07.姓の由来

 エレンのいる隣の部屋が騒がしい。ミカサは隣部屋の壁に耳をすました。リヴァイにいじめられていないかと心配でたまらない。異様にリヴァイを気にしてか、彼は掃除に対して神経を張るようになってしまった。――いささか、がさつだったエレンが。

 炊事場でお茶セットを用意してきたであろう真琴が、女部屋に戻ってきた。飲み物は紅茶に違いない。古びた部屋をさわやかなフレーバーが満たしていく。
「お待たせ。――あの人、部屋を覗きにきてないよね?」
「来てません」
 ミカサが返答すると、真琴は丸テーブルにお茶セットを置いた。皿にクッキーが盛られている。甘い菓子など久しぶりだ。エレンにも食べさせてあげたい。先の巨人との闘いで傷ついているはずだから、少しでも元気になってほしい。

 真琴に食べてと促され、クッキーをかじった。
「……美味しい」
 世界の残酷さを甘みが和らげてくれた気がした。

 サシャもクッキーを鷲掴む。一気に皿の半分以上のクッキーがなくなった。国の状勢が変わっても食べ物への執着は以前のまま。しかしその執着も彼女の闘う原動力に変換されているのかもしれない。
 リーブス商会を味方につける罠を張ったとき、サシャの弓術にミカサは助けられた。けれどできれば遠慮してほしい。正面の真琴が苦笑している。

「あんまり食べると、夕飯が入らなくなるわよ。お菓子よりちゃんとしたご飯のほうが大事だから」
「おふぁふぁいなふ。ひゃんほらふぇらふぇまふはら」
(何言ってるかわからない。口に詰め込みすぎ)
「……いただきます」
 クリスタも――もといヒストリアも控えめにクッキーに手を伸ばした。
 真琴は彼女のことをクリスタと認識しているだろう。一階の掃除をしていた際に、コニーが彼女のことを呼び間違えたからだ。

 ミカサも時々呼び間違えそうになる。訓練兵時代の三年間、彼女はずっとクリスタと名乗っていた。ヒストリアが本当の名を打ち明けたのはごく最近のことだ。彼女は先の闘いからずっと暗い。親友と離ればなれになったことや、出生の謎が原因だ。

 みんな――リスみたいに頬いっぱいにクッキーを頬張っているサシャも――きっと心に不安と傷を抱えているはず。だから紅茶の香りが漂ういまの時間は、心の緊張をわずかでも緩めてくれているはず。

 考えごとをしているふうな真琴。女性のパンツスタイルは珍しい。商人だから動きやすさ優先なのだろうか。かといって女性らしさが損なわれてもいない。襟許のひだ飾りがそれだ。
 ミカサは自分を見る。いつ危険が襲うかわからないのだし、ロングスカートよりも咄嗟の行動の邪魔をしないズボンのほうがよいかもしれない。けれど普段くらい女らしくいたいと思う。大事な人のために身体を鍛えるのは苦でないし、いっそ好きだが、割れた腹筋は自慢したくないし見られたくない。偶発的に自分の硬い下腹をさする。

 真琴がティーカップを傾けた。
「調査兵団って若い子ばかりなの? リヴァイさんの年齢からして、率いる部下としてはなんだか――バランスが悪いっていうか」
「先の壁外遠征で熟練の兵士の大半を失いました。人手不足なのもあります。成りゆきもあるけど、あのチビといたほうが、悔しいけどたぶんベストなんだと、エルヴィン団長が判断したんだと思います」

 サシャがごくんとクッキーを飲み込む。
「名づけて新リヴァイ班ですっ。即席にしてはなかなかのチームプレーでしたよ」
「……味がしない。甘いもの、好きだったのに」
 ぼそりとヒストリアは呟いた。真琴が気をつかう。
「疲労じゃないかしら。そういうときって私もあるわ」

 調査兵団の置かれている状況と深刻さは真琴には伝わらなかったろう。どれだけ苦しいかも。人それぞれ生き方は様々なのだし、緊迫感を持てと真琴に強要する気もない。なべて一般市民の感覚はそんなものだろうし。
 商売人の労働意欲のかけらも感じさせない真琴。どちらかといえば王都で裕福に暮らしていそう。だからミカサは気がかりなことがあった。三枚目のクッキーをつまむ。

「真琴さん。なぜ会長の息子と婚約したんですか」
 食べかけのクッキーを真琴はぶっと飛ばす。食道付近を叩き、
「ごめっ。なんでって、なんで聞くの?」
「不思議で。政略ですか? まさか恋愛?」
「れ、恋愛っ。もう一瞬で恋に落ちちゃって」

 ミカサは首をかしげる。荷馬車で会長の隣に座っていた男。小太りだった。顔もいまいちだった。きわめつけは男のくせに弱そうだった。いったいどこに惹かれたのか。
「恋に落ちたきっかけ、聞いてもいいですか」
「え、え〜。格好よくて、男らしいとこかしら」
 と真琴はしなを作ってみせた。焦っているように見えなくもないが、恥ずかしいのか。

 人によって男性の見る目に違いがあるのだろう。が、やっぱりミカサには理解不能だった。
(私がまだ大人じゃないから? 真琴さんの好みがわからない。なんか残念)

 ※ ※ ※

 夕暮れになると薄手の上着がほしいくらいに気温が下がった。
 真琴は飯の準備に取りかかっていた。炊事場の火を起こす薪割りは、ミカサが買って出た――トレーニングになるからと。
 メニューはシチュー。背後のテーブルではエレンとクリスタが材料を切ってくれている。薪割りからミカサも戻り、じゃがいもを剥いていた。

 かまどを前に真琴は困る。火の焚き方がわからない。兵舎の生活は調理人がいたから補助をしていただけだった。
 おろおろしていたらクリスタが気づいた。
「真琴さん、どうかしましたか」
「……ごめん。火の焚き方がわからなくて」

「私がやります。慣れてますから」
 真琴はクリスタに手を合わせた。茶の間でなにやら手紙を読んでいるリヴァイが突っ込む。
「おいおい、冗談だよな。ガキでも焚けるものがわからない? どこぞのお嬢さんだ。それで嫁にいこうってんだから厚かましい。まったく親同士の取り決めは不幸なもんだ」
 クリスタの代わりにタマネギを刻んでいた真琴は手をとめる。
「あっちがぞっこん――」

「いえ、恋愛だそうです。真琴さんが一瞬で恋に落ちたとか」
 そうミカサが口を挟んだ。読んだ手紙をリヴァイは卓上ロウソクで燃やす。
「なるほど……。真琴を寄越したのはどうも信頼じゃなく、一般常識を得るための嫁入り修行らしい。会長の苦労を思うと哀れでならん」

「真琴さん、火が焚きました。お鍋をお願いします。――真琴さん?」
 目鼻にしみるは、つんとした刺激臭のタマネギ。危なかった。クリスタの火焚きがあと少し遅かったら、強く握りしめた包丁が暴走していたかもしれなかった。
「……ありがとね。今度教えて?」
 引き攣る微笑の真琴は、覗き込んでいたクリスタと交代した。

 チーズ香る具沢山のシチューの匂い。テーブルに人数分の盆が並ぶ。
 真琴は満足げに頷いた。火焚きには困らせられたけれど、そのあとの鍋の味付けは百点に近い。テーブル席についた男子のはしゃぎようが物語っている。
 自分の盛りつけを最後に真琴もテーブルについた。

「隣ごめんね」
 声をかけられたエレンが上目で小さく頭を振る。実は真琴のお気に入りした男子である。
「みんな手伝ってくれてありがとう。じゃあ、自然に感謝していただきましょうか」
 真琴が盆に対して頭をさげたときだった。向かいのジャンがエレンに噛みついた。

「可怪しくね? お前、それっ」
「何がだよ」
 ジャンは自分のシチューとエレンのシチューを交互に突きさす。
「量だよ、量っ。シチューのっ。お前のがあきらかに多いだろっ」

「知らねぇよ。俺が盛ったんじゃねぇし。みんな腹減ってんだから座れよ」
「おまっ。このやろ、今夜の飯担当だからって、ミカサにズルさせたろっ。ちくしょうっ、うらやましいっ」
「はあ!?」
 エレンの我慢も限界か。腰を上げそうになると同時にシチュー問題が飛び火した。天変地異かのごとくサシャの悲鳴が響く。
「ミカサのも多いですっ。ひどいですっ。私ずっと外で見張りしてたんですよっ。お腹ペコペコでいまにも死にそうなのにっ」

 ミカサはエレンのシチューと見比べる。「そう? みんな同じ量にみえるけど」
 そうだろう、と真琴は横目で見る。サシャは自分の指で大袈裟に両目を見開かせ、
「どこがですっ? 目ん玉ひんむきましょうかっ?」
 ジャンはミカサにあまいようだ。額に手を当て、苦しい解釈をする。
「いいんだよ、ミカサはっ。あばら折ったんだから、たくさん食わせてっ。目ん玉ひんむいてみろ、朝飯はお前の肉だからなっ」

「なっ。またミカサびいきですかっ」
「だいたい何で腹ペコなんだよっ。見張り中ずっと菓子を食っててよっ。大事な食料、盗んでんじゃねぇよっ」
 うっ、とサシャは口籠る。クッキーを盗んだのだと真琴は思った。
 手をつけられぬままの寂しい熱々シチュー。真琴はエレンを挟んだ向こう側のミカサを心配した。

「あばら悪くしてたの? 薪割りさせちゃってごめんね」
「数週間前の話です。もう治りました」
 骨折は数週間で治るものかと真琴は首を捻る。隣でエレンは溜息をついた。
「本人が治ったって言ってるんで。それにしてもすみません。食べ物が絡むとこいつら……」
「よくある、よくある。残り一個になると取り合いになったり」

 真琴はにこにこして手首を振ってみせた。実のところ心苦しかった。シチュー戦争を引き起こした原因は真琴にある。エレンとミカサは知らず助け船を出していたのだ。エレンは真琴にリヴァイの潔癖性を教えてくれた。ミカサは会長に息子がいることを証明してくれた。二つの情報は真琴の侵入を助けてくれた。なのでエレンとミカサのシチューは大盛りなのだ。

「お前ら」
 地を轟かせる低い語調。飾り棚を背にするリヴァイだ。
「俺はいつから、動物園の園長になった」
 さすがである。一瞬にしてシチュー戦争を終戦させてしまった。みんな青い面容で下を向く。
「お前らはまだいい。俺の皿を見ろ。これだ」

 リヴァイはシチューの皿を傾けてみせた。みんなの並盛りに比べ、彼のはあからさまに小盛りだった。『誰だよ、兵長の盛りつけしたやつ』と青ざめた小声が聞こえる。
 真琴も怖じ気づいた。――犯人は私よ。仕返しなんだから。などと、高飛車にのたまう勇気はもはや消え失せるほどの迫力だった。

「おとなしく食え。飯が冷める」
 真琴を一睨み――リヴァイはパンにかじりつく。
(……バレてる)
 真琴は温くなったシチューを口に含めながら、そっと眼をそらした。チーズと牛乳のこくのある旨味が台無しな気分。

 コニーが控えめに指差した。
「こいつのも多くね?」
 それはクリスタ。元気がないし小柄だし、精をつけてもらおうと真琴が大盛りにした。
「クリスタはみんなより痩せてるから、いっぱい食べてもらおうと思って。おかわりはもうないの。コニーごめんね」

 なぜかコニーは気まずそうにする。
「……あ、こいつクリスタじゃなくて――」
「クリスタはもういないんです」
 俯き加減にクリスタが訂正した。真琴はわからない。
「昼間コニー、クリスタって言ってたじゃない。それ聞いて私」

「やっちった。俺バカだから昔の名残で……。悪い、ヒストリア」
「本当はヒストリアっていうの? ごめんね、間違えて名前覚えちゃって。気を悪くしなかったかしら」
 ヒストリアは横に首を振った。
「いいんです。コニーも悪くない。三年間、自分を騙して、みんなも騙してクリスタ・レンズって名乗ってたんだし。ヒストリア・レイス。それが今の私なんです」

「――レイス?」
「知らないと思います。レイス卿の領地は、ウォールシーナといっても北部の小さな田舎ですから。私はレイス卿の落とし子なんです」
「そうだったの……」

 ヒストリアの容姿から言葉がすとんと落ちた。呼称に卿がつくのだから貴族の娘だったのだ。しかし引っ掛かることがある。会議のときにケニーが言っていた、レイス王家の王政だという発言に。ヒストリアと関係はあるのだろうか。
 歴史上、この世界の文化と照らし合わせてみても、貴族以外に姓に重きを置いているとは考えられなかった。真琴はシチューを胃に落としつつリヴァイを伺う。

「王家や貴族の姓が、血の繋がり関係なく被ることってある? 庶民の姓が貴族と同じとか」
「ほぼない。姓を名乗りゃ、どこの貴族様か名家かわかる。たとえば古く続くフリッツ王家。どこぞの奴がフリッツを名乗ったなら、血がどんなに薄くなっていたとしても、そいつは親戚だ」

「――フリッツ王家?」
 リヴァイのスプーンが口に運ぶ手前でとまる。
「頭は正気か? この国の王だろう」
「そ、そうだったっ。ど忘れしちゃったっ。たまにあるのよねっ。一日中お掃除して頭がくたびれちゃったんだわ」
 疑惑色のある双眸で、リヴァイはスプーンを含む。
「ガキ共にも聞いてみたらいい。姓の由来をな。ちなみに俺は、ただのリヴァイだ」
 シチューに胃がつかえる。リヴァイに怪しまれただろうか。いまの王はフリッツ王家だと彼は言った。ケニーの話と違う。

 情報は充分に得たが、真琴は場の空気を取り成すために他の子たちにも聞いた。姓の由来は様々。祖父が土地から取ったのだとか、曾祖母の名前から取ったのだとか、要するに庶民の姓は適当なのだとわかった。姓を重んじるのは王家と貴族と名家のみなのだということも。

 無言で食事を進めていたらアルミンがぽつりと呟いた。
「わからないことだらけだけど、ヒストリアとエレンは、僕たちが憲兵から守らないと――ね」


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mokuji
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