なんでもない手段
■ ■ ■
「なんで、ここにいるんだ。ネズミ」
「第一声がそれかあんたは」
教室へ現れて早々、大声で叫んだ紫苑に、ネズミは思いっきり顔をゆがめる。だが紫苑は気にした様子もなく、ネズミの席へと足早にやって来た。
高校の入学式が終わって、自分の教室へと向かえば、やはりというかなんというか、紫苑とクラスが一緒だった。それは掲示を見たときからわかっていたので、まあ今さら何とも思わない。中学3年連続に続きまたか、と半ば呆れた気持ちで思っただけだ。
もう1人の少年は、いない。
春が来て、彼は消えた。文字通り、いなくなったのだ。
そういう予定だった。それは本人から聞いていた。中学も終わりかけ、春の兆しを早くも見せ始めたあの校庭を眺めながら、喧嘩別れをしたその時に。
だって、当分安心できる額が手に入るんだぜ。
およそ15の少年が口にする台詞ではない、非情で不愉快な言葉を残して、それっきり。
「だって……君は、僕はてっきり」
「落ち着け紫苑、あんた何をそんなに驚いてるんだ」
目を大きく見開き、足を組んで椅子に座るネズミを前に、紫苑が信じられないという顔をした。今にもわなわなと震え出しそうだ。
わけがわからない。ネズミは眉をひそめて真ん前に立つ紫苑を見上げた。高校入学して早々、こんな風に驚かれる筋合いはない、はずだ。
「……まさか、知らないのか?」
「……?何を?」
紫苑の疑念に満ちた目に、ネズミはますます眉を寄せる。嫌な予感がした。
「僕はてっきり、君が行くかと……そう思ってた」
「?だから、」
何のことだ、と言い終える前に、紫苑が喘ぐように遮った。
「今日、由紀が、施設へ行くって……そう、聞いたから」
紫苑を見つめる。ああ、と一拍間を置いて、口を開いた。
「知ってる」
何を言っているのだと、紫苑を見上げ首をかしげる。そんなこと、もうとっくに。
だがこちらの反応を見て、紫苑はいよいよ大きく目を開いた。
「止めに行かないのか」
「止めに?そりゃまた、どうして」
「どうして、じゃないだろう。いいのか君は、由紀が行ってしまっても」
その言葉には、息が詰まった。
いいのか。行ってしまっても。
いいわけがないだろう。だって、ずっと好きだった。中学の入学式で会って以来、ずっと惹かれていたのだから。
だけれど、引きとめ役になるには、自分はあまりにも役不足だ。
「あんたこそ、止めにいかなくていいのか」
顎を上げて、紫苑に問う。だが相手は微かに目元をゆがめた。
「……僕に、行けと?」
「そうだよ、あんた幼なじみだろう。1番、仲が良いじゃないか」
そっけなく言い放った言葉は、跳ね返って自分にうっすら刺さる。
1番、仲が良いだろう、紫苑。俺にはどれだけ願っても、手に入れられなかったポジションだ。
そんなあんたが、何を言う?
「……何を、言っているんだ」
「?聞こえなかったか?俺はあんたが、」
「違う」
紫苑が叫んだ。もう大部分の生徒が教室にいる中、ぎょっとした顔で何人かが振り返る。
なんだ、入学早々喧嘩か、乱闘か。
見物でもするかのような、不躾な視線が突き刺さる。由紀と喧嘩をしたあの日のようだと、ネズミはちらり、思った。
「叫ぶな、紫苑。うるさい」
「うるさいじゃない。君は、何もわかってない」
「は?」
困惑を通り越してむっとする。なんなんだ、今日は本当に。
苛立ちを込めて紫苑を見据える。だが黒い瞳は揺らぎもしなかった。
「1番、仲が良いのは君だろう。ネズミ」
「……は?」
「いつだって、仲が良いのは君だった。お似合いだと、僕が何度思ったか知らないのか。、由紀だって、君をきっと、」
「ちょい待ち紫苑」
両手を上げ、止める。紫苑は一瞬言葉を呑み込んだが、次の瞬間またも口を開いた。
「黙らないぞ、僕は君に、」
「違うって、わかってないのはあんたの方だ。誰が誰とお似合いだって?」
紫苑が間の抜けた顔をする。勢いを削がれた顔つきだった。
「は?……だから、君と由紀が」
「……あんたと由紀、の間違いだろう」
「……は?」
数秒、見つめ合う。
教室中の視線は、もう気にならなくなっていた。
「……どうやら俺達、盛大な勘違いをしているみたいだな、紫苑」
「え、ちょっと待ってくれないか。……どういうことだ」
完全に混乱した顔で、紫苑がこちらを見る。なんだか不意におかしくなった。腹の底から、笑いがこみ上げてくる。
「とりあえず、やるべきことはひとつじゃないか?紫苑」
「へ?」
「ほら御手をお取りになって、陛下」
「は?」
「迎えに行くんだよ。あの馬鹿な坊ちゃんを助けに、な」
立ち上がり、手を差し出す。数秒、紫苑はぽかんとしたが、状況が呑み込めていくうちに、その頬がみるみる上気した。目を輝かせ、ネズミの手を取る。
「間に合うかな」
「間に合わせるんだよ」
教室を駆け出す。後ろ手に扉を閉めて、思いっきり走り出した。
入学式だってんのに、何やってんだかな。おかしく思いながら、ちらりと横を見る。
紫苑もおかしそうな、けれどそれはそれは楽しそうな顔で、横を走っていた。
少し笑って、前へ向き直る。
間に合えよ、由紀。
あんたが取り返しのつかないほんとの馬鹿をやる前に、止めにいってやるからさ。
口を開ける。ほぼ同時に、ネズミと紫苑は笑い出した。
校舎の外には青空が広がっている。なんでもないほどに綺麗だと、ネズミはそう思った。