覗く
五条悟は不思議な感覚に陥っていた。寝ても覚めても、ずっと誰かに付きまとわれているような気がする。それもかなりの近さに、ずっと気配を感じていた。
はた、と振り返るも誰もいない。なのに”そこにある”ような、奇妙で、気味の悪さを感じるようなものをずっと抱えていた。それはもう今日で三日目である。
そしてそれが、ようやく確かなものとなって知覚できたのは、突如として出現した呪霊抹殺のために一撃を食らわそうとしたときのこと。
ーひぃぃぃ…!
恐怖で思わず喉から漏れたような、引き攣って掠れた悲鳴がすぐ間際から聞こえたのだ。頭の中に直接響くような、耳のすぐ側で囁かれているような、そんなものが急に聞こえては彼は背後に引がざるを得ない。
五条は跳躍し、呪霊からありったけの距離を取った。困惑しながらあたりをうかがう。けれどそこには誰もいない。
「五条先生!?」
焦ったように五条を見る、彼が受け持つ生徒と目の前の化け物以外に誰も。
目的を殲滅し、ひと息ついた頃に虎杖や伏黒、釘崎が五条の側に寄る。
「さっき何かに気を取られてなかったですか?」
「うーん、気のせいだった。ほら、僕、勘が良すぎるからー」
伏黒にそう声を掛けられた五条はいつもの軽い調子で返事する。いや、そう返事する他なかった。五感のひとつを刺激してきたものの、実体を確認できるまでには至らなかったのだから。
そしてまた、以前のようなただの気配に戻ってしまった。どれだけ意識を外へ向けようとも、得られるものは何もない。
普段は軽いお調子者である五条から苛立ちを引き出すほどに、髪の毛先ほどの細さにさらりと撫でられるような微かな気配が彼の周りをちらつくだけになってしまったのだ。
そんな苛立ちを発散するために五条は、携帯に受信したメッセージに返事をする。”今夜空いてる?”と急な誘いをあまり好まない彼に”いいよ”と返事をさせるほど、不快感を与えている。
それに〈 〉は気付いていない。
すっかり日が落ちて、雲のない空に星がよく瞬いている夜になった頃。五条は深夜に差し掛かりそうな時間帯に、ある通り沿いにあるコンビニの入り口付近で佇んでいた。闇夜に紛れているのに真っ黒の目隠しをつけているせいで、周りからは少々浮いている。
それを特段気にすることもなく、昼間の苛立ちを未だに継続させたまま、携帯の画面を表示させては現れる時刻に舌打ちをする。
「待った?」
そして悪びれる様子もなく、五条の腕に自分のものを絡めた女を見て再度同じように音を鳴らした。
「どんだけ待たすんだよ。そっちから誘ってきたんだろ」
「怒らないでよ。ちょっと面倒くさい男を切ってきたの」
「へえ、どうでもいい」
「もう、相変わらずね」
女は真っ赤に染めた唇を尖らせた。それに見向きもせずに五条は歩みを開始させる。膝丈のワンピースに高さのあるハイヒール。そんな服装の女を全く気遣わない速さで。
「ちょっと、待って」
「特に場所考えてないんだけど、その辺のラブホでいいよね」
「それで女が着いてくると思ってる?」
「思ってる」
振り返った五条はアイマスクを少し上へずらして、女を見下ろした。それは一応苛つきを潜ませていたものの、湧き上がる欲を隠すことのない挑発的な目つきだった。
一番近い場所にあったそこへ、五条は臆するなく踏み込む。入り口から入ってすぐのところでパネルから部屋を選ばなければならなかったが、彼は迷うことなくボタンを押し、点滅した看板に従ってエレベーターへと向かう。
女は特に何も言わなかった。上下に移動する箱に入った途端、五条に腕を絡めて甘える始末。それは彼の顔とスタイルの良さにあるだろう。
五条はそれを面倒くさく思っていたが、今突き放せばまた機嫌が悪くなって、欲の発散までにいらないステップを踏まされるのは目に見えていた。だから求められるがままにキスをした。
一瞬の浮遊感のあと、重厚感がありながら古臭いドアが左右に開いていく。目当ての部屋に案内するライトが点滅していた。それを辿りながらある一室に入る。
「ねえ、シャワー浴びる?」
「いい」
どうせ愛撫もそこそこに突っ込むだけだから。頭ではそう思ったが、口には出さない。脱いだ上着をその辺に放り投げ、ベッド近くに立っていた女を引き寄せる。
そうして五条が女に口付けて、今までの態度が嘘のように優しく組み敷いたときだった。
ーすみません、本当にすみません。申し訳ないんですが、それだけは控えてもらえると、その……助かるんですけど。
五条の脳内に声が響いたのは。
「……っ!?」
勢い良く体を起こした五条は周りを見回したが、そこには安っぽい内装があるだけ。
「どうしたの?」
急に離れていった五条に女は問う。彼は女を見下ろし、しばらく無言でいたが僅かな希望を持って彼女に尋ねた。
「……今、何か聞こえなかった?」
「何かって、なにが? 何も聞こえなかったけど」
希望を打ち砕くようなその返事を聞くなり、五条は深い溜め息をつく。
そして、このタイミングでなんだよと心の中でそう思った、だけのはずだったのに。
ーすみません、きっとあなたにだけしか聞こえていないんだと思います。あと、わたし的にはこれ以上ないタイミングなんです。
その声はまた響く。
「……ちょっと用事できた」
「え、ちょっと、悟!」
ふらりと女の上から退き、五条は上着を乱暴に掴んだ。女の制止なんか全く意に介さず、彼はその一室から飛び出す。
「お前は何だ? どっから話しかけてきてる?」
すぐに来るかもわからないエレベーターを選ばず、階段を降りながら五条は問うた。ひとりなのに思わず声にしてしまったのは戻ってきた苛立ちのせいもあったが、今だけは返事が来るような、確証のない自信があったからだ。
なのにすぐに気配は響かない。五条が建物の中から外へ出ようとも、すっかり人通りの少なくなった道を行こうとも、響くのは彼の息遣いのみ。
「返事ぐらいしろよ」
きらきらと星が瞬いている。久しぶりに雲がなく、綺麗な夜空となったそんな日に五条はひとり、呟くように言った。
ーすみません。
消え入りそうなほど小さなものが頭の中に響く。
「なんですぐ返事しないわけ」
ーほんとはずっと潜んでようと思っていたので。
「結局出てきてるじゃん。……今日の昼間、呪霊見て悲鳴上げたのもそう?」
ーあれは怖すぎてさすがに無理でした。なんなんですか? あれは。
「普通じゃ視れないかもね」
ーお化けみたいなものですか?
「まあ、簡単に説明すればそう……じゃなくて、こっちが質問してたんだけど」
ーえ、そうでしたっけ?
「そうだよ。ったく……調子狂うなあ」
はぁ、と溜め息をついた五条は足元を見つめた。やっと返事が来たのに全く解決しない事態にモヤモヤが引くどころか増していく。そんな状況に呆れ始めていたのだ。
ーすみません、えーと……実はわたしもよくわかっていないんですけどね。
「いいから、教えて」
ーきっと、というかただの推測なんですけど、わたしはあなたの体の中にいるみたいです。
「……は?」
教えろとせがんだくせに、パッと出された答えに五条は動揺した。
ーあ、そうですよね、動揺しますよね。もっと言うなら、あなたの見ているもの、考えていることなんかを共有しているみたいです。
「それってどういう、、」
ーうーん、わからないんですけど、とりあえずお邪魔しています。
お邪魔しています。自分の体内への侵入をそんな言葉で片付けた気配が、そのとき笑ったように感じられた。五条は自分の左胸に手のひらを添え、指先を食い込ませてぎゅうっと掴んだ。
なんだかそこにその気配があるような、少しの重みを感じたのだ。
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