歯車が狂い始める頃に
■ ■ ■
日々は緩やかに過ぎていった。
あまりにも穏やかすぎて、拍子抜けすら飛びこえてしまったような段階にあった。
「……英斗。起きなよ」
「むー……まだ寝るー……」
「日が完全に上る前に水をやらないと、花によくないって言ってたのはどこの誰だい」
「うわああ……起き、なきゃ……」
「って言いながら目を閉じるな馬鹿」
ガバッと無慈悲にシーツを剥がされ、英斗はぎゃあっと悲鳴をあげる。
「鬼!恭弥が鬼!」
「咬み殺してあげようか」
「すみません嘘ですゴメンなさい!」
叫ぶだけ叫び、慌てて飛び起きる。
隣には心底残念そうな顔で立つ恭弥。その両手に構えられたトンファーを見て、英斗は思わず青ざめた。まさか、本当に咬み殺すつもりだったのか。
「……嘘だよ」
ふわり、空気が揺れる感覚がして、恭弥がトンファーから手を放す。
ごとん。床に落ちたトンファーが、思ったより軽い音を立てた。
「英斗」
緩く、確かめるように名前を呼んだ恭弥が、こちらの頬にそっと指を伸ばす。
なんとなくその手つきが心もとなく感じられて、英斗は不思議に思った。
「……恭弥?」
一度名前を呼んだきり、恭弥は口を開かない。
ゆるゆると頬をなぞる指の感触が気持ち良くて、英斗は静かに目を細めた。
「……恭弥、なんか優しくない?」
「僕はいつでも優しいでしょ」
「ええ」
「何、文句があるの」
「アリマセーン」
「そうだね」
くすり。頬を緩めて笑う、その顔が愛しくて仕方ない。
「……英斗」
「……?恭弥?」
「ねえ」
君は、僕のことがすき?
数秒、息ができなかった。
声も出ないまま、ぽかんと恭弥を見つめる。
え?
緩く、頬を撫でる恭弥は、優しく微笑んだ。
見たことのない笑みだった。少なくとも、英斗が、初めて見るような。
「……何でもないんだ」
するり、頬から指先が離れていく。
とっさにその手を掴もうとして、逆にぐいっと腕を引き寄せられた。伸ばした手は、ただ空を掴む。
「……いいんだ。忘れて」
僕が好きなら、それでいいから。
たぶん、その時が初めてだった。
一瞬、抱きしめた恭弥がくるり、こちらに背を向けて、離れていくのを呆然と見つめながらーー初めて。
そう、やっと気が付いたのだった。
初めて、恭弥に好きだなんて言われて、そうしてーー。
何かが、おかしい、と。