14-3





今日は平日で、結城を幼稚園まで送ってからアルバイト先である喫茶店に来ていた。

今日は一日がっつり働いて、お金を稼ぎたかった。生活費などをあまり祖父が残してくれた遺産に手をつけたくないのも、この夏アルバイトを増やしておる理由の一つだが、実は最近己にしては高い買い物をしたのだ。

女の私がこれを買っても変ではなかろうか?と、かなり悩んで悩みまくった結果、日ごろの感謝も込めて購入した。高い買い物だったが、後悔はしておらぬぞ!

っと、まあ本日の予定は既に決まっておったので、ユーリと村田に海の家で働くついでに遊ぼうと魅力的なお誘いを受けたのだが、誘惑に負けぬぞと己を律して、働いておるのである。

それに、海の家で働くのは少し勇気がいるしな。私はひっそりと落ち着いた空間で働きたい。因みにナンパ目的の二人に私がいてはお邪魔だろう。


「サクラちゃん、もう上がっていいよー。結城君の御迎えもあるんでしょう?」

『はい』


四十歳手前には見えぬ、茶髪の天パ頭の店長からありがたい言葉を頂いて、こくりと頷きながら『ありがとうございます』と伝え、店内からバックへと引っ込んだ。

茶髪頭で天パの男性は、藍染惣右介を思い出すから苦手なのだが、店長とは付き合いも長いので、彼にはもう苦手意識は持っておらぬ。

ここの喫茶店は、隠れ家的なお店で、ほとんどのお客は常連さんだ。レンガ造りの建物に、眩し過ぎぬステンドグラスの照明で店内を飾っていて、全体的に落ち着く空間。騒がしいお店が苦手な私には天国なお店で、ここをバイト先に選んで善かったと心底思う。

早く、幼稚園へと迎えに行かなければ、意外と活発な結城は自分で家へと帰ってしまう。行き違いになるのは御免である。

そう思って、慌てて己に与えられたロッカーを開けて、着替えようと白シャツのボタンに手をかける。

シャツを脱いで焦げ茶のショートエプロンと黒パンツだけの姿になった時、ふと己の腕に眼が止まり動作を止めた。のだが――…、


『ッ!』


左肩付近に僅かな痛みを覚えて反射的にパチンと肌を叩けば、右手に蚊だったものの残骸が……付いてしまった。少々げんなりとしつつ、ティッシュペーパーで残骸をふき取って、ゴミ箱に捨てた。

更衣室に備え付けられてある洗面所で、手を洗おうと着替えよりも手洗いを優先して蛇口をひねるサクラの左手首で、つい先ほど意識を捉えられていたブレスレットがキラリと光る。

シルバーに、アクセントとして紅い石――ガーネットでデザインされたブレスレットは、この夏一番の高い買い物の一つで。


『――うぬ?』


両手を洗って満足した瞬間、不意に覚えのある力を感じて、冷や汗が垂れた。――こ、この感じはっ!!

それが何かに気付いた途端に水を止めようとしたが、私よりも早く水の中から手を引っ張る感覚が強くなる。


『ちょっ、!』


――このままあちらに行くのかー!!!

っと、内心叫んだが、慌てて近くにあったタオルを取って、身に着けておるショートエプロンのポケットにラッピングされた箱が入っているのを確かめて、抵抗を止めた。

体から力を抜けたら――…当然強い力に引っ張られて洗面台に吸い込まれる感覚がした。

洗面台に流れる水の中へと、己の体が消えるなんて………非科学的というか、気味の悪い光景というか、現実感がなくて半眼になりそうだったのをぐっと堪えて目を閉じた。




そう、これは毎度おなじみ――…、


『ス、タ、ツ、アー』


ここで毎度の如く眞王陛下へと文句を申すところであるが、今回は目的があるので悪口雑言は唱えぬかった。

蛇口からのスタツアが多いなーなんて現実逃避をするサクラは気付かぬかった、咄嗟にタオルを手に取っていたが、水に濡れるのだから無意味になる、と。







甘味は好きでも、お酒を嗜む程度に好きだとしても、チョコレートの中に洋酒を入れるウイスキーボンボンは邪道である!!!

チョコレート本来の味を楽しめぬではないか。


――私は負けぬ、洋酒なんかにはッ!!

サクラが意味不明な誓いを立てていたのには理由があり、ふっと意識が戻ってきたと思ったらお口の中に大量にアルコールが流れ込んで来たからで。


『っぁ、かはッこほッ』

「ぐがぼ、ごびゃッ」


口内いっぱいに広がるお酒の味に、パニックになりつつスタツアは終了したのに、水面へと上がろうと藻掻いても、腕すら動かせず。懸命に頭だけでもっと思い藻掻いてみるが、地上に上げなければ呼吸出来ぬ、死ぬッ!

微かに聞こえた私とは別の咽る呼吸音と、感じる気配に、己と同じ状況に陥っているのは我らが魔王陛下ユーリだろうと見当をつけるが、未だ確認とれず。

足掻いても、足掻いても、閉じ込められている箱?お酒に浸かっているから恐らく今、私が閉じ込められているのはビア樽だろう。

ならば――…と、頭突きをする要領で蓋に向かって飛び跳ねようとした、刹那…、


「ぐぅば、ごばぼぼぼぢがびょ」

『ッ!?』


行動を起こす前に、ユーリが先に動いたみたいだ。

隣から受けた衝撃と共に浮遊感を感じて、あー…どうやら階段らしきとこから落ちておるのではー…と悟った、ら、蓋に頭がぶつかってぱかりと樽が空いた。

樽は横に転がって中に入っていたビールも床に流れて、やっと酸素が肺に入る。


『っ、はぁ』


私って、石頭なのだろうか。少しか痛みを感じぬかったぞ。

漆黒の毛先からぽたぽたとビールの雫が床に落ちていくのを視界に捉えて、ぶるりと震えた。――さっ、寒ッ!向こうは暑かったのに、なんだこの寒さはッ!もう眞魔国は冬に入ったのかー。


「……も、桃太郎ってこんな気持ちだったんかなっ」


樽から頭だけ出して、声がした方向を見遣れば、ユーリが閉じ込められていたと思われるビア樽は真っ二つに割れており、彼は裸にエプロンと誤解を受けそうな格好をしていた。

見るだけで寒そうな格好である。否、己も人のこと言えぬ格好をしておるけども!ユーリの格好を視界に入れて、ぶるりと震えた。寒い。


――そうか、あの格好で、海でバイトをしておったのだな。

サクラは人知れずうむうむと頷いたが、自分の存在を伝えるべく口を開いた。


『さあ、それは知らぬが……今度こそ死ぬかと思った』

「!サクラ!!」

『や、ユーリ。今回は同じ場所に飛ばされたみたいだなー』

「うん。独りじゃなくて良かった、…って、ここは――…」

『酒場?』


二人で見渡すと、室内はガヤガヤと五月蠅く、酔っぱらった中年男性が多かった。

唯一の女性は、ここで働いておる従業員らしく青いエプロンをしていた。女性達はミニスカートで、かなりセクシーな服装だ。

その格好で、このような酒場で働いていたら、目の前で起こっているように男性から下品な声と視線が寄越されるだろう。私が働いている喫茶店とかなり雰囲気が異なる。まあ、お酒を扱っておるお店だから仕方ない、か。

気になるのはそこではなく。


『人間の土地…であろうか?』

「わかんねー見た感じは見目麗しい女性だけど…」

『ぬ、何の話をしておる?』


――確かに魔族は見目麗しい姿をしておるけども!

婚約者であるウェラー卿コンラートも、甘い笑みが似合う魔族だし。彼の周りも見目麗しい魔族しか見た事ない、グウェンダルとかユーリの婚約者のヴォルフラムとか。

ギュンターは……普通にしておれば、可憐な印象を受ける美人さん。そう、汁さえ出さなければ。

ユーリよ、目がミニスカートから覗く太ももに釘付けであるぞ!!あからさますぎる。

年頃のユーリには刺激が強い格好なのか。ならば、今の私の姿は――…ってぇ!!!そうだった!私ってば、今あられもない格好ではないかッ!!人の眼が集まる場で、このような格好っ……あ、タオル濡れておるし…。


『(どうしよう)』

「おい、二階から樽を落っことした給仕がいるぞ。俺達の飲む酒を減らしやがった」


着替えを持ってこれば善かった…と早くも後悔をし始めた私を余所に、一人の男性が音を聞きつけて、ユーリに目を留めた。

あわわッと慌てて、私はバレぬようにと頭を引っ込めて樽へと隠れる。若干、窮屈であるが致し方ない。恥をかくよりもマシである。


「けどこいつ男だろう、この店はいつ男の給仕を雇ったんだ? まあいいや、ようにーちゃん、もう一杯……んー?」

「!っあ、」

『……』


息を潜めて、耳を澄ませる。と、声をかけて来た男とは別の男性の息を呑む音が私の耳朶まで届く。

ひやりと心臓が跳ねた。

ここが人間の土地ならば、私とユーリの髪も瞳も狙われる。双黒なんて不吉の象徴だとされておる上に、不死身の薬になると囁かれ何かと私とユーリにとって、不便だ。

思わず腰に手を当てようとしてしまった、まだこちらに来たばかりだから、青龍も朱雀も刀に具現化しておらぬのに。舌打ちしたくなった私を余所に、男性同士の会話が続けられる。

いざとなれば、瞬時に朱雀で暴れようと決め、生唾をごくりと呑んで耳を鋭くさせた。


「おいおい、にーちゃん思い切ったなあ! 髪を黒く染めるなんてよー。陛下に憧れんのも判るけどよ、熱烈忠誠親衛隊(ぞっこんラブ)に見付かったら小言じゃすまねーぞぉ?あいつら本気で陛下命だかんなぁ」

「い、いやあー…は、はは……」


ユーリの乾いた笑い声が聞こえて、ユーリには悪いけど、私はほっと小さく息を零した。

陛下に好意的な男性の科白から、ここは人間の土地ではなく魔族の土地――眞魔国であることが分かったから、安堵したのだ。

ユーリに熱烈忠誠親衛隊なるものが結成されていたなど知らぬかった。


――ラブな魔王陛下は目の前にいるのに、ね…。

ひっそりと笑ったサクラは知らなかった――…漆黒の姫なるサクラにも親衛隊が結成されているとは。知らぬが仏というやつである。未だに“姫”の立ち位置に困惑しているサクラにとって、知らない方が幸せ。





「陛下ーっ!」

『(ギュンター?)』


男性にしては高い声がして、そっと顔を樽から覗かせれば、ギュンターが必死な形相で扉を開けて酒場に乱入して来た所だった。


「陛下、サクラ様、ご無事でしたかっ!?」


深い闇を思わせる漆黒の瞳――二人分の双眸とかち合って、ギュンターは満面の笑顔をその顔に乗せた。


「げ、ギュンター」

『お、ギュンター』

「げ、とは、あまりなお言葉でございますっ。ああでもこうして再びお会いできただけでも、身に余る幸せではございますがーっ……どはっ」

『あー今日も変わらずいてくれて嬉しいよ』


白い肌を真っ赤に染めて、鼻血を吹き出した王佐を見て、私もユーリも遠い目をしそうになった。

期待を裏切らぬ反応をありがとう。

ギュンターの様子に呆れたが、ちょっとだけその反応に安堵する自分がいた。人間の土地ではなかったと実感できて。


「なななんというお姿ですかっ!? よりにもよって、は、は、は、裸前掛けとはっ!」

「裸前掛け……なに!? 違うって海パン穿いてるって!うわギュンター、鼻血鼻血っ」

「しかも何故、乳吊り帯など握っておられるのですかー」

『……乳吊り帯?』


ユーリの際どい格好に、ギュンターが汁を零すのは想像が出来た。が、続く言葉に眉をひそめた。


――何だ、乳吊り帯とは。

ギュンターの狼狽える視線を辿って、辿り着いた先には、ユーリの右手に女性用のビキニが握られていた。…ビキニ。


『ユーリ……』

「な、なんだよ!違うぞ!これは違うからっ」

『ナンパ成功したのだな、だが…仕事中に乳繰り合うのは…、その…どうかと思うぞ?アルバイト中だったのであろう?』

「ち、ちちち乳繰りッ!?」

「違うっ!サクラ何言ってんだよ!」

『どう見ても女性のビキニであるし…それ。ビキニを外す場面など限られておるだろうが』

「そっそうなのですかーっ陛下あぁぁー!!!私というものがありながらー!!!!」

「違うッ!そんな羨ましっ…じゃなくて、そんなことしてないッ!これは拾ったんだ!」

『ふ〜ん』


やけに慌てるユーリをジト目で見つめると、ユーリの顔はみるみる真っ赤に染まって。可哀相な位朱くなっているので、からかうのはやめる。

ユーリが嘘を吐くわけないから、彼がそう言うならばそうなのだろう。拾ったシチュエーションはかなり気になるのだが……忘れてはいけない、ユーリがシャイなヤツだということを。


「父上ー!サクラー!」

「サクラおねぇさまー」

「げほ……ぐ、グレタ、なんでこんなところに」


久しぶりに見た小麦色の肌と赤茶の髪のグレタは、嬉しそうにユーリにタックルをかましていた。

グレタに遅れて、私の傍へと駆けつけてくれたのは義妹のレタスで。空色の髪をふわりと靡かせて琥珀色の瞳を無邪気に己に向けるレタスに、私も体を起こしてふわりと笑い掛けた。







(やはりレタスはかわゆい!)
(サクラって…ブラコンとシスコンのけがあるんじゃ……)
(ぬ?ユーリ、なにか申したか?)
(…いや)
(ふんッ。ならば、ユーリは親バカだな)



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