これが、最後の悪夢
「もう嫌だ」
呟いた途端に、面白そうに振り向かれた。目深にフードを被っていたって、前をゆく相手の顔はよくわかる。予想がついてしまう。この数年間、まるで相棒のように一緒にいたのだから。
うわ嫌だなこの例え。自分で思ったくせに嫌悪感が半端じゃない。
「珍しいねぇ、お前がそんなこと言うだなんて。リューマ」
「柄じゃない、か」
「ああ。ゼーンゼン」
「断言してくれるじゃん」
ため息混じりに足を進める。同時に軽く手首を振った。
「おっと」
呟きが聞こえる。何でもなさそうな物言い同様、こちらを向いた体は僅かも身動きをしなかった。一瞬カンッと高く鳴ったのは、ナイフが壁に当たった音か。
チッ。舌打ちをする。
避けやがった、コイツ。
「おいおーい、仲間割れはご法度だぜ」
てかいきなりナイフ投げるかフツー?
そう言い笑う男は無視する。足早に真横を通り抜けて、夜の闇に沈む路地を進んだ。
いかにも軽薄そうにケラケラ笑うこいつの言う通り、確かに「仲間割れ」はタブーだ。ここ、自分の所属するマフィア・ヤコブでの絶対ルール。三大タブーのひとつ。
残り2つはもっと単純で簡潔だ。
「裏切り」と、「死」。
「あんさ」
パシッ。腕を掴まれる。
眉をひそめて横を見上げた。
相手もけして大柄な方ではないが、平均身長を下回る自分にとっては大抵の人間が見上げる形になる。チビなんじゃない、ちょっと成長期が遅れてるだけだ。
「……何」
せいぜいぶっきらぼうに返す。こちらを見下ろすレイトの口元は、もう歪んでいなかった。それを目に入れて、ひくりと心臓が引き攣る。
嫌な予感がした。
冷たい汗が背筋をつたう。落ちる。
「なに、――ッ!」
とっさに踵を引いたのと、耳下を刃が突っ切ったのはほぼ同時だった。
「……っな、」
肩がすくむ。恐怖ではなく反射だ。
繰り出されたナイフは、自分の耳朶1ミリ横で停止している。
確実、ギリギリだ。先ほどとは違う意味で冷や汗が伝う。
危なかった。
避けなければ、”頸動脈を切られていた”。
「なんのつも」
「抜け掛けなんて野暮だぜ。リューマ」
は?
一瞬、遅れて来た激情任せに激昂しかけて、顔をしかめた。何の話かわからない。
「……何の話かな」
「ヤコブの三大タブー」
遂に言葉が通じなくなったか。
冷めた目で見上げる。元々感情の機微がわかりにくい相手ではある。が、それ以上に脈絡がない。なさすぎる。
自分の頭上、フードの下で影に沈んだ目元は見通せなかった。ただ、唇だけが薄く開く。
「仲間割れ、んでもって裏切りと死ぬ事。その馬鹿げたタブーがある限り、オレ達は誰1人、このヤコブから抜け出せない。確実に」
けど。
ぐっと手首を引かれた。目を見開く。
「、にを」
「けど、お前なら、……リューマ」
刃がぴりっと痛んだ。腕を引かれた拍子に刃が肌を掠めたからだ。
眉を寄せてやり過ごす。近付いた男の、ここ数年任務を共にしてきた相方の顔を見つめた。
相変わらず、フードが邪魔だ。何もわからない。
「……けど、お前ならいつか、”そのタブーすらかいくぐる”。……そうだろ」
「は?」
「だけど、オレは許さない」
喉元が震える。言葉を発するために開いた口は、ただ掠れた吐息を漏らした。
初めてだった。
初めてだった、と思う。この男に、恐怖に近い感情を抱いたのは。
「オレとお前、今まで幾度も修羅場を共にしてきた」
「……まあ、それは認める」
「今更1人でおじゃんしようってったって、」
掴まれた手首が痛い。ぎしっと、確かに骨の軋む音がした。
ナイフの掠めた耳朶が熱い。刃は冷たかったのに、傷口は火傷を負ったかのように痛んだ。
「そりゃねーな。オレを置いていくんなら、」
ナイフが動く。
耳朶をつうっとなぞり、首の皮膚を滑り、止まる。
鎖骨の上、首の付け根。
ひくり。喉が上下した。
「死ぬくらいじゃなきゃ、不公平だろ?」
金属音が耳を打った。鼓膜を針でぶっ刺したような高温に、自分でやっときながら顔が歪む。
だから、攻撃は苦手だ。避ける方がずっと無難で安全で、
「ッ、」
「冗談じゃない」
顔をしかめたまま、右足を手加減無しに振り下ろす。引き倒し馬乗りにしたレイトの肩へ。勢いよく。
「っ!!……っく、お前なリューマッ、」
「あんたに殺されるなんてゴメンだ」
ひたり。ナイフを首筋に当ててやれば、眼下の顔はひときわ歪んだ。
フードの外れた顔に、自分の顔をずいっと近づける。レイトの目が迷惑そうに細まった。
「近い近い、オレお前とキスする気とか毛頭ないよ」
「数年来の仲だろ。キスぐらいどうってこと、」
「あるっての。それ本気?」
「ホンキ?お前の頭は中身空っぽ?」
んなのこっちから願い下げだっての。
ばっさり切り捨てナイフを振り上げる。レイトの目がぱっと開いた。
だが、ナイフは天井へ真っ直ぐ飛んだ。一直線に上へ飛び、そのまま糸で引くかのごとく落下する。
すんでのところで受け止めた。引き倒した相手の、その首元の皮膚ギリギリ手前で。
「……ひやひやさせんな」
「お返し」
うっすら笑って見下ろす。自分より体格の勝る相手を見下ろすのは気分が良かった。特に、この男は。
「おま、」
「そんなに死にたいなら、俺があんたを殺す。レイト」
レイトの目が動いた。瞳孔が蛇のように細く、鋭くなる。
猜疑を色濃く満たした目だ。
「……へえ?」
「いつか、必ず」
呟き、ナイフを動かす。まるで線を引くように、首と垂直に刃を置いた。
決意というほど小奇麗ではなく、宣言というにはおぼつかない。だが、戯れのつもりはなかった。
一種の予感でもあった。多分、いつか。
いつかはわからないが、おそらく。
自分とこの男は、必ず片方が片方を殺す。
必ず。
「……それはそれは、見ものだね。是非――」
首元、人間の急所に確実にその切っ先を向けられたまま、しかし真下の顔は楽しげに歪んだ。
「――是非、殺してみてよ。オレの事」
リューマがヤコブから姿を消すのは、その数か月後の事になる。