雪解け(過去・番外・後日談等) | ナノ
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 果てまでは何度でも


彼女、周が俺の研究室を出て行った十分後、副隊長に呼ばれて局長の研究室に入れば、驚きの光景に思考が停止した。
局長が彼女に何を試すのか、いつも聞いていない。
今日も勿論そうで、しかし思いもよらないそれに、俺は柄にもなく言葉を失った。
局長の研究室だと言うことも忘れて、彼女に見入っていた。
彼女、周が、其処にいた。
但しその姿は、俺が初めて彼女と出会った時のそれだった。
子供の姿の彼女が、其処にいた。
大判の手拭いに包まれた彼女が、不意に俺を見上げる。
彼女は、いつものように笑ってはいなかった。
笑うこと等知らないような無表情で、

「あこん…?」

と呟いた。

「何だネ、阿近のことは覚えているのかネ?」

こくり、局長の言葉に彼女は頷く。

「例の薬だヨ。どうやら記憶障害が出ているようだネ。全く私としたことが」

局長が先日完成させた新薬、霊圧と魂魄の成長を退化させる薬だ。
以前松本副隊長が日番谷隊長に盛った薬の、反対薬と言ったところか。
局長にしては珍しく誤算があったようで、本来ならば記憶はそのままの筈だか、記憶まで後退してしまったようだ。

「まぁ仕方ないネ。阿近、記録だけは取るんだヨ」
「はい、分かりました」

局長は、すぐさま彼女に投与した新薬の記録を見直し始める。

「解毒剤も作り直しだヨ。まぁ私はこのままでも構いやしないんだがネ」

局長はそうかもしれないが、彼女がこのままでは護廷の隊務に支障が出るだろう。
日番谷隊長は勿論、総隊長も黙ってはいない筈。

「……周」
「……はい」

彼女は確かに返事した。

「自分の名前は分かるのか。苗字は覚えているか?」
「……苗字……分かりません」

言葉と一緒に、彼女までもが真っ白い手拭いに溶けて消えてしまいそうだった。

彼女の記憶は、唯後退しているわけではなかった。
自分が何処の地区出身なのかも、此処が瀞霊廷だと言うことも、護廷十三隊、死神、そう言ったことも覚えていない。
そして、荻野隊長のこと、日番谷隊長のことも覚えてはいなかった。
覚えいるのは、分かるのは、荻野隊長に付けられた名前と、俺のことだけ。
唯、俺を覚えていると言っても、俺が何で、何処の組織で、何処でどう出会ったのかも全く覚えていなかった。
今の彼女くらいの頃に初めて会った時、俺も同じく幼かった筈だが、おかしなことに彼女は、今の俺を見て知っていると言う。
彼女は、彼女にとって一番大切であろうことは覚えておらず、何故か俺のことだけを覚えていたのだ。

一通りの記録を取り終え、これからどうするか考える。
彼女を一人にすることは出来ないが、俺も仕事がある。
此処で座っていろと言えば彼女は従うだろうが、いつまでだ?
解毒剤が完成するのはいつになるか分からない。
局長の気が乗ればすぐに出来るだろうが、他に興味のあることがあれば後回しになるだろう。
彼女は明日出勤なのか、非番なのか、それも分からない。
聞いておけば良かったが、そんなことを聞く習慣がないのだから仕方がない。
彼女に記憶さえあれば、こんなに迷いはしないんだが…。

「少しは思い出したか」
「…いいえ」

長椅子に座る彼女に聞くが、彼女は首を横に振る。
リンに買いに行かせた浴衣は、子供用にしては大人びていて、偶然にもその柄は水仙だ。

「明日出勤なのか…覚えてるわけねぇよな……」

俺の言葉が理解出来なかったのか、彼女は首を傾げる。

「何でもねぇ。気にするな」
「…あこん、困っていますか」

頭を掻く手が止まる。

「私の所為ですか」

彼女の目線に合わせるように膝立ちになると、無表情の彼女がじっと見る。
今思えば、俺は子供の彼女を当たり前のように直視出来ている。

「困ってねぇよ」

彼女が笑っていないからか?
彼女が子供の姿だからか?
――分からない。
分からないが、不思議なことに、彼女を真っ直ぐに見ることが出来るのだ。

「それに、お前の所為でもねぇ」

言って、気が付く。
彼女に言った通り、本当に困っていない自分がいた。

「本当ですか…?」
「ああ」

彼女の頭に手を伸ばすと、彼女は一瞬びくりとしたが、俺の手が頭を撫でると、不思議そうに(そう見えただけだ)俺の手を見つめた。
彼女の髪の毛に触れて、走馬灯のようにあの時の記憶が蘇る。
いつか昔、一緒に茸取りに行った時。
彼女の髪の毛が植物の蔓に絡まって取れなくなったのだ。

「…良かった」

彼女の唇の端が、ほんの少し上がった気がした。

そうだ、俺は困っていない。
このままでも良いと、子供のまま、自分のことしか覚えていない彼女のままで良いと、心の隅で思っている。

「……電話してみるか」

定時から二時間程だ。
まだ隊舎に残っているかもしれない。
残っていなくても、あの人は飛んで来るだろうが。

「でんわ?」
「ああ、ちょっと待ってろ」

彼女がこのまま、子供のままだったら、そうすれば――。
否、何も変わりはしない。
以前あの人の記憶が消えた時と同じ。
何があっても変わらないもの。
それを信じ、変わらないで欲しいと願った筈なのに。
俺はどうかしている。
周、お前の所為だ。
お前が、俺のことなんて覚えているから。
俺のことなんて、忘れてしまってくれたら良かったのに。



果てまでは何度でも



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