自分のお腹のあたりに重みと温もりが乗っかったような気がして、うっすら瞼を持ち上げる。目の前にあったのは綺麗で、安らかな寝顔。すう、すう、と音が聞こえるようだ。
わたしのお腹に乗っかっていたのは晋助くんの腕だった。少し視線を下げると、互いの体に橋を渡すように置かれているのが見える。
瞼が重たい。意識は覚醒できたけど虚ろで、すぐにでも微睡みの中へ引きずり込まれてしまいそうだ。今何時だろう。どうしてこんなに体が重たいんだっけ、、ああ、そうか、
昨日、夜景を見たあと、スーパーに行くという当初の目的なんかすっかりわすれていそうな晋助くんに声を掛けた。彼はやはり覚えていなかったようで「そうだったな」と返事した。
日付こそ超えてないけれど、もうあと少しで年が移り変わってしまう。そんな時間帯に、しかも年末に開いているスーパーなんかなく、結局はコンビニに寄り道した。
そこで購入したもので、お湯を注ぐだけのシンプルな年越し蕎麦を作ってふたりで食べた。プラスチック容器を片手にソファーに座る姿が似合わないようで、様になっているようで、わたしは笑ってしまった。そんなこちらを見、晋助くんも表情を和らげた。
「似合わねェな」
晋助くんにはわたしのこの姿が似合わないように感じられたらしい。確かに、普段は敢えて避けていた。体型維持のために、都会に馴染むことを阻まれそうなインスタント食品には手を伸ばさないようにしていたのだ。
「でもたまにはいいですね」
「ななこはこういうもん嫌いなのかと思ってた」
「カップラーメンが?」
「あァ、全然食わねえだろう」
「ううん、なんていうか……頑張ってただけです」
「食わねえように?」
「うーん……友達の輪の中でいられるように?」
「どんな輪だよ」
「たぶん、勝手にそう思ってただけなんですけどね」
晋助くんは「へェ」と返事した。そしてわたしが麺を啜ったときに彼が「まァ、」と会話を続けるもんだから、はふはふと咀嚼しながらそちらに意識を向ける。
「これからは頑張らねェでもいいんじゃねえか」
「……うん? どういう意味?」
「毎晩こういうのでも別に」
「晋助くんがもっとカップラーメン食べたいってこと?」
「……ななこの作るもんは美味いが、お前がしんどさを感じてるならやめちまえってことだよ」
「あ、ああ…そういうことですか」
急に褒められたことで妙に照れてしまい、もごもごと口ごもりながら返事してからふむ、と考える。
「晋助くんにご飯を作るのは結構楽しいですよ」
「……毎日してたら嫌になんねえのか」
「まーめんどくさいなと思うことはありますけどね、いつも綺麗に食べてくれて今みたいに褒めてもらえるなら作りがいあります」
「そうかよ」
「そうです。だからバイトのあととか疲れたときだけ楽しよっかなあ」
「そうだな」
そんな会話をしながらインスタントのお蕎麦を食べ終え、わたしはシャワーを借りた。ザッと頭のてっぺんから爪先まで洗い上げ、持ってきたパジャマ兼家着のスウェットに着替える。ドライヤーを拝借してからリビングルームに戻ると、晋助くんはソファーに座ったままだった。携帯をいじることなく背中を預けている。
近寄って気付いた。晋助くんは目を瞑って、こっくりこっくりと小さく船を漕いでいる。その珍しい光景に思わず彼の前にしゃがみ込み、わたしは口元に笑みの欠片を滲ませてしまった。
起こしてしまわずもう少し見ていたい気がしたが、こんなところで寝てしまっては首や腰が痛くなるかもしれないし、なにより熟睡できない。だからそっと声を掛けた。
「晋助くん」
名前を呼ばれたその人はぴくりと肩を震わせた。僅かに持ち上がった瞼、その片方に眼帯をつける機会はずいぶんと少なくなってきている。そこに見える全体的に白い眼球では、わたしのことが見えていないのだろうか。
そうなってしまうほどの怪我を負うような事件、とは。不意にそんなことを考えたけど予想も想像もつかないし、晋助くんが”あれ”以上に話したいと思ってくれているかもわからない。
“覆すんなら今にしてくれ”
そう言われてもわたしの中の気持ちは変わらなかった。それなら別に考える必要もないだろう。知らないままでも晋助くんのことが好きで、大切に思えるなら知らないほうがいいだろう。
全てを知ってしまうことが幸せとは限らないと、わたしは知っている。
「晋助くん、ベットで寝ませんか」
「……その前に、こっち来い」
手を伸ばされながらそう言われては断れず、素直に晋助くんの隣に座る。シートが少し沈み込み、慣れない感覚に戸惑っていたら自分の肩に重みが乗った。反射的にそちらを見、わたしは体を強張らせてしまう。
自分の肩に乗せられているのは晋助くんの頭だった。照明の当たる髪は、室内だと真っ黒に近く見える。そのてっぺんから少しずれた位置にある左巻きのつむじ。何度かそれに心引かれたことがあるように思う。だけどこのパターンは初めてだった。
「力抜けよ」
「え!? 入ってます?」
「背筋めちゃくちゃ伸びてる。後ろにもたれりゃいいだろ」
「あ、そうですね、確かに…」
指摘を受けて、自分が無駄に姿勢良く座っていることに気が付いた。背もたれに背中をつけたことで力が抜け、自然にほう、と息を吐いてしまった。
しん、と静かな空間だった。テレビはあるけど消されている。時計の秒針の音もない。そんな中に自分の鼓動が響いているような気がする。意識すればするほどそれが大きくなるように思えて、でも鎮める方法もわからない。
だって晋助くんがこんなふうにくっついてくるのが初めてだったから。
「……そ、そういえば今何時ですか? わたしの携帯どこだろ」
「俺のならある」
晋助くんが近いことに嬉しさよりも緊張と落ち着かなさが勝った。だから適当な理由をつけてソファーから離れようとするも、彼はあっさりとアイフォンを取り出して液晶画面を光らせた。そこに表示されたのはもうとっくに0時を超えた時間だった。
「……え!? もう明けてる…!」
「……ふ、」
それを理解するのに少々時間がかかってしまったが、もう新年を迎えてしまっていたことに思わず大きめの声を上げてしまうほど驚いた。すると下方から微かに息を吐き出したような音が聞こえた。
わたしの肩に未だ乗っかったままの頭が小刻みに揺れている。笑われているのだとすぐにわかったけど、晋助くんが体を震わせるほどそうなることも初めてでわたしはまた戸惑ってしまった。
「だって…びっくりしません? カウントダウンとかしたかったのに……」
「そりゃあ悪かったな。ななこが風呂に入ってる間にもう年明けてたぜ」
「えっ、ほんとに?」
「嘘なんかつくかよ。まァ、また来年にでもすればいいだろう」
ゆったりと頭を持ち上げた晋助くんはこちらの予想通り笑っていた。優しげに細められた目で見つめられては、やはり動悸が治まるわけもない。
やおらに、自分の腰に晋助くんの腕が回される。彼のほうへぐい、と引き寄せられるように力を込められて、もっと近寄れということなんだろうかと思案する。だから距離を詰めて座り直すも、腰を引く力は弱まらない。
「俺の上乗れよ」
「……え?」
「こっち向いて、な」
今度は素直に従えずにいたけど、「乗らねえならここで押し倒すぞ」と言われたことで降参した。腰を浮かせて晋助くんの腿の上へ跨がる。対面になるも、晋助くんは浅く腰掛けていたからか少し見下ろす位置に彼の顔があった。
自分の背中に温もりが回る。ぎゅうっと抱き締められては、わたしもその首に腕を回すしかない。晋助くんがこちらの首元に顔を埋めたせいでくすぐったさに身をよじってしまう。
「おんなじ匂いする」
「し、シャンプー…とか、借りたから、かな」
「だろうな」
ちゅ、と弾むようなリップノイズ。それは静かな室内によく響いた。思わず顔に熱が集まってしまうような音は、晋助くんがわたしの首筋に何度も吸い付くせいだ。
「痕、さすがに消えてんなァ」
襟ぐりを引っ張られて、舌を這わされては背筋にぞくぞくとしたものが走る。思わず目を瞑ってしまったあと、鎖骨のあたりにぴりっと弾かれるような痛みがあって、また紅いしるしを付け直されていることを悟る。
「ななこ」
名前を呼ばれたなと思ったら後頭部に添えられるものがあった。きっと晋助くんの手のひらだ。
「まだ慣れねェのか? いつでも顔真っ赤にしやがって」
言い終わったならくちびるに柔らかいものが触れる。くっつくだけだったのに下唇を舐められる感覚があって、それに口を開けろと催促されているような気がした。
軽く噛まれる前に従った。ぬるりと侵入してきた舌に自分のものを絡めとられる。ふぅ、ふぅ、と荒く息をしているのはきっと自分だけ。しばらく絡め合ってから舌先を吸われた。そして甘噛みされて、ぞわぞわとして腰が引けそうになる感覚の中に気持ち良さを感じる。
するりとスウェットの裾から侵入してきたものに、思わず体を震わせてしまった。
「……なに離れてんだ」
やはり息を弾ませているのはわたしだけだった。
「キスしろよ。お前から」
自分より大きな手のひらが衣服の下の肌に触れている。それに驚いてくちびるを離してしまったことが、どうやら晋助くんは気に入らなかったらしい。ほら、と促されるといつもより恥ずかしさが増す気がした。
「……そんなんだったか? 今さっきしてたのは」
羞恥心に耐えながらキスをするも、彼が求めているのはただくちびるを合わせるだけのものではなかった。そんな最中にも肌を這う手のひらがわたしの胸に触れている。やわやわと力を加減されながら揉まれている。
ずるい人だなと思った。今しがたまでわたしの後頭部に手のひらを添えていたくせに、それはどこかに逃げていく。かと思えば腰に添えられる感覚があって、ぐい、と引き寄せられた。
自分の下腹部に硬いものが押し付けられる。
「晋助くん、その……するの?」
「俺はしてえなと思ってんぜ」
「……え、と、ここで…?」
「お前の感じてる顔見上げんのもいいかもしれねえな」
「ダメ、それだけはダメ…!」
「それ以外ならいいってことか?」
「もー晋助くんずるい!」
そのとき、ふ、と口角を持ち上げた晋助くんがあまりにも自然に、綺麗に笑うものだから、わたしは思わず口ごもってしまった。
それを晋助くんがどう捉えたのかわからなかったけど、優しく、触れるだけのキスをされる。かと思えばなんの躊躇もなくスウェットを捲り上げられ、露出した肌に吸い付かれては、ただ彼にしがみつくしかなかった。
ーーーそしてソファーからベッドへ場所を変えて、いつの間にか意識を失ってしまっていたらしい。
今、瞼を閉じればまた、すぐ夢の中に落ちていってしまうだろう。それはそれで構わないが、無防備に寝顔を晒す晋助くんが無性に愛おしくなった。
距離を縮めて、露出している額に口づけをひとつ。
「……来年にでも、か」
晋助くんの思う未来にわたしは一緒にいる。ふとそんなことが思い出されて、不意ににやけてしまった。