いつまでも、今の君だけを
目を開けた。
誰かの泣き声が聞こえて、あれ、と思った。
泣き声?いや、違う。
名前だ。
俺の名前を、呼ぶ声。
「……シー……」
ゆっくりと、視線をさまよわせる。
滲み霞んだ視界の中、黒々と立ち並ぶ鉄格子が見えた。
そのすぐ向こうに浮かび上がる、人の姿。
「シー……すまない……」
ぼんやりと、その影を見つめる。
未だはっきりしない意識の中、相手が鉄格子を両手で掴み、額を押し付けるようにしてこうべを垂れているのだとは、なんとなく理解した。
ただ、わからない。
―― 一体、何に対して謝っているのか。
「シー、お前に……お前が、そんな……を……」
どうして、なぜそんな声で謝っているんだ。
なんでだよ。やめろよ。
――だって、悪いのは俺なんだ。
何も悪くないと言っておきながら、でもやっぱり全ての元凶は俺なんだ、ってそんな、当たり前の事実を。
俺は、いつまでも認められずにいる、ただそれだけの話なんだ。
だから、お前が謝る必要なんて欠片も無い。
そんなに強く、ただでさえ白い指先がさらに真っ白になるほど強く鉄格子を握り締めて、今にも泣き出しそうな、そんならしくない声で必死に言葉を紡ぐだなんて、そんな。
そう、そんなのやめてくれよ、アル。
だって悪いのは全部俺で、お前はいつまでも変わらず真っ直ぐで強かで美しく、こんなに汚く惨めで歪な自分とはどこまでも対極で。
俺が焦がれ諦め、泣きたい程に望み続けた、穢れのない、あの揺らがない瞳を持っているのに。
なのに、どうして。
「……アル……」
「! シー!!」
手を伸ばす。重たい身体はゆっくりとしか起こせない。
指先はまるで自分の物じゃないみたいに鈍い感覚だったけれど、それでもアルヴィスの頬に触れることはできた。
冷たい。ちょっと濡れている。
え?
「シー……」
「……んで……泣いてんの、アル……」
お前、いつだって涙なんか見せたことなかったじゃんか。
修業中だろうと酷い怪我を負おうと、出会った9歳の頃からずっと、お前は唇を噛み締めていた。
そう、ファントムの残虐に耐えきれず、クロスガードの仲間の亡骸の前へ飛び出し立ち塞がった、あの時がきっと最初で最後。
なのに。
どうして今、そんな痛々しい目をしているんだ。
「……くな、かなしいことが、あるなら……」
「シー」
「おれが、全部消してやるから……」
「シー……!」
「幻覚で隠すことだってできる、から……」
ねえ、そうだよアル。
6年前、俺の心を救ってくれたお前のためなら。
お前の元にとどまれるのなら、俺はなんだって。
「違う……ッ!」
「え……?」
触れていた頬の温かさが、遠ざかる。
同時に伸びてきた白い手に、鉄格子ごと指先をきゅっと掴まれた。
「違う……違うんだ、シー……オレは……」
「アル……?」
わからない。ただ混乱する。
だけど俺以上にアルヴィスが混乱しているように見えて、俺は涙の跡の残る頬へ、ただもう片方の手を伸ばしていた。
握られた指先は、やたら低い俺の体温だけを感じさせる。
「お前が、6年前会ったその前まで、どんな日々を送っていたのか……オレは、全く知らなかった、だから……」
アルヴィスの表情が歪む。それが間近ではっきりわかって、俺はどうしようもなく泣きたくなった。
その顔は、6年前ファントムと対峙したあの日以来、俺がアルヴィスに1番させたくない顔だったのに。
「シー……お前は、何も悪くないんだ。6年前、あんなにも側にいたのに、お前の事を何ひとつ知ろうとしなかった、オレの方が、ずっと、」
「! アル、」
やめろ。
それ以上は。
俺はとっさに自由な方の指先でその唇を押さえる。怠い体を動かして、鉄格子の隙間から薄く柔らかなそれの動きを封じ込む。
その口は綺麗な言葉だけ紡げばいい。
その唇から零れるのは真っ直ぐな御託だけでいい。
間違っても、「俺が悪い」だなんて、そんな。
「シー」
アルヴィスの手が、俺の指先を静かに外す。
6年前、俺を貫き恐怖さえ覚えさせた、あの青い瞳は何も変わらず、ただほんの僅かに滲みをたたえて、真っ直ぐに俺を見つめていた。
そこに、嫌悪も忌避も哀憫も無い。
俺が予想し、恐れ受け入れようと諦めた、どの、どんな感情も、何ひとつ。
「例えお前がどんな過去を持とうと……オレは、お前を……今のお前の全てを、信じる」
10年前のあの日、禁忌の扉を開いた瞬間に戻れたのなら。
幾度となく思い、自答した無駄な問いだ。
あの中へ入り込まなかったら。兵士に見つかる前に抜け出せていたなら。
そうしたら、俺も俺の両親もカルデアを出ることなどなく、きっともう少しマシな人生を送れていたんじゃないか。
でも今この時この瞬間のこのためなら、そんなこと全部、どうだっていいかもしれない。
目の前、逆三角形のペイントタトゥの上に涙を滑らせ少しだけ微笑む、
そんな見たこともないほど綺麗で鮮やかな青がぼやけて見えなくなっていくのを感じながら、
俺は何年か振りに声を殺して泣いていた。