想いをするくらいなら楽になりたいと叫ぶ己がいたが、みっともなく泣き叫んで彼の情に訴えかけるやり方は自身のプライドが許さぬかった。
――なんの為に、私は覚悟を決めたのだッ!目的を見失うな。
サクラは口元を歪めた。心の悲鳴に、背後からの視線に気付かぬふりをして――…。
ロッテの側には一頭の馬がいて、ユーリは既にギュンターと一緒に同じ馬に跨っている。
ユーリは珍しくギュンターとタンデムなのかと思いつつ、グレタにはコンラッドがついておるから、必然的にロッテの元に一直線に近寄る。流石に三人は乗れぬからレタスを頼もうと思って。
『……ロッテ』
「姫ボス、なんて顔をしてるんですか。覇気がありませんよ」
突いたら泣きそうな主の姿を近くで見て、ロッテは心配したが敢えて覇気がないと指摘した。
「サクラねぇさま…コンにぃ辛そうだったよ」
『…うぬ、知っておる』
「仲直りしなくていいの?サクラねぇも――…」
大人の只ならぬ雰囲気と、私とコンラッドの会話に不安を感じたレタスの琥珀色の瞳には雨とは違う雫で濡れていて。
自分も不安で怖いだろうに、私のことを心配してくれているのだと、泣きそうだったのを堪えて雨に濡れたレタスの空色の髪を撫でる。そしてロッテを見遣れば、心得ているとばかりに彼は強く頷いてみせた。
『ロッテ、この前私が頼んでおった件だが』
チラリとコンラッドとギュンターを見ると、コンラッドはグレタを抱きかかえているところで。
ブラウンの双眸に目線を戻せば、彼は私に黒の死覇装を寄越しながら、口を開いた。
「“彼”に異変はこれといって何も無かったですよ。“彼”には、ね」
『……貴様の耳にもあの存在が届いておるのか』
「ええ。混乱を避けるため一般兵には知らされてませんがね〜。俺やクルミはオリーヴ閣下から知らされたんす」
『そうか、すまぬかったな』
「姫ボスは、これを予期してたんすか?だから俺に――…」
『ロッテ、レタスを頼む』
泣きじゃくるレタスを抱えて、ロッテが乗っている馬に跨がせた。慌ててレタスを抱きかかえるロッテを横目に、私は白虎を具現化させた。
オリーヴ達がここにおらぬのに、ロッテの姿があるのは、私が彼に頼んだ件があるからだろう。きっと上司であるオリーヴにも内緒にしてくれている、内心彼に感謝して、嘆息した。
これからやるべきことが己を待っている。
迷うな。
揺れるな。
覚悟を決めろッ。
《なんじゃい》
『緊急事態だ。彼等の後を追ってくれ』
突然、馬くらいの大きさの姿で現われた白虎に私が跨ったのを見たコンラッドとギュンターは、早速馬を走らせた。
私と目があったロッテが背後で追ってくるのを確認して、白い毛並みを撫でる。己の力を媒体にしている白虎は、雨に濡れることはなく。
しとしと止まぬ雨が私の髪を濡らして、お酒の匂いを流してくれる。一向に止まぬ雨は、私の心を現しておるようで、私は自嘲気味に口角を歪めた。
『白虎』
《…なんじゃい》
『雨は嫌いだ』
《……》
『私から全てを奪っていく……』
尺魂界でも、嫌な思い出がある時は必ず雨が降っていた。己の無力で部下を失った時も。あちらで己が死んだ時も――…。
そして今も雨は降っている。
『私はやはり雨を好きになれそうにない』
《……》
主の弱弱しい声を聞きながら、白虎は前を走るコンラッドとギュンターの纏う軍人の空気を感じとって、目を細める。
主が眞王陛下と取引をしたあの空間に、白虎はいた。
いつこちらの世界へと来たのか白虎は判らぬが、ぴりぴりした空気と主の雰囲気に、その時が来たのかと悟り、過保護な青龍と過激な朱雀を思い浮かべて溜息を吐いた。
眞魔国がどうなろうとどうでもいいが、それに主であるサクラが関わっているのならば、彼女を守るだけ。優しいサクラは悲しむだろうけど、白虎は、眞魔国も彼女が守ろうとしているコンラッドも心底どうでも善かった。
雨が嫌いだと零すサクラに何も言葉を返せず。
“あの時”も雨が降っていたのだ、白虎も雨が好きではなかった。雨が降れば、主は哀しい顔をするから、嫌いではないけど好きにはなれなかった。
また哀しみと重い試練が主を待っているようなそんな予感がして、白虎は、ぱしゃりと跳ねる雫を一睨みした。ついでに主の婚約者の背中も睨んだ。
「サクラ!」
『……』
「陛下!」
叫ぶコンラッドの声は、どしゃぶりの雨の中でも嫌でも耳朶に届いた。
たとえ、聞こえづらい環境でも私は彼の声を聞き逃さぬだろう。私は変な自信があった。
「この先に教会がございます。うまくすればそこからあちらへと、移動できるやもしれません。巫女達が迅速であればで……」
チラリと見遣れば――…彼の瞳には、不安は消えて覚悟を決めた光が宿っていた。
見たくなかったその光に、私はめまいを覚え、下唇を噛んだ。私がするしかない。悩む暇も揺らぐ暇もないのだ。私も覚悟を決めよう。
未だに眞王陛下から何も聞かされておらぬ状況で、何が出来るか判らぬが――…恐れている刻はこくこくと迫っておるのだ。
「陛下、危ないっ!」
『ッ!?』
雨音で、敵の気配も足音も消されて察知しにくいのが仇となった。
ぶんッと空気を切る音とコンラッドの焦った声を訊いて、顔を上げる。と、前を走るギュンターの体がぐらりと落下するのが、やけにゆっくりと視界に映った。
ユーリの悲鳴もレタスの悲鳴も耳に届いたが、サクラの顔からも血の気が引いていた。
「ギュンターっ、どうしようごめん!おれが避けちゃったばっかりに!」
乗り手を失った馬の上で、ユーリが途方もなく震えた。
「ユーリ早く降りて。降りるんだ!」
コンラッドに叱咤されて馬から降ろされるユーリを余所に、私は冷たい地面に横たわるギュンターから目を離せぬかった。
馬から落ちた彼の服がじわりと水滴を吸い込んでいく。彼の胸から矢が覗いていて、ひゅうッと喉を鳴らした。
「サクラもだ、降りるんだ!」
《サクラ》
近寄ってきた険しい顔をしておるコンラッドに無理やり白虎から地面へと降ろされて、意識が一瞬だけコンラッドに向く。
――ギュンターは死んだわけではない。早合点するな。
そう私は己自身に言い聞かせて、冷静になろうとした。それでも両手の震えは止まってはくれず。
止血すれば、まだ間に合う。矢が急所に刺さっているのかどうかもまだ確認しておらぬのだ、結論を出すのはまだ早い。ギュンターは生きているに決まっている。
コンラッドはロッテと向かって一言二言交わしながら、ギュンターの胸の辺りを見て目を閉じる仕草をした。ロッテも、口をへの字にしているのを見てしまって、己の顔からさァァァーっと血の気が引く。
『っ』
ギュンターばかり見ていたから、白虎が己の中へと姿を消したのすら気付く余裕がなくて、ただただ現実から目を逸らしたかった。
『そっ、んな…』
嘘。
嘘。
嘘。
彼が命を落とすなんて知らぬ。私は知らぬ。
まただ。また己は目の前で大切な者を失ったのか……否、私はまだ彼が呼吸をしておらぬのかどうかは、確認しておらぬではないか。この手で、この眼で確かめなければ、信じぬ。
「まさかこんな所にまで……」
ふらりとギュンターに近寄ろうとしたら、いつの間にか側で立っていたコンラッドに腕を掴まれて止められる。
「灯りが見えますか、一気に走るから、絶対に後ろを見ないように。さあグレタの手を」
「でもギュンターが」
「いいから!」
『っ』
「サクラもレタスの手を繋いで」
コンラッドに強く言われて、レタスがいたのだと思い出す。そうレタスはロッテと共にいたのだった。…――ロッテは?
レタスの次にロッテの存在を思い出して視線を暗闇に走らせる。かち合ったブラウンの眼差しを見て、私は絶望した。あの眼…。
『ロッ――…』
「姫ボス!俺はここに残ります」
『な、何を申しておるッ!』
「ウェラー卿、姫ボスを頼みましたよ!」
「……あぁ」
『ロッテ!?っ、コンラッドッ!』
馬では目立つと三頭の馬を逆行させて、馬が来た道を引き返して走り去るのを一瞥し、コンラッドはロッテに向かって頷いた。
ロッテが何を言っているのか理解出来なくて、咄嗟に伸ばした手は反対側の腕をコンラッドに引き寄せられて宙を切った。ロッテのあの“眼”は、何度も目にした事がある――死を覚悟した眼。
ギュンターの安否も確認しておらぬのにッ!
『ロッテ、ロッテッ!』
何でこのタイミングで。ここに残るなど!それではまるで、囮のようではないかッ!敵を独りで迎え撃つなど、無謀すぎる。
突きつけられた現実に頭が混乱して、サクラはロッテとそれしか言葉を知らぬかの如くうわ言を繰り返した。
「サクラ!いいから走って!」
『やだっロッテ!』
「言う事を訊いてくれッ!」
引っ張られて無理やり足を動かされて、何度も何度も後ろを振り向いていたが――…数分でロッテの姿も目視出来なくなって。彼等が気になるのに、私は走って逃げている。
私は悔しくて堪らぬかった。逃げるしか出来ぬこの状況にも、己自身にも。怒りと悔しさが混じり合う。
『くッ』
守りたいと思った矢先に、また手からすり抜けていく――…。
何度、己の無力さを痛感すれば善いのだろうか。何度、己の無力さを嘆けば善いのだろうか。“昔”も“今”も、この手で守れたものなどあっただろうか。
上空から降り注ぐ水滴とは異なる雫が己の頬を伝った。
(泣く資格など…)
(私には有りはしないというのに)
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