背中に悲痛な爪を這わせて
■ ■ ■
果たして、この感情が正しいと言えるのかはわからなかった。
だが、それでもこの思いを封じる気はなかった。――どちらにせよ、もう遅い。
「……ユーリ・テンペスタ」
「え」
夕暮れの校舎。廊下を歩いていた、彼の背中が振り返る。
美しいと思った。鈍い赤色に照らされて、ぼんやり色づく彼の姿。
あの頃にも、幾度となく抱いた感情だ。美しい。そして、かなしい。
「え、まさかの、……アラウディっ?!」
「そう。君は、ユーリ・テンペスタ、だね」
確認しなくてもわかっていることを、それでも聞く。そうせずにはいられなかった。
いくぶんか幼いとはいえ、目の前の少年は記憶の底で笑う彼と、あまりにもよく似すぎていたから。
「そうそう!なんだ、覚えててくれたのか?!」
「言っただろう。君に瓜二つの知り合いがいたんだよ」
「へえ、これはそいつに大感謝だな。おかげで俺、こうしてアラウディとお近づきになれたし!」
歯を見せ楽しげに笑う顔は、子供らしくややあどけない。それでもその笑顔の片鱗に浮かぶのは、あの頃自分の隣にいた彼と同じ面影で、アラウディはたまらない気持ちになった。
なぜ――そう、いっそ、どうして出逢ってしまったのだろう。
本当はわかっていたのだ。この子が、自分の物になどならない事を。
否、違う。「なれない」のだ。
ん?と小首をかしげてこちらを見上げる、その瞳を塞いでしまいたいと思う。
その両目を隠して唇を塞いで、このまま攫ってしまえたなら。そんな危険な、しかし非常に魅力的な考えさえ浮かんだ。ぐらつく。
でも、この子は僕の時代に生きていない、とアラウディは苦い思いを噛み締めた。
そう、そこなのだ。この子は、目の前の「ユーリ・テンペスタ」は、自分の時代に生きた「ユーリ・テンペスタ」ではない。10代目ボンゴレ、そこで自分と同じ立ち位置に属する雲雀恭弥と同時代を生きる、手の届かない存在。
悲しさはなかった。ただ惨めだと思った。
そうだ。多分、これが惨めと言う感情なのだ、とアラウディは思った。
常に誇りを持って生きてきた人生で、こんな思いを得たことはほとんどなかった。だが今、はっきりとその感情がもたらす感覚を知った。胸のあたりを強く掴まれるような、鋭い痛み。
「……アラウディ?どうしたんだ?」
「……。」
「えっ、ちょっ、ほんとどうしたんだって。……え?お前、泣いてる?」
泣く?そんなわけがない、とアラウディはぼんやり思った。
この僕が泣くなんてはずがない。惨めさを体感する以上に、そんなこと。
「ま、待ってって。今雲雀呼んでくるから、」
半ば上ずった声に、反射で手を伸ばす。行き掛けたその腕を強引に引き戻す。
そのまま引きずるようにして胸に抱き込んだ。息を呑む小さな音が、耳元を掠める。
おかしなものだ、とアラウディは笑いたくなった。全てを感じ取るための五感など、自分はとっくに失ったはずなのに。
ああそれならこの感情もおかしいのか、とアラウディは思った。惨めさも涙も、胸を焼く嫉妬も身を裂かれるような痛みも、それらを感じるための全てを、自分はとうの昔に地の底へ置いてきたはずなのだから。
「……アラ、ウディ?」
「ねえ、ユーリ」
一瞬で、床に引きずり倒す。案外手荒かったのか、ユーリの瞳が苦痛にゆがんだ。
「……お願いだから、」
続けた言葉は、叶わないとわかっていた。
それなのに告げてしまったのは、――眼前で仰向けたその肢体が、あの日の彼と重なって見えてしまったからか。
「……ねえ、」
――僕の物に、なってよ。
*「……いっ、や、だッ……!」
「静かにして」
立てた人差し指で、彼の唇を押さえる。上体を起こし、体勢を変えた。彼を押さえ込みやすいように。
濡れてぎらついた瞳が、刺すような光を浮かべてこちらを睨んだ。怒り、困惑、混乱。恐怖。
そう、恐怖だった。「彼」そっくりな瞳の奥に、「彼」には見出したことのない、その感情の色を垣間見た。未知への怯え。
その瞬間、そうか、と思った――ほとんど反射的に、アラウディの脳裏をひとつの考えが閃き、瞬く間に駆け抜けた。理屈とか理論ではなく、本能で察する。
――恐怖を持ってしてなら、「この子」の心はとどめられる。
ならちょうど良いのではないか。頭の一部、感情のどこかだけが高揚したまま、そう思った。
縛り付けがんじがらめにして、この子の全てを捕らえてあげよう。動けなくさせひとつの感情だけで、その内を真っ黒に塗り潰してあげればいい。そうして、いつしか雲雀恭弥の声さえ届かないような深淵に堕としてしまえれば、なおさら。
跳ねる手首を押さえつけ、舌で唇をこじ開ける。「んーっ、んんっ」涙混じりの抗議の声が聞こえたが、無視して暴れる足を押さえ込んだ。「あの頃」より幼く力の弱い体は、自分の手にかかれば動けなくなるのは一瞬だった。
ああ狂ってるな、そう思った。自分の舌で嬲るようにして彼の舌を吸い上げ、唾液を飲み込めずに苦しそうに目を細める、ユーリの表情を盗み見る。
可愛いと思った。そして同時に、そう思った自分に愕然として、泣きたいような、笑い出したいような気分になった。
歪んだ考えだとはわかりきっていた。同時に、この感情がひどく狂ったものだということも。
多分、許されないのだろう。許されるべきではない。
涙が目の前の頬をつたう。緩やかに放物線を描いて肌を落下していく。
辛そうに目をゆがめるユーリの両足の間へ、ぐっと自分の膝を押し当てる。
途端、たまらなかったのか、小さく声をあげユーリがぱっと唇を離した。正確に言うなら、アラウディが解放してやっただけなのだが。
「……や、だ、……んで、っ、」
「そういうわりには、反応しているようだけど」
ユーリの表情がぐしゃりと歪む。屈辱と絶望に満ちた顔だった。たまらなくゾクゾクする。好きだと、確かに思った。
好き?誰が?誰を?
目の前の「ユーリ・テンペスタ」を?
それとも自分の時代の「彼」を?
わからない。
わからなくていいかと、アラウディは思った。どうせ、答えは出ない。
「はッ、ぁ、あっ」
「だから声、」
出すな、そう言いかけてやめる。放課後の学校、夜に沈む校舎――どうせ、誰もいない。
ならば、もっと聞きたいと思った。引き出したいと思った。
「や、めろ、……って、あ、あッ、や、だ、」
「ッ、」
声、聞かせて。
そう告げたかったのは、果たして本当に目の前の少年にだったのか、それとも――あの頃、余裕綽々に笑っていた、彼にだったのか。
どちらにせよ、もう遅いとアラウディは思った。
もう遅い。だって、自分が確かに愛しいと思ったあの相手は、
『……――死ぬ気か、ユーリ・テンペスタ!!』
『アラウディ』
こめかみに、銃口を突きつけて。
『じゃあ、またな』
そう言い残し、自分を置いていったのだから。