よぎる予感
「……どうしたの?Dino」
流暢なイタリア語で呼ばれて、我に返る。
綺麗な発音、イタリアで生まれイタリアで育ったもの。
綺麗な金髪、イタリアらしいそしてイタリアでも上位に入るに違いないもの。
綺麗な顔立ち、イタリアそのもののイタリアでも持て囃されるだろうもの。
綺麗、綺麗だ。
……でも、あいつの2分の1にも及ばない。
「……ごめん」
怪訝そうな顔をする女に向かい、ディーノはいかにも困ったように微笑んでみせた。
「ちょっと仕事が忙しくてさ……疲れてんだ」
「……そうなの」
今日はもう終わりにしておく?とこちらの瞳をのぞき込んでくる女の青い目にうんざりする。
その目の奥には欲情の穢い光がチラついていて、言葉とは裏腹にやめる気なんて無いのは明白だった。
「……まさか」
小さく笑い、その額にキスを落とす。
「こんなとこで終わらせられねえよ」
女はころころと笑って、ディーノの首に手を回した。
……こういうの、鈴を転がすような、って言うんだったっけ。
あちこちの国へ飛んでは舞い戻る、渡り鳥を思わせる青年の笑みが脳裏に浮かんだ。
確か彼が言ったのだ。キョーヤの国では、鈴を転がすような、っていう笑いの仕方があるんだ、って。
一体どっから出してるんだという軽い音で女は笑う。ころころ、からから、と。
でも、あの時目を輝かせてそう教えてくれた、あいつの笑顔の方がずっとあどけなく軽やかで、お前本当にいくつだよ、と思わずディーノは笑ったのだ。
だって面白くない?と笑う、彼の幼い笑顔の方が、そう、ずっとずっと、目の前でからころ笑う女より、きっと似合うに違いない、と思う。
涼やかにその音を響かせる、小さく輝く金の鈴、
が。
「……ディーノ、続きしましょ?」
「……。」
見下ろす。そこには流暢なイタリア語使いの、綺麗な金の髪の、秀麗な顔立ちの、女の裸体。
美しい、のだろう。
けれど、こんな女ならそこらにもいる。
まるで美しい、というのを擬人化し大量生産したような、そんな女達、の中の1人。
黒髪、藍の目、掴めない笑み。
……馬鹿だ。
もう届かない物を思って、失笑する。
「……ディーノ?」
「……ああ」
白い細腕を引き寄せれば、女もこちらの首筋に手を回した。
「……しよう、か」
続きを。
いずれ結婚する、婚約相手との一夜を。
***「……!」
「夜無?」
突然顔を上げた青年を、雲雀は机の上から不思議そうに眺めた。
だが黒髪の彼は全くこちらを気にした様子もなく、深く座り込んでいた椅子から顔を上げたまま視線を彼方に向ける。
その藍色の瞳を見、雲雀は思わず息を呑んだ。
鋭く射るような夜無の眼光。
それは今まで見たことのない類の目付きであり、動揺した雲雀の手からは書類が音も無くこぼれ落ちた。
誰だ、これは。
「……夜無?」
「……ああ」
とっさに名を呼ぶ。開けた唇が僅かに震えていたが、相手には気付かれなかったようだった。
まばたきをし、夜無月がこちらを見る。
「……ごめん、なんでもないんだ」
目が伏せられる。夜無月は静かに立ち上がり、そのまま背を向け歩き出した。
「……夜無?」
「ありがと恭弥、お邪魔した」
重厚なドアの隙間から手を振る彼の顔は、いつも通りの朗らかな笑みで。
「……。」
雲雀は机の下に散らばった書類の白い束を見つめ、そして向かいの椅子に視線を向ける。
僅かに座席に皺を残すそれは、先ほどまで夜無が深く腰掛け眠りについていたものだ。そう、確かに。
だがそこに残る物はあまりにも何もなく、さっきまで彼がここにいたはずなのにまるで何も無かったかのような気すらしてしまう。
今日疲れてんだよね、ちょっと匿ってよ。
勝手な事を言って堂々と部屋に入り込み、他人の椅子でぐっすり眠っていた彼は、なぜ突如出て行ったのか。
それも、雲雀が初めて見る剣呑な光を目に宿し。
「……興味深いね」
床に散らばる書類を無視し、雲雀は指のリングを確かめた。
子供みたいに無邪気で馬鹿で朗らかなあの男、しかし一方でその底知れなさは以前から気になっていたものだ。
「……イイトコ取りはさせないよ」
その彼が、あれだけ不穏な空気を漂わせる何か。
何かが始まるに違いない、と雲雀は口元を緩めて笑った。