蠢きだす片隅
 文字が全部意味をなさない記号の羅列に見えてくる。もう駄目だ。
「あーくそ……」
「大丈夫かよ夜無」
 ぎょっとした夜無月の顔を覗き込むのは、人の良さそうな細身の男。
 しかし刀を持てばその腕は計り知れない、ボンゴレ2大剣豪の名を誇る山本武、彼は今心配そうに夜無月の顔を至近距離で見つめていた。
「……あー、武かあ、まじびびった……」
「めずらしーのな。夜無が気づかねーとか」
「お前と恭弥はまじ気付かない。あ、あと骸も」
 指を折り夜無月は言葉を重ねる。それからふっと上に視線をやり、困ったように口角を上げた。
「……武ー」
「どーかしたのか?」
「……どーかするっての」
 呆れと照れの中間のような、微妙な表情で夜無月はぐい、と山本の顎を手のひらで押した。
「近いっつーの」
「男同士だろ?照れんなって」
「お前ってなんでそんなんなのにマフィアとしての才能はピカイチなんかな……」
「褒めてくれてんのか?あんがと夜無」
 にやり、変わらぬ調子で笑う山本に、夜無月もとうとう吹き出し頬をかいた。
「やー、参るね武には。まじ調子崩される」
「ところで何してんだ?夜無は」
 ひょい、机から軽く持ってかれた分厚い書類に、あ、と夜無月は目を見開き手を伸ばす。
「待て待て待て、返せ武」
「やだなのなー、て、ルモーレ……?」
 夜無月の抵抗も虚しく、あっさり書類を開いた山本は目を丸くする。
「これってアレだろー、最近盛り返してきたっつー……」
「そう。イタリア南部を拠点とする、中の上マフィア」
 ひらり、鮮やかに山本の手から辞書のような書類を奪い返した夜無月が答える。
 あまりの華麗さに、自分の手から書類の束が消えていくのをただただ見ていた山本は目をぱちくりさせる。そして、小さく笑うと椅子に腰掛けていた夜無月の頭に手を置いた。
「何すんだよー」
「ひじ掛けー?」
「なんでやっといて疑問形」
 重てえよ、とむむっとした顔で上目に睨む夜無月に、へら、と楽しげに笑う山本。
 そのまま悪戯に体重をかければ、うわあちょっ待てよ、と夜無月は椅子からずり落ちそうになりながらも、その藍の目を細めて軽やかな笑い声を響かせた。

「……で、なんでまた唐突に?」

 そこへ、すっと真顔に変わる山本。
 相変わらず喰えない奴、と内心で苦笑しながらも夜無月は軽く肩をすくめた。頭に体重をかけられたまま行うには、なかなか難儀な動作だ。
「べっつにー。ディーノが嫁に行くって言うからさあ」
「あー、ディーノさんが、な。そういえば……」
 傷の残る顎に手をやり、山本が思い出した、と目を見開く。
 が。
「……ちょっと待て夜無。嫁に行くってのはおかしーだろ」
「じゃあ嫁ぐ」
「それも間違い」
 おかしそうにこちらを見下ろす、その黒い瞳はやっぱり楽しそうに澄んでいた。だがその奥に疑惑の色が浮かんでいるのを、夜無月は当然見逃さない。
 本当に困った奴だ、と笑いは内心にとどめ、夜無月は少しだけ口の端を下げた。
「……ちょーっと気になる事があるだけだから、気にしないで武」
 す、と手首を上げ、夜無月はその細い指を伸ばし頭上の顎をつつ、となぞる。
 なめらかな頬の輪郭を辿れば、その指を捕まえ山本は口元を緩め相手を見下ろした。
 独特の色の瞳を光らせる、どこか妖しげな艶やかさを纏う細身の青年を。
「……そー言われっと気になるのが俺なんだなー」
「だよなー、やっぱ」
「それに、この量は2人の方がぜってー早えって」
 山本が指差した先には、数多の紙の山が積まれた机。
 右手を掴まれたままの夜無月はしばらく視線をさまよわせていたが、やがて諦めたように目を伏せ笑んだ。
「……もー、わかったわかったわかりました。なら武、手伝ってくれる?」
「手伝うも何も、ハナからそのつもりだぜ俺は」
「やー、そのうちお礼しなくちゃなあ」
「お礼ならコレでいいぜ?」
「ん?」
 きょとん、とこちらを見上げる夜無月に、山本はくいっと掴んでいた指先を引く。


***



「……何、みんなキス期間なの?」
 唇を離した途端、わけのわからない事を言い出した相手に山本はまたも目をパチクリさせた。
「……は?」
「や、なんか皆やたらと俺にキスを……って、んなことどうでもいいんだよ」
 ガタリ、大きな音を立てて椅子から立ち上がった夜無月が突如話を打ち切るが、山本個人としては非常にどうでもよかない話題である。場合によっては刀を振るう必要性が発生する事態だ。
「1時間で情報収集終わらせたくて……武、こっちの山よろしく」
「1時間?!待て待て、さすがに無理だろ」
 未だもやもやしていた山本も、夜無月の発言にぎょっとし一瞬で思考を切り替えた。
 目の前にはそびえ立つ書類の山。
 これを、あと1時間で?
「なんでそんな早く?」
「明日の朝には発ちたいんだよ」
「……え?」
「明日の朝の便取っちゃったし、思い立ったが吉日、ってね?」
「……はい?」

 ニヤリ、口元をつり上げ笑ったその顔は、ひどく妖しく艶かしかった。

「……俺の予感が外れたことは、未だ無いんだよなあ」

 ぼそり、付け加えられた言葉の影に、山本が気付かない程度には。


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