侵食の夜
『……シー』
『アルじゃん、どしたのー?』
『……これを』
『? ……何これ?』
『花……向こうの池に、咲いていたんだ』
『え?』
『少し……もらってきた』
この白い花、
きれい、だと思わないか。
△▼
「……ッ!」
目を開け、がばっと体を起こす。荒い呼吸に上下する胸を押さえ、はあ、と詰めていた息を大きく吐いた。
窓に目をやる。真っ暗な空にこうこうと輝く月。
嫌な夢だ。もう、何年も前の。
「……なんで、今更」
はは、と乾いた笑いをこぼし、両手で顔を覆ったところで。
「らしくないね。弱音を吐くだなんて」
鳥肌が立った。
ぱっと声の出どころへ顔を向ければ、ベッドの足元に腰掛け微笑む白髪。
冷たいものが背筋を滑り落ちるのを感じた。
魔力の気配なんて微塵も感じなかった、はずだ。こいつ、いつの間に。
「……やあファントム、久しぶりだねえ」
「本当に久しぶりだね。元気そうで嬉しいよ、シー」
ボクの、お気に入り。
1人はベッドから身を起こしたまま、1人はその足元に腰掛けたまま。
一見なごやかに見つめあっているようにも見える両者の間に、しかし少しずつ高まっていくのは、確かな緊張感。
「……ファントムのお気に入りになった覚えは、ないんだけどなあ」
「へえ、そう?」
くすり、片頬を上げるその笑いに、シーは嫌な予感を覚えて立ち上がった。
すばやくファントムの座る反対側に降り立ち、手首のアームを発動させる。
途端、その手に握られる銀のダガー。
「ダメだよ」
動きを見せることもなく甘ったるい声で囁くファントムに、シーは背筋がぞっとするのを感じた。
「本当はキミと一戦しようと思ったんだけど、」
ゆらり。
立ち上がる、No.1ナイト。
「もっと、面白いことがしたくなったよ」
瞬間、目の前がぶれた。
△▼
カランカラン、とダガーが床を転がる音が聞こえた。
よろめく体をどうすることもできず、膝から崩れ落ちそうになったところで冷たい腕に支えられる。
「……くっ、」
「だめだよ、大人しくしてなきゃ」
苦痛に耐えきれず息を吐き出すと、頭上から優しい声音が降ってきた。
やばい気持ち悪すぎる、とシーはあがる呼吸を抑えようと目を閉じる。
「そうそう、そのまま動かないでね」
ドサッ、とベッドに倒れこむ音は遠くに聞こえた。
うっすら目を開ければ、視界を覆う肩までの白髪。頭の横で押さえつけられた手首に、腹の上に乗る重み。
「……なに、してんの、かなあ?」
「痛いかい?」
痛いよね?とファントムは愉しそうに笑う。
痛いに決まってんだろこのドS、とシーは腹の中で毒吐くと、途切れがちになる呼吸に唇を噛みしめた。
プチ、とやけに可愛らしい音に目を落とすと、シャツのボタンを外し前を開ける司令塔。
「って、め、」
開放されていた手首を上げた瞬間、膨れ上がる魔力の気配。
走る激痛に思わずうめき声を上げると、力をなくした手首がベッドにぱたりと沈み込む。
「……ちゃんと進行してるみたいだね」
うっとりとした声に吐き気がした。
暴かれた胸元を飾る、黒い不気味なタトゥ。
そっと冷たい指でなぞられれば、ナイフで切り込まれているかのような痛みが走った。
「あ、ぐっ……」
「ふふ、色っぽいね」
「っ、死、ね」
どこがだ。
戯言を吐くファントムを、なけなしの力を込めて睨み上げる。だが相手は当然怯むこともなく、こちらを見下ろすと楽しげに微笑んだ。
「……早く、廻り切ればいいのに」
「う、ぁっ、」
小さな囁きとともに、皮膚を焼かれるような痛みが走る。
温度の無い指がタトゥをなぞり、胸を、鎖骨を、首を、そして唇を、押す。
「くっ……」
必死で唇を噛みしめるが、呼吸の合間からこぼれる苦痛の声は抑えられない。
くつくつ、とファントムは唇の端をつり上げると、至極楽しげにシーへと顔を近づけた。
「早く、同じになろうよ、シー」
「……そ、れは、ごめん、だなっ、ぁ、」
「どうして?」
激痛に滲む視界に、ゆらりとぼやける赤い瞳。
「ボクとキミはよく似ている、そうは思わないかい?」
「……は、ぁ? 、あ、ぐっ、」
「ボクは人間を忌み嫌う、キミはこの世界を忌み嫌う。ねえ、ほら一緒でしょう?」
いっしょでしょう、なんて。
「ばっ、かじゃ、ねーの、」
切れ切れに言葉を紡ぐ。
バカじゃねーの、ほんとに。
「おまえ、と、一緒に、なった、ら、」
喘ぐ自分の声が耳障り。
ああ、耳切り落としたい。
痛い。全身が痛い。
「……アルヴィス、に、」
嫌われるだろーが。
最後まで言う前に、激痛に意識が沈んだ。
△▼
『……シー』
『アルじゃん、どしたのー?』
『……これを』
『? ……何これ?』
『花……向こうの池に、咲いていたんだ』
『え?』
『少し……もらってきた』
『え、なんで?』
『この花、……きれいだと、思わないか』
こちらをまっすぐ見上げる瞳はどこまでも青くて。
一瞬、呼吸ができなくなった。
ごめん、思わなかったよ、アル。
だって俺、この白に血を飛ばしたら映えそうだな、って考えてたから。