懐古
 重傷人だと言われてかなり焦りながらドアを開けたら、そこに当の本人が平然とカフェオレをすすっているとは誰が思うだろうか。


「何してるの?!」
「カフェオレ飲んでるの」


 一瞬、奇妙な間を空けツナが思わず叫ぶと、やっぱり平然とした顔でストローから口を放す夜無月。
 あれ待って、俺要注意の重傷患者の部屋に来たんだよね?と思わず頭を抱えたくなったが、なんとか我慢してツナはベッド際へと歩みよった。
「……良かった、元気(で、いいのか……?)そう、だね」
「当たり前じゃん、皆心配しすぎなんだよ」
 まるで天気の会話でもするかのように、夜無は軽い頷きを交え言う。
 点滴の線が力無く垂れ下がるその横、白いシーツの上にある夜無の腕には怪我ひとつ無い。
 だが、視線をあげれば彼のはだけた胸元から目に痛いほど真っ白な包帯がのぞいているのがよく見えて、ツナはかすかに息をひそめた。
 本当に、実弾を受けたんだ。
「……て、待って!夜無月君、なんで点滴抜いてるの?!」
「邪魔だったから」
 けろりと言う夜無。唖然とするツナ。
 胸の包帯に気がいって見逃していたが、彼の腕の横に垂れ下がっている、その点滴の先はどこにもつながっていなかった。ポタリポタリ、行き場を無くした液体が床へ水たまりを作っている。
「ばっ……馬鹿!」
「いいって、そんなん付けてたらむしろ弱る」
 ツナは慌てて点滴のチューブを引っつかんだが、本人はそんなことを言いあっさりと拒む。
「ダメに決まってるよ、ていうか重体なんだからもっとおとなしくしてて」
「いつもおとなしくしてんのに、これ以上おとなしくしたら俺存在無くなっちゃうよ」
「何言ってんの、むしろ煩いくらいの存在感じゃん」
「ツナってほんと言うようになったよなあ」
 もう頭上がんないや、そう言い笑う彼の顔は、それはそれは屈託なくて。
「……ほんと、ばか……」
 どう言い聞かせたらいいのだろう。
 彼にもっと自分自身を大切にして欲しい、そう伝えたいだけなのに。
 苛立ちにも似たやり場のない感情と、かと言って彼の笑顔を消してまで諌めたくないという交錯する思いが、ツナにただ息を吐かせた。
 目の前で笑い、まるで仕事の合間かのようにカフェオレを飲む夜無月。
 だが、実は彼にキツく言えない明確な理由が、ツナにはあった。


***



『バッカじゃないの?』
 喧騒、叫声、悲鳴、銃音。
 それらが遠くなっていくのと共に、同じように血の気が引いていくのを感じる。
 そこに、

 彼は現れた。

『一般人巻き込むようなクズマフィアなんて、滅べよ馬鹿』
 常に傍らにいる右腕あたりなら、おそらく激昂して飛びかかっていたような悪態。
 だが今、彼は。
 ただ呆然として見上げるツナの前に視界を塞ぐようにして立っているのは、泣きじゃくる幼子を抱えた黒髪の青年だった。

 違う、多分その時の自分には彼の姿しか見えていなかった。
 その背後でざわめく群衆も遠いサイレンの音も、まるで夢の中のように現実味がなかった。
『体張ろうすんのはいいけどな、全部なんか守れっこないんだから無駄な事やめろ』
 未だぼうっとした思考の中で、でも確かに彼の言葉だけはやたらハッキリと鼓膜に響いた。
『そいつもマフィアなんだろ』
 藍色の瞳が自分の隣へと動く。
 つられるようにして首を回せば、赤い液体の中に目を閉じ横たわる、見慣れた友の姿が目に飛び込んだ。
『……獄寺、君ッ!』
 そうだ、彼を庇おうとしたんだ。
 大通り、嫌な感じを覚えながらもまさか、こんなところで攻撃してくるだろうとは思わなくて。
 響いた発砲音と全身を貫いた最悪な予感に、
 振り返った瞬間、逃げ惑う人々の間に構えられた銃口を見た。
 その軌道上に武器を手にした銀髪がいる、そう判断した瞬間、彼を突き飛ばそうとして。
 だが同時に、気付いてしまった。
 その後ろ、泣きながらけんめいに足を動かし逃げまどう小さな女の子が、
 銃口の前へとまっすぐ飛び込んでくることに――。



『マフィアなら、それくらい覚悟の上だろ』
 血に染まる獄寺の肩を抱いたまま、呆然と視線をさまよわすツナの頭上に落ちる、冷たい声音。
 とっさに顔を上げると、青年は無表情のままこちらを見下ろしていた。
 どちらを救う。
 判断に迷ったのは一瞬だった。
 この身を挺してでも、
 どちらも、守る。
 銃口の前、自ら飛び込んだ自分に、
 しかし次の瞬間来た衝撃は、想像と違うものだった。
『なんにも知らない、お前らに関係ない一般人は巻き込むなよ、当然だろ』
 この子たちは血で汚れたお前らなんかと違うんだから、
 そう言ってツナを突き飛ばし獄寺を見捨てた彼は、そっと胸に抱いた子供の頭を撫でた。
 嗚咽する子供に下げた目線は、先ほど辛辣な言葉を吐いた人間と同じとは思えないほど優しく慈しみに満ちていて。

 現実感のない世界で、名も知らない彼の藍の瞳だけが、なぜかツナの脳裏に鮮やかに焼き付いた。


***



「ツナ?」
 不思議そうな夜無月の声に、ハッと我に返る。
 まばたきを繰り返すと、小首をかしげた夜無月がこちらの顔を覗き込んでいた。
「どーしたんだ、ボーっとして。めずらしーな、ツナにしては」
「……ちょっと、ね」
「仕事やりすぎじゃねーの」
 もうちょっと休んだ方がいいよ、と彼は飲み干したカフェオレのパックを器用に潰した。
「……それは夜無月君の方でしょ」
「俺?俺はなんともないよ」
 仕事って言ったって任務ばっかだし、面倒くさい書類やら付き合いやらやってる訳じゃないし。
 ツナや獄寺に比べたらよっぽど、と明快に笑う夜無月の姿に、なんとなくツナは胸が苦しくなる。
 どうして彼は、と思う。
 どうして彼は、もっと自分達に縋らないのだろうと。
「……とにかく、今度こそちゃんと休んでね。被弾してるんだから」
「りょーかいです、我らがボス」
 にやり、笑ってポーズを決めた彼に、おそらく自分の言葉は届いていないだろう。
 また、無茶をする気か。
 彼の胸元に目を落とす。白い肌に巻き付く、さらに白い包帯。
 手を伸ばし、ツナは目を見開く彼の襟元を掴んだ。


***



 ぐいっ、と掴んでいた襟を離すと、夜無月は珍しくひどく驚いた表情をしていた。
「……ええっ、と」
 数秒、目を泳がし、しかし彼はすぐにいつもの顔に戻る。
「……ツナってキス上手いんだな」
 だが、続いてその口から零れ落ちた言葉に、ツナは思わずずるっと滑りそうになった。
「……は」
「や……なんでも」
 自分で言っておいてそう打ち切り、夜無月は困ったように笑う。
 ツナは密かにため息をつくと、ドアの方へと背を向けた。
「あと、クロームが気にしてたから……お見舞い来たら、優しくしてあげてね」
「そんなこと言われなくとも」
 首だけ回せば、藍色の目を細める夜無月の顔が見えた。
 キス1つしても大した変化を見せない彼。
「……ああ、あと聞いた?」
 ドアへ向けていた足を止め、ツナは振り返る。彼は当然首をかしげた。
「何が?」
「ディーノさんが、結婚するって」
 ああ、と。
 夜無月はいつもと変わらない笑みで、頷いただけだった。
「聞いたよ。一昨日の夜」
「……そっか」
 ふうん、と口の中で呟いて、今度こそ彼に背を向ける。
 ……言ったんだ、ディーノさん。
 少なからず、彼は夜無月に思いを寄せていたはずだが。
「……またね、夜無月君」
「ああ、ありがとう、ツナ」
 また来てくれよな。
 そう言って手を振る彼は、やっぱり屈託なくあどけなく。


***



「……ディーノ、さん……」
 静かな病院の廊下を歩きながら、ふと唇の間から名前が零れ落ちた。
 脳裏によぎるのは、金色に笑う男。
 彼は、夜無月にどんな思いで告げたのだろう。
 その魂胆も本性も本当の思いも見せないあの青年に、どうしたって叶わない感情を押し殺して、望まないその報告を。
 ふ、と息がこぼれた。
「……すみません」
 ひっそりと暗い廊下には、自分の足音だけが響く。
 静かに唇を人差し指でなぞった。
 なら自分は、どんな思いを告げたくて唇を重ねたのか。
「……ディーノさんに、怒られちゃうな」
 いや、違うか。
 絶対に自分の思いを口にしないキャッバローネのボスは、目を細めて苦笑するだけだろう、きっと。
 なんとなくやりきれない思いがして、ツナはも一度ため息をつくと、ふと顔を上げた。


 廊下の窓から見える空は黒く遠く。
 微かに見える星たちが、頼りなく光っていた。


『なんにも知らない、お前らに関係ない一般人は巻き込むなよ、当然だろ』



「……君が教えてくれたんだよ。」

 もう、忘れているだろうけれど。


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