03.不幸な溜息

 酒宴の喧騒から、少し離れたくなったケニー・アッカーマンは、兵舎の裏でひとり煙草を吸っていた。腰掛けに使っている切り株の足許はぬかるみ。数時間前の雨はやみ、いまは夜虫の鳴き声が耳に優しい。湿り気を帯びた温めの気温も優しい。
 そんなときだった。どしゃり――と音がして背後を見返る。
 どこから湧いたのだろう。潰れた蛙のような格好から、のろのろと女が半身を起こす。その姿は泥に塗れて汚かった。

 癖のある長い髪も、翳りのある顔も、東洋人なのも。――三つの要因が、ケニーの追憶する三人と重なり、遊び心もあったのだけれど、珍しく自分を寛大にさせた。
「よう、クソまみれの子猫ちゃん。ここへどう忍び込んだのか、この際どうでもいい。発見者が俺で運がいいぜ。他の奴らだったらミンチ肉にされてたかもな」

 ※ ※ ※

 一週間後にゴールデンウィークを控える時期は、不安定な天気が続いた。今日は二日振りに晴天だが体感は肌寒かった。
 真琴は不幸な溜息をついた。勤務先の製薬会社の裏庭で。
 古井戸に腰掛け、膝に弁当を広げ、それを眺めながらまた溜息をついた。
 二十三歳。入社して一年。希望部署に配属されずに一年。異動願いが通らず一年。

 焦り過ぎだろうか。いや、違う。
 真琴は会社横に併設されている研究所を見る。同期の香織は研究開発部にいるではないか。自分には適性がないのだろう。
(薬科大を出させてもらってこれだもの。情けないな。お父さん、お母さんごめんね。大人しく薬剤師になってればよかったのにね)

 薬科大学四年制の真琴と六年制の香織では差がついて当たり前。すべては人生設計が曖昧だったせいだ。
 転機は高校三年の二学期も後半に差し掛かったころ。事故で見た夢がきっかけだったのだけれど、もう内容はあまり思い出せない。が、薬草学に興味を持った。病気の人を救う研究に興味を持った。だが興味を持ったころには遅かったのだ。――必死で受験勉強したのだけれど。

(よほどの天才じゃないと無理よね。アインシュタインとか)
 けれど夢は諦められないから異動願いは出し続けようと思う。
(お弁当、食べよ。お母さん、毎日ありがとう)
 元気のない身体で箸を持つ。それがいけなかった。力の抜けた身体は簡単に体勢を崩した。

 あっ――と思ったときには上半身が後ろに傾いて両足が浮いた。青空にピンクの箸が二本飛ぶ。膝許の弁当が浮いて中身が散らばる。
 ――この古井戸は中途半端に危ないから。
 そんな同僚の言葉を思い出しつつ、真琴は古井戸に落ちていった。


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mokuji
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