04.クソまみれの子猫ちゃん

 ――クソまみれの子猫ちゃん。
 真琴を飼った中年のケニーという男はそう呼ぶ。父親より一回り以上ある年齢だろう。
 兵舎の食堂はいつも酒宴。軽く火を通したソーセージを皿に、真琴は煙草の煙で曇った屋内を歩く。ケニーのいるテーブルに皿を置いた。

「どうぞ」
「ありがとよ。クソまみれの子猫ちゃん」
 そう言ってケニーはフォークでソーセージを刺した。真琴は顔を苦くする。
「もう泥まみれじゃないので、そのク、ク……ク」

「クソまみれ?」
「それです。やめてもらえますか」
「そうか? 俺にしちゃいいセンスだと思ったんだがなあ。そう思うだろう? トラウテよ」
 ケニーは隣の女兵士に絡む。
「下品かと」
 トラウテは取り澄まして答え、ケニーが回してきた腕を追っ払った。

 トラウテは厳しく強い女性である。前髪ごと引っ詰めた髪型がまた強くみせる。彼女はケニーの右腕な存在らしかった。愛想を振り撒くような人柄ではないが、真琴には比較的友好だから、他の兵士とのあいだを取り持ってくれる。おかげで巧くいっていた。

 真琴はトラウテに激しく同意した。
「ですよねっ、下品ですよねっ。もっと言ってくださいっ」
「ちっくしょうが。女ふたりにそうまで言われちゃ、俺のセンスがいまいちって認めねえとじゃねぇか」
 ケニーは立ち上がって真琴を指差す。がははと笑い、
「クソ泥まみれの子猫ちゃん! どうだ! いいねえ!」
 真琴は脱力した。
(……変わってないうえにひどくなった)

 真琴はケニーに飼われ、彼の世話役をしている。泥まみれで起き上がり、目の前にケニーを見たその日から。
 これは夢なのだと真琴は思った。西部劇に出てくるような様相のケニー、中世ヨーロッパのような雰囲気、それらがさらに強く夢だと思わせた。

 古井戸に落ちた瞬間のあとの光景がこれ。真琴は酒を飲み交わす兵士を見渡す。
(井戸に落ちたとき頭でも打って気絶したのかな。ちょっと長い夢な気もするけど、もしかしたら病院送りになってるのかもね)
 ファンタジーな夢は好きだ。創造世界の洋画やドラマもよく観る。その影響か、異世界にいる夢を見ているのだろう。最近は職場の悩みの夢ばかりで辟易していたので、久しぶりに見る異世界の夢を楽しんでいた。

 トラウテが前に座るよう真琴を促した。
「あなたって怖いもの知らずね、真琴。このケニー隊長にそういう物言いする人は、ここではいないわ」
「トラウテさんだって。けっこうきついこと言ってますよ、ケニーさんに」
「私は――こういう性格なのよ」
 と酒を傾けた。
 真琴は酒が入って上機嫌のケニーを見る。ケニーは恐ろしい人間だと兵士たちは揃って言う。けれどまだ恐ろしい部分を見ていないからこそ、あっけらかんとしていられるのだ。

 ケニーは喉を鳴らす。
「かーっ、今夜の酒は美味いぜ。賭博でごっそり儲けたからなあ。負けたあいつらの顔、がはは。つまみにならあ」
「隊長、忘れていませんか。先週大負けして、ごっそり、すっからかんになったこと。凝りてください」
「真面目だな、トラウテは。人生、楽しんでなんぼだぜえ。いつ死ぬか分かんねぇんだ。いまを楽しめ。ま、俺は不死身だけどなあ」

「そう言う人に限ってころっと逝くんですよ」
 ケニーは隣を指差しながら真琴に眼を細めてみせた。
「きっついだろ、こいつ。だーから男が寄ってこねぇのさ。いい歳してよ」
「よ、余計なお世話です。私たちの任務に男など……不要です」
 トラウテは顔を赤らめて濁した。

「強がっちゃって可愛いねぇ」ケニーは言い、真琴に対しグラスを揺らす。「さっき俺が不死身って言ったろ。ありゃまるきり嘘でもないんだぜ」
「――はあ」
「特別だ。見せてやるよ、子猫ちゃん」
 そう言い、ケニーはベストの懐に手を入れる。隊長っ、と横から制止するトラウテに構わず、ケニーは懐から出したものをテーブルに滑らせた。

 開けてみな、とケニーが顎で指したそれは黒いケースだった。真琴が言われた通りに開けると、中には注射器と透明な液体の入ったバイエル瓶が三本収納されていた。
「なにかの薬ですか、これ」
 バイエル瓶を手に取って真琴は観察する。インフルエンザのワクチンのよう。だが薬名や製薬会社などのラベルが貼られていなかった。

 ケニーはにやりとした。
「不死身――になれるかもしれない薬だ」
「――不死身に?」
 ケニー隊長っ、と鋭く制止するトラウテを無視する。ケニーは身を乗り出し指を一本立て、
「一瓶注射すりゃあ、あっと驚き。腕を切られても脚を切られても、生えてきちまう怖い薬ってなあ」

「生えてくる? 失った手足が? ホントに?」
 真琴は眼を輝かせてバイエル瓶に食い入る。ケニーの話が本当なら再生医療の夢の薬だ。この世界は医学がとても発展しているのか。
「すげぇだろう」ケニーは真琴の指からバイエル瓶を静かに奪う。

「あなたって人はっ。つき合いきれません。自室に戻ります」
 テーブルを叩くように腰を上げ、トラウテは真琴を見降ろした。
「不死身ほど恐ろしいものはこの世にないのよ、真琴」
「普通の人間だって充分おっかねぇぜ」
 と、ケニーは黒いケースを懐にしまった。

 真琴の胸にトラウテの言葉は刺さらなかった。黒いケースが気になってしかたない。バイエル瓶がほしい。会社に持ち帰られれば、真琴の功績として研究部門に異動が叶うかもしれない。どうしても手に入れたい。

 ケニーが酒で潰れるのを真琴は待った。
 テーブルにうつ伏せになっているケニー。真琴はゆっくり傍らに回り込み、ケニーの懐にそっと手を差し込んだ。
(どきどきする。気づかれたら殺されるのかしら。でも大丈夫、夢だもの。だからよね、全然怖くない)
 抜き取った黒いケースからバイエル瓶をひとつ盗む。それを手に握りしめたときだった。

 むくりとケニーが頭を上げた。酔っていたはずなのに先刻と違う空気。眼が怖くみえた。
 真琴は一目散に食堂を走った。後ろから追ってくる気配がする。心臓が飛び出そうなくらいのスリリング。――ああ、きっと目覚めてしまう。せっかく夢の薬を手に入れるところまできたのに。
 悔しく思いながら、真琴は開け放たれている食堂の窓から飛んだ。

 ※ ※ ※

 はっとした瞬間、頭上に青空が見えた。
 背中が痛い。いたた、と真琴は半身を起こした。そこは古井戸の中。手を突いている感触はコンクリート。
 会社の裏庭にある古井戸は中途半端に埋められており、底からてっぺんまで一メートルもなかった。たとえ落ちても充分這い上がれる低さだった。

 真琴は残念に思った。なんだ、やっぱり夢かと。
(でも夢でよかったのかもね。変な世界だったし)
 思ったのも束の間。右手が何か握っているのに気づく。手を開いて真琴は驚いた。
(持って帰ってきちゃった)
 手のひらには夢の世界で見たバイエル瓶があった。よくわからない。まだ夢の続きなのか。けれど打った背中の痛さが鮮明なのだ。

 混乱しつつも真琴は古井戸をよじ登った。古井戸の周りを見渡す。散らばった弁当の中身と箸が目についた。夢の中では数日過ごしたが、まるで古井戸から落ちて数秒も経っていないようだった。
(そうだ、洋服はどうなってるっ?)
 見降ろして、真琴は眉をひそめた。良い素材とは思えないシャツにロングスカート。夢の中で真琴が野暮ったいと感じた服装そのままだった。

 あまり信じないけれど、本当に異世界へ行っていたのかもしれない。ならば運よく戻れてよかったと喜ぶことにした。お宝も手に入れたことだし、と真琴はバイエル瓶を握りしめる。

 いきいきと走って向かうは会社である。夢の薬で上司に取り計らってもらうつもりだ。開発研究部門への異動を。
 真琴の夢の薬の説明を上司は胡散臭そうに聞いた。ただの水なのではと言われ、成分の分析を強くお願いした。結果、話が事実であるなら異動させてやると、上司を納得させた。その足で真琴は隣接する研究所へ向かった。

「なにその格好、ださっ」
 香織の第一声だった。真琴にはタイトスカートにヒールを合わせた研究用白衣が羨ましい。ださいと言われたスカートを摘み苦笑い。
「古き良き時代も悪くないかなって」

「はぁ?」
「だよね、――今日のコーディネートは失敗。――研究中に呼び出してごめんね」
「構わないよ、休憩に入ろうと思ってたし。あ」
 思い出したように香織は財布を取り出した。
「徴収か。先週、飲みにいったとき立て替えてもらったっけ。はい」

「そういうんじゃなかったのに。でも――確かに返してもらいました」
 香織が差し出す五千円札を無造作にポケットに突っ込んだ。
 研究所のリフレッシュルームで真琴は紅茶を一口飲む。
「研究室はどんな感じ?」
「あんまり。大手のあとを追いかけてる感」

 あらゆる研究が大手に負けていることは知っていた。競い合うどころか真琴の会社の研究所は弱い。海外の大手製薬会社に子会社化される噂も出ているほどだった。

「これなんだけど」真琴はバイエル瓶を差し出し、「成分の分析お願いしていい?」
「どういうもの?」
「最先端の再生医療に繋がる成分を発見したの」
 香織はバイエル瓶を傾ける。「再生医療の? どこで」

「えっと、――自宅で研究してたら、たまたま抽出できて。それで詳しく分析してほしくて。部長には話を通してあるから」
 なぜか少し心苦しいと感じるも、
「きっと社運をかけた大プロジェクトになると思うわっ」

「うーん、わかった。調べてみるけど。時間を無駄にするような物だったら焼き肉だからね」
 面倒そうながらも香織は引き受けてくれた。

 真琴は非常階段の方向へ歩いていた。
 なんだか狡いことをしていると思った。自分が作った薬でないのに、あたかも自分の利益にしようとしていることが。こんなに野心強かったろうか。上司の言うようにただの水であったなら気持ちが楽になるだろうか。
 真琴は頭を振った。
(いいのよ。どちらにしても、人を救う薬に変わりないんだから)

 それは非常階段に差し掛かっても、もんもんと考え込んでいたせいだ。真琴は空足を踏んで非常階段から落ちたのだった。

 ※ ※ ※

 ぱちっと眼をあけた真琴は愕然とした。
「――ケニー」
 食堂の窓から飛び降りたままの、草むらを潰し仰向けで倒れている真琴を、ケニーが跨がっていたからだった。戻ってきてしまったのだ。この世界、この現実に。

「クソ泥まみれの子猫ちゃ〜ん。なんで俺から逃げた?」
 ケニーの笑みが怖い。
「俺の大事なもんが、ひとつないんだ。知らねぇか?」
「知らな――しっ知らない」
 真琴は声が震えた。ケニーの凄みに殺されそうだと思った。

 ケニーは真琴の両拳を無理矢理ひらいた。その際ひやりとした。が、真琴の手の中にバイエル瓶はなかった。それで少しほっとした。
(私の世界にちゃんと置いてきたんだ。よかった、持ってなくて)
 いまにも殺されるんじゃないかと泣きそう。こんなに怖い人だったのか、と真琴はおののいた。

 真琴を立たせたケニーは身体検査をしながら呟く。
「ねぇ〜な」
「な、なにを探してるんですか。失くしものなら、さ、探すの手伝いますよ」
「薬瓶がひとつ紛失してな。さっき見せたやつだ」
 真琴は必死で取り繕う。
「やだ、私を疑ってるんですか。証拠もないのにひどい。落としたとしてもですよ、割れた瓶の欠片もないのに」

「確かにないようだ。じゃあ二つ目。なんで逃げた?」
「は、蜂! 蜂が入ってきて、襲われそうになったからっ、わ、私、焦ってっ」
「それで窓から?」
「だから焦っててっ」

 ケニーは見透かすように言う。
「窓開けっ放しだったからなあ、明るい食堂に入ってきちまったのかもなあ」
「た、食べ物の匂いもするしっ」
 真琴の心臓は破裂寸前。こんな馬鹿な言い訳が通るだろうか。自分なら納得しない。けれど頭が回らなくてこれが限界だった。

 ケニーはしばらく見据えてから、ぽんと真琴の頭に手をのせた。にかっと笑う。
「そうだよな。疑って悪かったぜ、子猫ちゃん。一つアドバイスだ。蜂と遭遇したら逃げるな。鉄則だぜ?」
「……は、はい」
 ケニーは食堂を振り返った。トレードマークの中折れ帽をくいっと上げ、
「さーて、どいつが盗んだのやら。めんどくせぇ」

 食堂の窓を跨いで中に入ったケニーは見渡す。酒で潰れた数人の兵士の中から、ひとり目星をつけた。首根っこを掴む。
「こいつ、こいつ。ちょろちょろ嗅ぎ回りやがって、ずっと目障りだったんだよなあ」
 食堂をずるずる引きずられながら兵士は慌てる。
「な、なんですか、隊長っ。いきなりっ」
「自分の胸に聞いてみろ」
 ケニーは面白いものをみせてやると真琴に言い、三人は表に出た。

 下草の上にケニーは兵士を投げ捨てた。
「胸に聞いたか? てめぇ、どこのもんだ」
「な、何を仰ってるのか。自分はケニー隊長に憧れて、対人制圧部隊に」
 ケニーはしゃがんだ。
「どこのもんだって聞いてんだ」

 再度詰問されて兵士は唇をかんだ。覚悟の表情を上げ、
「ここまでかっ」
 ナイフを取り出し自害しようとした。その手をケニーが素早く取る。
「だめ〜。しかし吐きそうもねぇな」
 ケニーは真琴を見上げた。
「面白いのはここからだぜ、子猫ちゃん。よおーっく見てるんだぞ」

 ケニーが取り出したのは黒いケース。注射器でバイエル瓶の中身を吸い上げる。
 真琴は怪訝に思った。それは再生医療の夢の薬ではないか。部隊の中に紛れていた裏切り者になぜ使うのだろう。
 不気味な笑みでケニーは兵士に注射した。

 途端、兵士の真下に雷が落ちたのかと思った。同時に地面の轟きと爆風が真琴を襲う。
 転がり回った真琴は顔を上げて絶句した。
(人間? 違う。なんなのあの大きな怪物は。どこから)

 どこから現れたのか、三メートルほどの人間のような怪物と真琴の眼が合う。またたく間に覆いかぶさるような勢いで襲おうとしてきた。が、真琴の直前でそれはどさりと倒れた。風圧で髪が舞う。
「危なかったなあ、クソ泥まみれの子猫ちゃんよ」
 怪物の上にケニーがいた。彼が倒したのだった。

 質素な自室で真琴は頭を抱えていた。罪悪感に押しつぶされそうだった。
 バイエル瓶の中身は夢の薬などではなかった。悪魔の薬だった。
 閃光と共に現れた怪物は注射された兵士であり、それを巨人という。急所はうなじで、削ぎ取ると絶命する。うなじ以外を切っても再生してしまうらしい。

 失った手足が生える。確かにケニーの言ったことは嘘ではなかった。けれどあんな――
(あんな姿に変貌してまで失った身体の一部を取り戻そうと思う?)
 しかも記憶を無くし、人間を襲い食らう。とんでもない薬を真琴の世界に持っていってしまった。
(香織、大丈夫かしら。あの液体、触れただけでも効果を発揮したらどうしよう)
 想像したら恐ろしくなった。香織が巨人になって、会社の人間を次々と――。

 いや、香織のことだから未知の液体を素手で触れるようなことは絶対しない。それどころかいずれ分析してしまうだろう。業績の悪い研究所のことだ。おそらく喜んで研究を進める。
 ――薬を取り返さないと。けれど戻り方がわからない。


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mokuji
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