14-4



『レタス、久しぶり』

「サクラおねぇちゃんっ!」


グレタがユーリにしているように私の胸に顔を埋めたレタスの温もりに、己の体が冷えていることに気付く。

横で、ユーリに抱き着いたグレタがお酒臭いよと顔を顰めて、そんな娘の言葉にぐさりとショックを受けている魔王の姿は見なかったことにして、私は、レタスの温もりを堪能した。


『眞魔国に戻って来ておったのだな。勉学はどんな感じだ?友はグレタの他に出来たか?』

「うん!毎日楽しいのっ!ちょっと前にね、帰って来たんだけど、こっちにいる間にサクラねぇと会えると思ってなかったから、あたし嬉しい!!」

『そうか。私もレタスと会えて嬉しいぞー』


結城よりも少しだけ背の高い妹の頭を優しく撫でていたら、視界が薄暗くなっておや?と思い顔を上げれば、ギュンターに遅れてグレタとレタスを連れて来たと思われる我が婚約者の姿がそこにあった。

いつも笑顔を絶やさぬコンラッドは、珍しく渋面を作っていて、彼の様子に私はレタスを抱いたまま眉間に皺を寄せた。

不機嫌そうにも見えるが――…銀を散らしたような瞳は、不安に揺れ動いていて。彼から不安がじわじわと伝わって私まで不安になって。不安が伝染する。

コンラッドに向かって口を動かすよりも早く、


「な、なななっ!サクラ様ッなんというお姿なのですかー!!!乳吊り帯……ぶッ」


またもギュンターの口から悲鳴と鼻から鮮やかな赤い雫が噴射されて、驚いて思考が飛んだ。


「うわー…」


私はレタスと一緒になって引いた。

ギュンターだけでなくユーリやグレタの視線も感じて、そちらを見遣れば、ユーリの顔はトマトのように真っ赤に茹で上がっていて、グレタは目をキラキラさせている。

ギュンターはともかくユーリの様子に小首を傾げたら、上空から「――サクラ」っと、やはり普段よりも固い声が振り落ちて、顔を上げる前にパサリと体にコンラッドの上着をかけられた。


『……あ、』


コンラッドの上着握りしめて思い出す。


――私ってば、上半身はブラジャーのままだった!!

下は黒パンツにショートエプロンだけど、上はブラジャーだけだった!!因みに本日の下着は、ピンク色をベースに赤で模様が描かれその上から白のレースがあしらわれたデザインで…一目惚れして買ったお気に入りのブラである。

見られぬように樽の中にかたつむりの如く入ったままだったのに、レタスの出現に頭からすっかりぽんと抜け落ちておったー!


『…………見た?』


涙目でぷるぷる震えるサクラに何かが胸の奥底で、むくりと頭をもたげそうになったユーリだったが、彼女の傍に立っている名付け親の様子が怖くて、頭を左右に振りつつそっと視線を逸らした。

目を逸らした先にはギュンターが目を見開かせたまま硬直していて、未だにサクラに視線の留めたままで、ユーリは普段は優秀な王佐からもそっと視線を逸らしてグレタに目を戻す。


『…………見たのか?』


しっかりと視線が交じった彼等が、見ておらぬはずがないのに、羞恥心でなりふり構わず叫びたい気分だったのをぐっと堪えて、ユーリに向かってそう投げかけた。

純真無垢なグレタとレタスは二人で顔を見合わせて、小首を傾げあっている。わなわな震えながら凝視してくるギュンターの視線を意識せぬようにして、ユーリをチラリと見る。


「み、みみみ見てないよッ!」


目と目が合った途端ユーリの顔はボボボッと湯気が出そうなくらい真っ赤になって。

嘘が付けぬ彼の性質に、私はあああああーと発狂したい気分になる。見たかどうかなど確認しなければよかったのだー!何を訊いておるのだー!ああああ恥ずかしー!

ギュンターやユーリを見れても、流石にコンラッドを見るのは恥ずかしくて彼を見上げるのは出来ぬ。故に、コンラッドが今どんな顔をしておるのか皆目見当もつかぬかった。


「みみみみ見た!でも、ほんの一瞬だから!記憶に残らないくらい一瞬だったから!おれもう憶えてないし!」

『………誠か?』

「う、ううううん!!」


どもりすぎて「うん」と肯定してくれているのか、「ううん」と否定しておるのか判らぬかったが、ユーリの必死さにとりあえず頷いておく。


――それよりも服を着らねば!

いつまでもこのままだから恥ずかしいのだ!コンラッドがかけてくれた上着に袖を通した。その時ふわりと鼻を擽った嗅ぎなれた彼の匂いに、一旦逃げた熱が頬に集まる。

コンラッドの匂いが落ち着くと思わぬかった!?今、私ってば思った!ほっとしたとか思った……、りなどしておらぬッ!

きょとんと瞬きするレタスに曖昧に微笑んで、今しがた思考した考えを頭から追い出した。深く考えるな、考えてはダメだ。“今”この場で考えるべき事でもないのだから!そう優先順位が違うのだ!


『(う、ぬ?)』


そう考えたところで、この場に私だけではなく、ユーリまで呼び出されておるのか気になった。――何故ユーリまでここにおるのだ?

眞王陛下は次に私を眞魔国へと呼び出したときに、詳しく頼みたい詳細を教えてくれると言っておったから、私が呼び出された事には疑問は飛ばさぬ。だが、今回のスタツアは己だけでの筈だが…何故、王であるユーリの姿が目の前にあるのだ。

眞王が用があるのは私だけであろう?まさか、ユーリにまで厄介ごとを頼むつもりではないだろうな?あやつめッ。

村田がまだこちらに関わっておらぬのに、ユーリに“箱”の存在を知られてはダメだ。ユーリは正義感が強くて首を突っ込む性格だから、事がややこしくなってしまう。それに危険だ。こればっかりは、私は反対する。

大賢者の記憶を保有しておる村田が側におるのならば話は別だが……村田、そろそろこちらに呼ばれるとか言っておったが、一緒に飛ばされぬかったのだろうか?


「グレタもサクラみたいにお胸がほしー」

「サクラねぇさまの御胸は柔らかいんだよ」


きょろきょろっと周りに視線を走らせて、眼鏡をかけた少年がおらぬか見渡したが、それらしき姿は目視出来ず。

はあー…と小さく息を吐き出した、ら――…グレタとレタスの会話に意識が浮上して、再び羞恥心が舞い戻る。やめてくれー何て会話をしておるのだッ

それ以上喋るなー羞恥心をぶり返さないでおくれー。今の私には二人が悪気はなくても悪魔に見えるぞー天使の皮を被った小悪魔に見えるぞー。


『ううーグレタもレタスも、後生だからやーめーてーくーれー。その話題から一旦離れようか?……それからギュンター!』

「は、はいっ」

『こっち見るな!そして先程見たのを記憶から抹殺しろッ!』

「そんな酷いです。私はこんなにもサクラ様に――…」

「黙れギュンター」


乙女のように頬を朱くさせるギュンターに、出来れば忘れて欲しいと願うサクラと、ギュンターの言葉を最後まで言わせたくなかったコンラッドからの低い声がかかった。

コンラッドは、視線で人を殺せるかの如く冷たい眼で座り込むギュンターを見下ろして、同じく床に座り込んだままのサクラをニコリと笑って振り返る。

ユーリは顔は笑顔なのに目が笑っておらぬ名付け親の様子と、よよよと汁を溢す優に二百は超えているだろうと思われる王佐の二人を交互に見遣って、「うわー…」っと引き攣った声を漏らした。

関わらずべからずだと自分に言い聞かせたユーリだったけど、その決意も聞こえてきた会話に異議を唱える事となる――…。


「サクラ、ギュンターは後で沈めておきますから安心して下さい」

『……うぬ』

「抜かりなく沈めますので、記憶も飛ぶでしょう」

『うぬ!』

「安心できねーから!!!コンラッド、何、物騒なこと言ってんだよ、サクラもなに頷いてんだよ!」


天然な癖に、ツッコミたがるユーリの言葉をスルーして、コンラッドの双眸は的確に己を捉えた。

彼の星のような瞳と近距離で絡まって、私は居心地悪く身じろぐ。コンラッドは困ったように笑って、


「俺しかこの場にいなかったのなら、眼福だとじっくり拝むのですがね…」

『なっなにを申しておるのだっ、ばっ莫迦ものめ』


などと申したので、私は金魚のように口をパクパクさせた。


「それより、」


真っ赤な顔で自分を見上げるサクラに向かってコンラッドは目をすうっと細める。サクラは様子が変わった婚約者に頭を斜めに傾けた。

彼女に引っ付いていたレタスは、空気を読んでグレタの側まで下がって二人を見守っていた。心なしか琥珀色の瞳がキラキラと好奇心に輝いていたことに、幸か不幸か誰も気付かぬかった。


『うぬ?』

「そのサクラの左肩にあった紅い痕、どうされたのか気になるのですけど、詳しく教えてくれますよね?それと、誰と一緒にいたのですか?」


疑問文なのに語尾が上がっておらぬ。


――痕…?

たまに出て来る黒いコンラッドの威圧的な微笑みに、ひやりと冷や汗が流れたが、放たれた内容に、ここへ飛ばされるはめになった原因を思い出した。


『そうだった、ここに来る前に蚊に刺されたのだ。思い出すと痒い』

「蚊?」

『そうだぞ。アルバイト先で着替えていた最中でなー…、その後手を洗ったら、ここへ飛ばされたのだ。まさか飛ばされた先がビア樽の中だとは思わぬかったが』


コンラッドの上着を肩まで下げて赤く膨れた個所を掻いた。痒い。あの短時間で血を吸われたらしい。

そう言えば私は洗面所の蛇口に縁があるのか。これまでのスタツアを振り返れば初回のスタツア以外は、洗面所から飛ばされている。

非現実的な映像を想像すれば複雑だが、素っ裸で風呂場から飛ばされたり、ユーリみたいにトイレから流されるよりマシかと思い直す。それに飛ばされる瞬間は誰にも目撃されぬのだから…まあいいか。

そう考えると、裸ではないのだからこのブラジャーを見られるくらいどうってことないな。うむ。


「そうですか」

『コンラッド?どうしたのだ?』

「あまり掻きすぎてはダメですよ。痕に残ってしまいます」


本当に蚊に咬まれたみたいだとコンラッドは内心胸を撫で下ろして、肩を丸出しにして際どい格好――…、


『のわっ』


したたるアルコールの雫も相まって艶やかなサクラの谷間を見ないようにして、渡してあげた上着のボタンを無理やり閉じてあげた。


「…………これは?」


その際にサクラの左腕に嵌められたアクセサリーに気付き、眉をひそめる。


「誰かに貰ったのですか」


低く唸った彼の声に、心臓がひやりと跳ねた。

普段、どんなに怒らせても笑顔は絶やさぬこの男の、ここまで冷たく低い声が己に向けられたのは初めてで、びくッと心臓が忙しく動く。


『じぶんで買ったのだ』

「サクラが?」

『うぬ!』


探る視線に何度もこくりと頷く。やましい事など何もないし!

サクラが自分でこういった物を買う人じゃないと知っているコンラッドは訝しんだ、が、サクラの眼は嘘を言っているようではなかったので、とりあえず納得の言葉を返した。とりあえず。


『……似合わぬか?』

「え、似合ってますよ!ただ男からの贈り物なのかと疑っただけです」

『私に贈り物する男性など、コンラッドくらいなものだぞ?』


地球では彼女に近付く虫を追い払うことは出来ないので、久しぶりに会ったサクラの変化には敏感で。だけど取り越し苦労で善かった。


『それに…コンラッドからではないと…、…その……受け取ったりせぬぞ』


言外に、指輪を貰ってちゃんと左指に嵌めているのもコンラッドだからと言われ、嬉しくなって眉間に酔っていた皺を緩めた。

嬉しがるコンラッドをチラリと見上げて、私は内心穏やかではなかった。否、コンラッドが嬉しそうに微笑むのを見るのは好きだけど、結城のように己は彼を置いていくのだと――…今更ながらに目を合わせずらくなったのだ。

それに、嬉しそうに笑っているくせにコンラッドは何処かいつもと違って纏う空気が硬い。その様子が己の不安を大きく煽る。

気になっていそうな事柄は解決したのに、それでも彼の瞳の奥には不安がチラついているようで。それが何の不安なのか判らぬが――…その不安がコンラッドの腑に落ちぬ空気に繋がるのだと、それだけは漠然と悟る。





――まさか己が眞王陛下と取引をしたことを知ったのだろうか?

コンラッドを見つめる私の双眸もまた不安に揺れ動いていた。







(言い知れぬ焦燥感が…)
(湧き上がって消えてくれぬ)



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