熱だけ残して。



「何故紘さんは僕だけ名字で呼ぶんだい?」

武市さんがそう言い出したのは唐突だった。

「え?」

「龍馬も、中岡も以蔵も名前で呼ぶだろう君は」

ああ…そういえば。
龍馬さんはみんな龍馬さんって呼んでるし気付いたらそう呼んでた。
慎ちゃんや以蔵にはこう呼んでくれって言われて呼んでた。
武市さんは誰からも武市さんと呼ばれているし、特に呼び方を変える理由もなかったのでずっと武市さんと呼んでいた。

薩摩の夜。私の部屋の布団の上で、武市さんが拗ねたような顔をしている。
薩摩に渡ってからもう半年経った今、武市さんはたまに夜こうしてやって来ては優しく笑いながら添い寝をしようかと言い出すのだ。
でも今日は違った。いつもより不機嫌そうに入ってきた武市さんは私の名前を呼ぶなり布団の上にきちっと正座をして私に冒頭の台詞を突き付けたのだった。

「なんで…と言われても…武市さんは武市さんだし…」

「じゃあ今から変えてくれ」

君が僕以外の男の名を親しげに口に出すのなんて、耐えられない。
ぼそりと武市さんが言う。
付き合いが長くなってわかる。武市さんは結構ヤキモチやきだし、私の前だといつもの冷静な仮面は剥がれやすい。
そんなところが好き、なんて言ったらきっと怒られるだろうなぁと相変わらず拗ねた顔の武市さんを見た。

「呼び方を変えるって…名前ですか?」

「もしかして僕の名前を覚えていないんですか」

「そんなことないですっ」

「では」

呼んでください、と言われて真っ直ぐこっちを見詰めて来る。その視線に耐え兼ねて俯いて、ぼそぼそと唇を動かした。

「は、半」

「半?」

「半平…太…さん」

小さく、でも確かに名前を呼んで。そしたらふっと笑った声が聞こえた。

「よく出来ました」

くしゃくしゃと髪を撫でられる。名前を呼んだだけでこんなに恥ずかしい気持ちになるなんて、とまた俯きそうになる。

「ちゃんと呼べたからご褒美をあげようか」

「えっ」

付き合いが長くなって学んだことがもう一つある。武市さんのご褒美もお仕置きも、恥ずかしいってこと。
いつもさらっと恥ずかしいことをするから心臓がいくつあっても足りない。

「不満かい?」

ぐにぐにと私のほっぺを触りながら武市さんが言う。すごく楽しそうだから怒ってはいないみたいだけど、これはこれで恥ずかしい。

「相変わらず紘さんの頬は柔らかい」

「いひゃいれふはへひはん」

「…今、武市さんと言っただろう」

ほっぺを放した武市さんがまた少し拗ねた顔で言う。
しまった!私はほっぺを押さえながら慌てた。

「ごっごめんなさい半平太さん!」

「次に武市さんと呼んだら僕は返事しませんよ」

「えっ」

そんな、とあたふたしていると武市さんがくすっと笑って私のほっぺにまた手を伸ばしてきた。

「冗談です。ゆっくり慣れていけばいい。…それにしても痛かったかい?」

撫で撫でと手の甲でほっぺを撫でる。そんなに痛くなかったし…むしろこっちの方が恥ずかしいよ!
私が顔を赤くしていると武市さんがやっとほっぺから手を放してくれる。ホッとして顔を上げたら私の両手を武市さんのそれが包んで、少しだけ引かれて体が前に傾いた。

「…ご褒美だよ」

耳にその声が届いた時には、武市さんの唇が私のおでこに触れていた。

「あっ…はっ半平太さんっ」

私は慌てて声を上げる。すると唇を放した武市さんが私の顔を覗き込んで困ったように笑った。

「全く君は…照れた顔までそんなに可愛らしいなんて僕をどうする気だい?」

それは私が言いたいです!と心の中で叫んだけれど恥ずかしすぎて口に上ることはなかった。

「だいたい、額だけで我慢したんだから褒めてほしいくらいだが」

「我慢?」

すっと武市さんの手が私の手から離れたと思ったら人差し指で私の唇に触れた。
つつ…となぞりながら顔を近付けてくる。

「…ここ、は本当に僕のものになった時まで取っておく」

さらっと爆弾発言をしたと思ったら武市さんがすっと立ち上がる。

「今日は部屋に戻ろう」

「えっここで寝ないんですか?」

「…君は、危機感を少し覚えなさい」

「え?」

「僕に何もかも奪われていいのか?」

「え?……っ!?」

「今はまだ奪う気はないから安心しなさい」

そう言いながら武市さんは襖の方まで歩いていく、開けて振り返り、ふっと柔らかく笑った。

「おやすみ…紘」

音もなく襖は閉まって、私はおでこと唇を押さえて声にならない声で唸るばかり。
暗い部屋にはもう彼のいた気配も証もなく、私だけが眠れぬ夜を過ごすのだ。そう、まさに、










熱だけ残して。

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