垣間見る
そうして気配、いや、彼女は五条の中で過ごすあいだ、もう黙ってやり過ごすことはなくなった。
そしてどうやら五条の想像を超えて、視覚だけでなく五感の全てを共有しているようであった。朝、目覚ましが鳴っても五条が目を覚まさなければ脳内で大暴れし、五条が食事をすれば”美味しい!”とテンションを上げ、血肉のにおいがあれば息を潜め、五条がトイレに向かおうとすれば悲鳴を上げた。
ー頼みます! お願いですから例え小でも座ってしてください!
「えーいいじゃん別に、ちょっと我慢してくれれば」
ー無理です、ダメです、わたしは純潔なる乙女ですのであんなもの触れません!
「まだ男の可能性捨てきれてないけど」
ーいえ! 今、確固たる自信を持ちました! わたしは女です!!
「もーめんどくさいな」
そう言いながらも五条は渋々彼女に従って、便座に腰を下ろした。そして自分の気持ちの変化に少し戸惑っていた。
最初こそ奇妙な同居生活に面倒くささがあったのの、彼女はいつも元気で話し相手には困らない。少々やかましいが楽しくないわけではなかった。
頭の中でぎゃいぎゃい叫びながらも呪霊の殲滅に強制連行されるのを、五条はいつもにやにやしながらおちょくっていた。
ーなんですかあれはーー!!!
「ん? 呪霊だよ。人の負の感情が具現化した……そうだね、悪霊みたいなもの」
ーあんなものが存在するなんて……しかも戦うなんて、五条さんスーパーマン?
「そうそう、かっこいいでしょ〜?」
ーかっこいいけど……わたし失神しそうでしたよ。
「君は弱いなあ」
ー五条さんが強すぎるんです!!
そんなふうに声に出して会話をしてしまうこともあり、何度か他者に不思議そうな顔をされたこともあったが咳払いをして取り繕う。
それで問題なかった。彼女は彼の胸中にいたのだから。誰にもその姿も、気配も、見られ感じられることはなかったのだ。
「あれ、もうこんな時間か。休みの日だってのに」
ーじゃあわたしは今夜、流行りの恋愛映画が見たいです! 確か今ちょうどやってますよね? レイトショー! ポップコーン!!
「それ面白い? なんてやつ?」
五条の自宅にて。休日のため、朝から一歩も家の外に出ないまま時間ばかりが経過していた。
時刻はすっかり昼を回り、暇を持て余した五条がそう聞くと彼女は、確かに大ヒットし、続編まで出た恋愛映画の名前を出した。ただ、実際に放映していたのはもう何ヶ月も前のこと。
ーえ……もう上映してないんですか?
「そう、ていうか覚えてること他にもあったね」
ー覚えてること?
「うん、僕の中に入る前の目線の高さとか、気になってた映画とか」
五条はそういうと立ち上がり、膝や背中を曲げて身を屈めた。
「これぐらい? 前まで見てた景色」
ー……もう少し低い位置から見てたような気がします。
「映画とか見てたんなら人間なのは確定だね。女の人の線が濃厚だけど、相当背の低い男って可能性も捨てきれないし」
五条は中腰でいるのに疲れ、ぐいっと伸びをする。そして、きっとこれぐらいだろうと想像した彼女の頭付近に、手のひらを地面と平行にして掲げる。
それは自分の肩よりも低い位置だった。何気なく、どんな容姿だったのかな、と気になったあたりで首を横に振る。
「他には? 覚えてることない?」
そう聞きながら、五条は状況を整理した。
自分の胸中にいつの間にか入り込んでいたのは恐らく人間。恋愛というジャンルを好むことから十中八九、女で間違いないだろう。
彼女とは五感を共有しているが、少し独立した存在でもあるらしい。というのも目を瞑る、耳を塞ぐなどという感覚があるらしく、視覚や聴覚をある程度遮ることが可能だ。
思考回路も100%共有しているわけでもないようだった。彼女が五条へ意識を向ければ、彼が考えていることは余すことなく伝わってしまうが、他へ意識が散漫となっていれば流れ込むこともないらしい。
そして気が付けば五条の中にいたそうだ。どうしてこうなったのか、何故五条なのかは彼女にもわからないとのこと。
ーうーん、そういえば五条さんの中は居心地がいいです。
「それなんか関係ある?」
ーあります、たぶん。というのも、五条さんのところに来るまでにも何回か誰かに寄り添っていたような気がしてきました。
それはとても興味深い内容だった。それで? と五条が続きを促すと、彼の頭の中に唸り声が響く。
彼女の鮮明な記憶がいつまでなのかわかれば、もしかしたら彼女が”こう”なってしまった時期がわかるかもしれない、と五条は考えていた。
それが何に繋がるのかまではさすがにわからなかったが、五条は単純に彼女という存在に少し興味が湧いていた。彼女が何なのか、誰なのか、それが解明できる手がかりになるのなら、と彼は彼女の返事をひたすらに待つ。
ーそのときは今みたいな状態じゃなくて、わたしが隣に立ってその人を見てる、みたいな……でもとても曖昧で、本当にそうだったかもわからないぐらい。なのに五条さんの中には入っちゃうし、五感とは繋がり、っていうんですかね。それがすごくスムーズで。あなたが見ているもの、感じていること、それがとてもダイレクトに飛び込んできます。本当に自分が感じているかのように。
「へえ、そうなんだ」
ーだから楽しいですよ。
「……えっ?」
五条は間の抜けたような声で返事してしまう。
ー楽しいです。五条さんと色々共有できて。
彼女はその姿、表情こそ見えないが、その声や気配は努めて明るく、そしてとても柔らかかった。
「……よかったね」
ーはい! だからわたしは今日ピザを食べたいです! 映画のお供にデリバリー! クワトロ!
「はいはい、調子良いんだから」
テンション高くビザを所望する彼女に、五条はふ、と息を吐く。それは疲れを含んだ溜め息の類いではなく、呆れこそあったものの笑みを彷彿とさせるものだった。
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