ひび割れ
ベッドに潜り込んで寝る間際、限りなくゼロ、むしろマイナスであってほしい可能性に気付いた五条は少し考えた。
ーーーもしかしたら、彼女は呪霊に成る前の存在かもしれない。それが正解だと仮定して……それにすんなり取り憑かれてしまった自分は、特級呪術師として大丈夫なのだろうか。しかも、そんな彼女とのコミュニケーションを楽しいと思ってしまっている。
何故、彼女は僕の中に入り込んだのだろう。最強の言葉を欲しいままにする自分が、彼女の肉体候補として選ばれたのだろうか。
ついにはそんな仮説まで行き着いてしまい、五条は少々面倒くささを感じた。
彼女に体を乗っ取られるつもりもないし、彼女がいざこちらを殺しにきたとしても負ける気がしない。だけど少々やりにくいな。そう思ったあたりで、頭元に置いていた携帯が震えた。
ーあれ、電話ですか? 耳を塞いでましょうか?
「気が利くねえ、……ああ、でもその必要はないかな」
液晶に表示されていた名前を見、別に出る必要もない相手だと判断する。と、ここで五条は、自分の左胸に嫌な気配を感じ取った。それはずん、と重たいようで息がしづらくなるような圧迫感だった。
「……この感じ、君のせい?」
ーそうかもしれません。……その画面に表示されてる女性の名前を見た途端、嫌な感じがしちゃって、
「えーもしかして嫉妬? 可愛いとこあるじゃん」
ー嫉妬。
彼女がそう呟いた瞬間、胸中の重苦しい感じが酷くなる。
ーこの人、どんな方ですか?
「どんな、うーん、たまーに顔合わせる大人な関係?」
五条は彼女の急な気配の変化に驚きつつ、努めていつも通りに返事した。内側から否応なしに負の感情を流し込まれているような、そんな感覚に彼はふと気が付く。
彼女がもし成ってしまったとして、自分の内側に存在するモノをどうやって祓う?
ー大人、とは?
「……ほら、君が僕を止めたとき覚えてる? 僕がラブホでキスしてた相手。あれがそうだよ」
ーラブホで、キス……、……あっ。
その瞬間、脳内に強制的に映像が送り込まれてくる。
ーーーねえ、愛してるよ、ななこ。
優しく微笑み、小さいながらも力強い声でそう言った男性はこちらに手を伸ばしてくる。自分の頬に撫でられるような感覚があった。
ーーーわたしも、愛してる。……わたし、本当に幸せ。
その声は普段、自分の頭の中に直接語りかけてくるものと同じだった。男性の顔が近付いてくるのに、五条はこれから何が起こるのかを察したが、映像は止まない。そして拒否する間もなく、彼の視界は知らない男のどアップで埋め尽くされ、唇に感触だけが残った。
「うっ、おぇ、」
映像が途切れる頃には五条は嘔吐いていた。彼に男色の気はなく、相手はもちろん女性以外考えられなかったからだ。
ー五条さん、五条さん。
五条が顔色悪く、唇に残る感触をどうやって取り除こうかと思案しているところに、彼女のやけに凛とした声が響く。
ーわたし、少し思い出しましたよ。自分のこと。
「さっきの映像で? というか君、ななこっていうんだね」
ーはい、わたしの名前は七瀬ななこです。
そして五条が嘔吐いているのは、男とのキスを連想させる感触のせいだけではなかった。先ほどまで内側から無理やりねじ込まれてきていた負の感情がじわじわと増してきてしているのだ。
これは、もしや……、
そう予想したものが的中しないことを祈る。
「ななこ、待って、このままじゃ僕は君を祓わなきゃならなくなる」
ー祓う? どうしてですか?
「僕は呪術師だ。君が呪霊に成り下がってしまった途端、関係性が成立しちゃうのよ」
ー祓われたら……わたしはどうなるんでしょう…?
「そりゃあ…この世から昇華されるね」
説明しながら、彼女にどう手を下そうかとその方法を考える。胸には何とも形容しがたい気持ち悪さを抱えながら、その切れ間に、脳内に響いた彼女の楽しそうな笑い声が反芻する。
ーーーこれは、やはりやっかいだな。五条がそう思った瞬間だった。
ーなんで? わたしはただ奪われただけなのに……!
「……ん?」
胸の気持ち悪さが一瞬で引いたのだ。それと同時に彼女はわんわん泣き出した。気持ち悪さの代わりに、今度は自分も思わず涙を滲ませてしまいそうになるほど切ない感情が流れ込んでくる。
そのあたりで五条はなんとなく察した。これらが負の感情であることは間違いないが、おりのように集まったものではない。全てあちらから強制的に共有されてくる、今現在の彼女の感情だ、と。
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