01.海から落ちたきっかけの

「ああ……。塾さぼちゃった。怒られるかな」
 真琴は溜息をついた。高校三年の二学期も後半だというのに、進路がまだ決まらなかった。やりたいことが見つからないのに、両親からも学校の担任からも塾の講師からも、進路をせっつかれて嫌気がさしていた。だから塾をさぼって、お台場の防波堤で足をぶらぶらせている。

「大学に入ってから、やりたいことを見つけるのじゃ、ダメなんだって」
 水平線に沈もうとしている太陽にぼやく。真琴の両親は、いい加減な気持ちで大学進学するのは、許さないと引かない。最近は口を聞くのも嫌だった。
「ああ、もう!」
 苛々して大きく足をばたつかせた。それがきっかけで、真琴は防波堤から海に落ちたのだった。

 わずかなあいだ、真琴は暗闇を漂っていたと思う。気づくと、視界の悪い場所に座り込んでいた。視界が悪いのがなぜなのか、仰ぐと鍾乳洞だったからで、いわゆるだだっ広い地下にいた。ほの明かりが灯る古びた家々が建ち並んでおり、治安の悪そうな雰囲気のする地下街だった。

 海から落ちたきっかけの夢なのだと、すぐに真琴は楽天的な思考に至った。
(だってさっきまで日本にいたんだもん。いきなり外国っぽいところに場面が変わる?)
 立ち上がろうとしたとき、後ろから腕を掴まれた。柄の悪い壮年の二人組の男だった。
「たまげたな。若い女だ。腿がたまんねぇ。変な格好してやがるが、器量がいい。娼館に高く売れるぜ、こりゃ」

 いやらしい顔つき――と真琴は冷静に男達を蔑んだ。夢ならばよくあるパターンだろう。大きな悲鳴を何度か上げれば、おそらく救世主が現れるはずだ。
「きゃあ、助けてっ。人さらいよっ」
 三回は叫んだだろうか。貧しそうな周りの人は、見て見ぬふりをする。(あれ? 可怪しい)救世主が現れないまま、真琴は男達に引きづられていく。
「この界隈じゃ誰も助けてなんかくれねぇよ。借金背負って、死ぬまで娼館暮らしだろうな。せいぜい可愛がってもらえ」

 さすがに真琴は少し焦る。足を踏ん張り、
「た、助けて! お願い、誰か!」
 と、横からの飛び蹴りと男達の呻き声。風のように現れた少年が、男達の横腹を蹴ったのだ。そのまま、真琴は少年に手を引かれて走る。蛇のような汚い細い路地をあちこち走る。
 救世主は少年か、とちょっと真琴は残念に思った。王子様に助けられる展開を期待していたのに、夢とは巧くいかないものだ。

 前を駆ける少年のたなびく髪は焦げ茶。十三歳くらいだろうか。服装はとても質素。真琴よりも背が低く、体格も華奢なのに、とにかく足が早い。そのせいで、さっきから足がもたついていた。
「ここまで来れば、もう大丈夫じゃない? 助けてくれてありがとう」
 息が切れる。もう止まってほしいと少年の手を引いた。

 少年は足を止め、家と家の狭間の道で振り返った。無表情な冷たい眼をしていた。
「助けたわけじゃない。こういうのも金になるだろ」
 真琴が首をかしげる暇なく、容赦なく首許からネックレスを引きちぎられた。十八金のネックレスで、母親からせびって譲ってもらったものだった。
「それ狙いだったの!? か、返してよっ」
 一歩足を踏み出すと、少年も一歩下がった。くるくる回す手首に、ネックレスが巻きついていく。
「等価交換だろ。俺はあんたを助けた。代わりにあんたはコレを差し出した。高く売れそうだ」

「助けたわけじゃないって、言ったばかりの口がそれを言うっ? ちょっと少年っ、それ十八金なのよ、価値わかってるんでしょうねっ?」
「うるせぇ女。じゃあな――」
 あっさり踵を返そうとする少年を、「待ちなさいっ」真琴は勢いあまって押し倒した。拍子に膝小僧を擦り、冷たい石畳に両手を突く。
「年増に体を売る気はない。どけ」
「ば、ばか。年増じゃないわよ、失礼な。少年とそんなに違わないはずよ」

「いくつ?」
「十七。少年は?」
「十二。やっぱ年増じゃん」
 無表情に生意気なことをいう少年だ。真琴は沸騰しそうな気をなんとか沈める。
「ここであったのも何かの縁よ、少年。私、行く当てがないの。お母さんに頼んで、数日だけでいいから居候させてくれないかな」

「母さんは去年、死んだ」
「……ごめん」
「別に。人間はいずれ死ぬだろ」
「少年……家は? もしかして路上暮らし?」
「ばかにするな。それなりに生計を経てて暮らしてるさ」

 家はあるらしい言い方だった。真琴は口端をあげる。
「さっき等価交換って言ったじゃない? そのネックレス、売ったらおつりがくるわよ」
「脅してるのか」
「背に腹は代えられないの。行く当てがなくて困ってるの。また変なのに絡まれたくないし」
「腹黒いんだな」
 真琴は苦虫をかんだ。少し良心が痛んだ。脅迫しているのではないのだけれど、相手が少年なだけに悪者な気がしてくる。

 少年は涼しく言った。
「いつまでこうしてる? ガキが趣味かよ」
 言われて、真琴はずっと押し倒したまま会話をしていたことに気づかされた。「なわけないでしょ」と少年から退いた。
 少年はゆるりと立ち上がる。
「……まぁ。その程度の強引さがねぇと、この地下街では生きていけないだろうな」
 ぽんぽんと服を叩き、
「あんた、飯は作れる? 掃除と洗濯も」

「も、もちろんっ。ま、任せてっ」
 真琴は拳を上下させてみせた。親に任せっきりで、そこまで得意ではないけれど、嘘も生き延びる一つの手段と割り切った。

 少年の家は、くの字階段の二階建てだった。掃除と洗濯が住み込みの条件だったから、だらしない部屋を予想していた。が、家具類は劣悪なものの、きちんと整頓されていた。
「誰かと同居してたりするの? 仲間とか」
 少年について、リビングダイニングキッチンの作りの部屋を見渡す。そこそこ広い。
「一人暮らし」
「一人にしては広いのね。もっと狭い家かと思ってた」

「前に住んでた奴を追い出して、奪った」
 え、と真琴は頬が引き攣った。少年はどう生計を立てているのだろう。だいだいの予測はできるが、問うのはやめておこうと思った。
 二階がおもな居住空間で、一階は物置場らしくほぼ使用していないらしい。洗濯ロープに何着も服がつるされている。
「ちゃんと生活してるじゃない。その年で自分のこと全部するの、えらいね」

 表面のひびが目立つソファに少年は腰を沈めた。
「処世術を躾けられたから。近所付き合いとか」
「そうなんだ。お母さんがしっかりしてたのね」

「母さんじゃない」
 言いたくなさそうに眼を逸らしたから、真琴は聞くのをやめた。
「突っ立ってないで、さっさと飯作れ」
 と炊事場を顎で示す。飯と言われても地下街は暗かったから朝昼夕の区別がつかない。
「今って何時頃なの?」
「バカか。もう晩飯の時刻だろ」
 抑揚のない命令に、真琴は「はいはい。夕飯ね」と適当に応じる。かまどはすでに火焚きされていた。外気が冷たかったから、これで暖を取っているのかもしれない。

 調理台には意外にも、新鮮な野菜や果物やパンに加え、繋がっているソーセージがぶらさがっていた。地下街の貧しさと比べて、ずいぶん豊かな生活ぶりにみえる。これらの品も、正当に入手しているとはとても思えないが、やはり問うのはやめておこうと思った。
 真琴はじゃがいもを手の上で弾ませる。
「何が食べたい?」
「食にこだわりはない。食えればなんでもいい」

 材料を見て、ポトフが思いついた。コンソメのような便利な調味料がないから、味付けが不安だったが。
 鍋でことこと煮て三十分。具沢山のポトフが完成した。小皿で味見した真琴は苦く唸った。味が薄い。ソーセージだけでは旨味が充分でなかった。コンソメさえあれば簡単な献立だったのにと思う。
 オレンジを切ったものとパンを添えて、ポトフをテーブルに置いた。

「夕飯ができたわよ。食べよ」
 少年はソファから腰を上げ、のろのろと椅子を引いた。ポトフを一口食べる。
「不味い。なにこれ、水煮かよ?」
「どう見てもポトフでしょっ」
「オイ、水煮だろ。食料を無駄にするな」

 言い返せない。少年のいうように確かにあまり美味しくないから。だしを取られて味のはっきりしないソーセージを真琴はかじる。
「明日の朝になれば、もうちょっと味が濃くなってる……はず」
「朝もこれ? 勘弁しろよな」
「人が作ったものは、たとえ美味しくなくても、黙って食べなさい」

 少年は切ったオレンジをフォークで刺し、口に入れる。
「これは美味いじゃん」
 わざとらしさに腹が立つ。ただ切っただけのオレンジは料理といえないのは、真琴が百も承知であった。
 夜、寝る時間になると少年はベッドに入った。真琴は革張りのソファで毛布にくるまる。都会の眠らない街のように、地下街もまた、かすかな喧騒に包まれていた。

 何時間寝ただろうか。相変わらず暗い地下街だけれど、たぶん朝だと思った。真琴が起きたときには少年は家にいなかった。どこかに出掛けたらしい。昨晩の残りのポトフは食べていったようだった。真琴という家政婦がいるのに、律儀に皿も洗ってあった。
(どこに行ったのかな。お昼には帰ってくるかしら。とりあえず洗濯と、お昼ご飯も作っておくか)

 少年のシーツやシャツをカゴに入れ、真琴は近場の井戸に向かった。そこはみすぼらしい女達の寄り合いになっていた。見よう見まねで、洗濯板でごしごし洗う。力をかなり使うし、井戸水が冷たい。全自動洗濯機を懐かしく思った。
 昨夜、吊るされていた洗濯物の畳んでいて気づいたのだけれど、少年は洗剤を使っていないようだった。香りもしないし、汚れも落ちきれていないし、生乾きの少し嫌な匂いもするから明白だった。少年はまだ十二。正しい洗濯の仕方までは覚えられなかったのかもしれない。

 昼食を作り終えた。帰りはまだかと、なんとはなしに戸を開けたら、軽い衝撃を感じた。
「――痛っ」と少年が腕で額を庇っていた。どうやら戸を開けたタイミングでぶつけてしまったようだ。
「ごめんっ」
「がさつだな、あんた。気配でわかれ」
「ごめんなさいね、がさつで。――なんだ買い物いってたんだ」

 少年の抱えている大きな紙袋から野菜がはみ出していた。地下街の住民の貧しさ具合から、少年がそれだけの品物を買える金を持っているとは思えなかった。はっとして、真琴は問い詰める。
「まさか、その食材、ネックレスを売ったお金で買ったんじゃ!?」
「俺の物を、俺がどう使おうが勝手だろ」
 真琴はショックを隠せない。
「た、たったそれだけ!? 十八金が……たったそれだけ!?」

「食いもんが高騰してるんだ、しかたない。あんたが無駄に食材を使った分、補充しなきゃだろ」
 少年はどさりとテーブルに紙袋を置く。
「無駄にしてないわよっ。ポトフ全部なくなったものっ。価値がわからなくて騙されたんじゃないの、それっ?」
「ほんとにうるせぇ女だ。だから俺は女ってのは嫌い――」
 言いかけて、少年は天井を仰ぐようにした。吊るされている洗濯物をぼうと眺めている。
「ちょっと聞いてるのっ? 高かったんだからねっ」

 わめく真琴を無視して、少年はまだ乾いていないシャツに鼻を近づける。眼を丸くしていた。
「これ、あんたが?」
 真琴は眉を寄せた。急にどうしたというのか。
「そうだけど」
「なにをした?」

「だから洗濯。――ああ、でも石鹸を使わせてもらったわ。汚れもよく落ちたと思うけど」
「それでか。家に入ったとき、新鮮な空気を感じたのは、それでか」
「……余計なことした?」
「――清潔な匂いがする。悪くない」
 少年は穏やかにシャツに顔を埋める。

「洗濯に石鹸を使うこと、知らなかったの?」
「そこまでは……教えてくれなかった。何度水で洗っても、汚れが落ちないし、臭いも取れないし、ずっと嫌だった」
 少年の家はゴミが落ちていない。使った食器もためない。きれい好きなのは気づいていた。だから洗濯物には困っていたのだろう。
「――そう。いま知って、よかったじゃない」
「……ああ」


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mokuji
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