02.朧げだが長い夢

 今日も少年は昼食を食べてから、また出掛けていった。どこに何をしにいっているのか気になるけれど、年頃の少年なのだし、干渉するのは憚られた。
 少年の家はもともと片付いていたから、洗濯が終わってしまえば、夕飯までやることがなかった。特に動いたわけでもなく、ソファでぼうとしていた。だというのに十五時が近づくころ、真琴の小腹がきゅうと鳴いた。

 おやつ代わりになるものを作ろうと、調理場に立った。野菜カゴにはじゃがいもの割合が多かった。長持ちするし、価格も手頃なのかもしれない。野菜を使った、おやつ代わりにもなり、簡単に作れるものといえば、アレしか思い浮かばなかった。ちょうどバターもあるし、食品の中では高価なものにあたるだろうが、じゃがいもを蒸かすことにした。

 串を刺し、じゃがいもの蒸かし具合を確認していた。と、戸の開く物音に真琴は見返った。
 少年が帰ってきたのだが、傷だらけの姿に真琴は絶句した。平然そうにソファに座ろうとした彼の傍らに、真琴は滑り込んだ。
「どうしたの、その傷。誰かにいじめられたの? 小さい子供に――許せないっ」
 少年の顔は、目許に青あざ、切り傷、口端も切れている。シャツもズボンも砂汚れており、おそらく殴られたり蹴られたりしたのだろう。

 心配と怒りの混じる真琴を尻目に、少年はうざったそうにする。怠そうにポケットに突っ込んだ手を、放り投げる仕草をしてみせた。
 床に金属が転がる音を、真琴は眼で追う。駒のように回転しているそれが、緩やかになっていき、やがてぱたりと倒れると、銀や銅の硬貨だった。合わせて、くしゃくしゃの紙幣が数枚舞い落ちていた。

「ばか。なんで俺がいじめられる? 小さいガキってのも訂正しろ。――今日は賭け試合があった」
 非合法なものだろう。少年は傷を負っているから、賭けるほうでなく賭けられる立場だったのは明白だ。
「なんでそんな危険な試合なんかに。死んだらどうするのよ」

「なら逆に聞く。俺みたいなガキが地下で生きていくのに、ほかにどんな方法がある。ここじゃ孤児を食べさせてやってくれる、慈悲のある輩なんかいねぇ。国自体にも見放されてる地下街だ。体を張って金を稼ぐのと、盗み以外に、正当な稼ぎ方があるなら、あんた教えてくれよ」
「……ごめん。世間知らずで」
 地下街に神様はいない。地下天井のわずな亀裂から、斜めに差し込む光しか、縋るものを感じられないくらい、救いのない街だというのは真琴も感じていた。

 痛っ、と少年は口端を触れる。戸棚に指をさした。
「薬がある。薬草が詰め込んである瓶、見えるだろ? 持ってきて」
 真琴は戸棚から瓶を手にした。透明な瓶の中にシソのような葉っぱがたくさん入っている。薬草と言っていたけれど、真琴は首を捻った。

 差し出すと、瓶を押しつけられた。
「あんた気が利かないな。手当くらいしろよ」
「そう……よね」
 真琴は瓶の蓋を開けた。薬草な香りが飛び出す。使用方法がいまいちだが薬らしい。葉っぱを摘まみ、痛そうに眼を眇めている少年の、切れた口端にそのまま貼りつけた。
 間、髪を容れずアホ、と手で払われる。
「薬草汁にして塗れよ。貼ってどうする。家に居候が増えたから稼いできたのに、いい加減な手当はないだろ」

「いい加減な気持ちじゃなくて」
 払われた薬草を拾い、
「使い方がわからなかったの。普通に塗り薬はないの?」
「既製品は高い。効果が同じなら、地下の奴らは薬草を選ぶ」

 真琴は感心した。薬草から既製品を自ら作れるなんて――と。種類を組み合わせることで飲み薬にもなるらしい。漢方薬のようなものだ。
 少年に指示されながら、擦り傷用と打ち身用の薬草汁を、真琴は完成させることができた。工程がとても楽しかった。

 塗りながら、
「奥深いのね、薬草って。面白い」
「あ? 俺は働いてきて面白くない」

 少年の手当は無事に終わった。真琴は鍋を前に、肩越しに振り返る。
「勝負してきたんでしょ。小腹減ってない? おやつを作ってあるんだけど、食べる?」
「おやつ? 俺が蹴りくらってたときに、おやつかよ。呑気なあんたに殺意が湧く」
 ソファから腰を上げ、
「けど食べる」

 テーブルについた少年の前に、真琴は皿を置いた。湯気をあげる蒸かしたじゃがいもに、とろけたバターの良い香りがする。
 皿を覗き込み、少年は不思議そうにした。
「なにこれ」
「じゃがバタ」
「じゃがばた?」

「食べたことない? ものすごい簡単なのに、ものすごい美味しいから。子供はみんな好きだと思う。私も好きなの」
 少年はフォークを手にする。
「子供はやめろ。ったく、バターを使いやがって。いくらすると思ってんだ」
「だってバターが必須なんだもん。口にする前から文句言わないの」
 じゃがバタを口に運ぶ。振りかけた塩と、バターと、ほくほくのいも。大きなじゃがいも一個を、ぺろりとたいらげられてしまうほど美味だった。

 期待薄そうに少年も口にする。と、かすかに眼を丸くした。真琴はわずかな変化を見逃さなかった。うんともすんとも言わず、黙々と食べる少年ににやりとする。
「やみつきになるでしょ」
「別に」
「嘘。好物入りしたくせして。バターは高かったかもしれないけど、それだけの価値あるでしょ」

「うるせぇな。静かに食べさせろ。腹が減ってりゃなんでも旨い」
「やっぱりね。美味しいんだ」
 少年は仏頂面した。じゃがバタをあっという間にたいらげ、炊事場で皿を洗う。その小さな背中が照れくさそうに、
「……毎日、作れ。三食これでも構わない」

「でもバターが高いんじゃ」
「どうとでも仕入れられる」
 真琴は嬉しかった。頬杖をついて、少年の背中に微笑む。
「少年がそう言うなら毎日作ってあげる。でも栄養が偏るから、おやつの時間にね」

 真琴は少年に連れられ、地下街を歩いていた。昼なのに暗いし、じめじめ感が街全体を陰気にさせる。目的を告げられずに連れ出された真琴は、地下街を歩いていて気になることがあった。
 それは通りすがりの栄養失調そうな人や、隅にうづくまる路上暮らしの、異常に痩せた人に多く見られた。みな湿った咳をしているのだ。

「いま風邪が流行ってるの?」
「いや。原因不明の流行病だ。二、三年ごとに流行る。罹ると致死率が高い。いまだ特効薬もないらしい」
 結核や肺炎に似た病気だろうか。抗生物質があれば治る気もしないでもない。特効薬が出来れば助かる命が増えるだろうにと、真琴は不憫に思った。

「少年も気をつけてね。手洗いが一番の予防になるから」
「流行病に関係なく、俺は実践してる」
 そうだった。わざわざ助言しなくても少年はきれい好きだった。
 ひらけた場所に出そうなところで、少年は路地の影に身を潜めた。この先は闇市だという。野菜や果物を積んだ荷車や、小麦袋を積み重ねた荷車が、頻繁に往来している。

 ぎりぎりの生活を強いられている住民にとって、決して良心的な値段ではないらしい。しかし生きていくために食料が必要だから、持ち合わせの物などと交換して、やっと少しの食料を得ているのだという。
 少年の目的は買い物だったのか。真琴がそう思ったとき、路地の正面を荷車が通った。そうして少年にどんと背中を押された。

 急に飛び出してきた真琴に、荷車を引いていた商人は怒鳴った。
「危ねぇだろ! 気をつけろや!」
 わけがわからず、「すみません」と真琴が謝るや否や、背後から飛び出してきた少年にスカートを捲られる。舞い上がったスカートから見えたショーツに、商人が釘付けになった。
 慌てて真琴はスカートを押さえつける。
「な、なにすんのよっ。突然っ」

 商人が釘付けになっている隙をついて、少年が荷車を蹴っ飛ばした。積まれていた小麦袋、野菜や果物が、ばらばらと路地に転がる。

 少年は真琴に命令した。
「あんたは小麦っ」
 慣れた手つきで、少年は転がった野菜や果物を素早く袋に詰めていく。流れにのまれて、真琴は足許に落ちている小麦袋を、つい抱えてしまった。あっけな真琴に、
「ずらかるっ」
 少年が肘を掴み、その場から逃げる。突風のような活劇だった。商人の悔し紛れの怒声が背後に遠くなっていく。少年の目的は盗みだった。

 しばらく逃げ回ったろうか。膝に両手をつき、真琴は呼吸を整える。少し泣きそうになった。
「盗みに加担しちゃった。咄嗟だったとはいえ――なんてことしちゃったんだろ」
「別に捕まりゃしねぇよ。みんなやってる」
 真琴が盗んだ小麦袋を脇に抱え、
「使えねぇ。たった一袋かよ」

「ばか。一袋が限界よ。重いんだから」
 息がまだ切れているから、真琴は背を丸めたまま少年を見上げる。ふてぶてしい表情をしていた。
「スカートまで捲って、まったく。少年に処世術とやらを教えた人の顔が、見てみたいものだわ」
「たかがケツくらいで説教かよ。使えるもん使って何が悪い。それにあんたの腹ん中、とっくに盗んだものでいっぱいだろ。いまさらなんだけど」
 真琴は苦虫を噛む。薄々勘づいてはいたけれど、家にある食材はやはり窃盗によるものだった。

 真琴は少年の家のソファで居眠りしていた。かまどの火焚きが小さな音を爆ぜて消えていく。そして辺りは闇に包まれる。地下街は夕方を過ぎた頃だった。
 しばしのあと、切羽詰まったような、荒々しい戸の開く音が響いた。真琴は両目を擦りながら半身を起こす。扉付近にぼんやりと少年の影があった。

「ん……。おかえり。いま何時? 長く眠っちゃってた気がする」
 何も答えがない。急ぎ駆けつける感じに、少年は小走りに近づいてくる。表情は部屋が暗くて見えなかった。
 くずおれるように傍らに膝をついた少年は、真琴の腰に抱きついてきた。縋るように腹にも顔を埋めた。段々と力を込めてくる。圧迫から感じ取ったのは孤独感だった。

「どうしたの? 出先で何かあった?」
 肩を触れると小刻みに震えていた。
「……少年?」
 真琴が覗き込んでみせると、怯えた声が呟いた。
「――いなくなったと思った」

「ああ。部屋が真っ暗だったから、攫われたと思って心配してくれたの? この前の盗みの仕返しに――」
 言い終わる前にさらに強く腕が巻きつき、
「違う。真っ暗だったから。窓が真っ暗だったから。いつもなら煙突から煙も出てるのに、それも見えなかったから」
 と少年は弱々しく否定した。

「薪を足すの忘れちゃって。居眠りしてるあいだに火が消えちゃったみたい。――でもちょっと大袈裟じゃない?」
 真琴の言い分は話半分しか耳に届いていないみたいだった。少年は独白する。
「俺を置いて、またいなくなったと思った。あの日と同じように、また」

「……亡くなったお母さんのこと言ってるの?」
 真琴の腹を擦るふうにして少年は首を横に振る。
「また、って。じゃあ誰のことを――」
 言いかけて、はっとした。
「――処世術を教えたって人のことを言ってる?」
「母さんが死んですぐ、あいつは突然やってきて、突然いなくなった」

 いつも生意気な少年が、別人のようにひどく不安定に見えた。『あいつ』という人物が少年にとって思い入れのある人なのだと伝わってくる。
「変な奴だった。でも一緒に暮らした。なのに何も言わずに突然去っていった。俺は一人きりになった。金にもならない喪失感を植えつけていきやがって」

 怒りなのか寂しさなのか、おそらく両方の感情だろうか。
「ごめんね。思い出させちゃって」
「気まぐれだったはずなのに。あんたのことなんか、なんとも思ってないはずなのに。また捨てられたと――こんな気にさせやがって。あんたのせいだ」

 真琴は惑った。少年を不安にさせてしまってひどく惑った。震える小さな背中を優しく包み込む。
「私は、いなくならないよ? 少年の前から突然消えたりしないよ?」
「……嘘だ」
「嘘じゃない。絶対一人にさせない」

 少年がそろりと顔を上げる。瞳が切願した。
「……ほんとに?」
「うん。少年とずっと一緒だよ。ずっとずっと一緒にいる。約束」
 微笑むと、少年はほっとしてみせた。抱きついてくる力は穏やかになったが、長い時間そうしていた。
 真琴の気持ちは本物だった。少年が可哀想だとか哀れだとか、そんな一時的な情に流されたのではない。夢だからといって、ぞんざいな気持ちでなく、まっすぐに約束を交わした。

 いつもの井戸で、真琴はみすぼらしい女達に混ざって洗濯をしていた。洗濯カゴを持ち上げたところを、ぼろを纏った女が立ち塞がった。
「あんた、どこの女かと思ってたら、あそこのガキの女だっていうじゃないか」
「……はい、お世話になってますけど。……それがどうかしましたか」

 生気のない眼つき、顔色の悪さ、枝毛だらけの長髪――幽霊のようで恐ろしい。洗濯場の井戸で他人に話しかけられた自体が初めてだった。
 女は真琴の髪を一ふさ掴んだ。なぜか引っ張られているから頭皮に痛みが走る。
「艶のあるきれいな髪ね。あたしらとは大違いだ。あそこのガキは要領がいい。さぞかし旨いものを食ってるんだろうね」
 確かに少年は要領がいい。しかしそれは生命力が強いからともいえる。

 いつの間にか、真琴は似たような様相の女たちに囲まれていた。恨めしさの形相に、少しずつ井戸に後退る。
「……あの、食べ物なら余ってるので、お裾分けできますが」
 真琴の台詞は火に油を注いだ。
「あたしらが物乞いしてるとでもっ? ふざけるんじゃないよっ」
「なめんじゃないよっ。あばずれっ」
 女達に口々に罵られる。ではなんなのか。食料が欲しいのでないのなら、なんなのか。真琴は妬まれているとしか考えつかなかった。

「こちとら、ひもじい思いで毎日を凌ぐのにやっとだっていうのに。なんだい、あんたの顔はっ。血色のいい頬してっ」
「あたしらの顔を見なっ。ろくなもの食ってないせいで、この通り、皺だらけさっ」
 後退り続け、真琴の踵が石作りの井戸にあたった。女達の主張はやはり食料ではないか。勝手に恨まれて、かちんときた。
「だから、そんなに食べ物に困ってるなら、あげるってばっ。いい大人のくせに、こんな子供じみたイジメ、しないでよっ」

「あげるだって!? 生意気な小娘がっ!」
 一人の女が迫りきってきた。その勢いに真琴は井戸の縁に尻もちをつく。それでバランスを崩し、暗い井戸に落ちた。水の音はしなかった。

 大きく息を吸うと共に、喉から海水を吐き出した。激しく咳き込む。制服がびしょ濡れで体が寒い。真琴は堤防に横たわっていた。
 上から覗き込んでいる年配の男が安堵している。
「無事でよかったっ。いや、焦ったよ。近くで釣りしてたら、あんたが堤防から落っこちてさ。引き上げるのに苦労したよ。さっき救急車を呼んだから、安心しな」

 水平線に沈む太陽の位置は、最後に見たときとほぼ変わっていなかった。ほとんど時間が経過していないわりに、すでに朧げだが長い夢だった気がする。夢だったのに、心残りが尾を引いた。――少年を一人にしないと約束したような、と。

 怠い半身を起こした。男が心配するのをよそに、真琴は水平線に沈んでいく太陽を見つめた。太陽の力強い命が、水面にきらきらと反射する。不思議と希望が満ちてきた。
「――決めた。私、決めたっ。たくさんの命を助けるのっ。私、薬科大に進学するっ」


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