今朝方から降り続いていた雨は、今はサアサアと穏やかな小雨に落ち着いてきている。遠くの空は雲が切れかかり、うっすらと空色が顔をのぞかせている。この分ならもう半刻もせず止んでくれそうだ。今日は雨のせいかお客さんもそこまで多くはなかったけれど、たまにびしょ濡れで飛びこんで来て、雨宿りがてらお茶とお菓子を注文してくれる人もいた。
お客さんが来るたびに、少しだけ、期待している自分がいるのも不本意ながら気づいてしまった。仕事中に変なことを考えると皿を落としかけたりお湯を沸かせすぎたりと碌なことがない。いかんいかん、と頭をぶんぶん振ってはみるが、また会えたらいいのに、お店に来てくれればいいのにと、考えずにはいられない。ちょっと親切にしてもらったからといって、こんなにあの人のことばかり考えてしまうとは…。いや、違う、これは……そうだ、恩返しをしないといけないからまた会わないと、というあくまで礼儀として、そうだ、そういうことだ。別に断じてそういうやましい気持ちではなくて。いや、今はまだ仕事中なんだからしっかりしないと。

脳内一人問答を続け、外の様子を伺いながら止めてしまっていた手を動かし、洗い物の続きを再開した。
我ながらなんて阿呆なんだろうか……。まだ母さんの体調は良くないし、大変な時なのだ。お医者さまはただの夏風邪だとおっしゃって、心配しなくてもすぐに良くなると笑っていたけれど、掠れた声で辛そうに咳を繰り返す母さんの姿はもう見たくない。あの人は、留三郎さんは無茶して怪我してからじゃ遅いと言っていた。正論だけれど、この家のことは今、私がなんとかしなければならないのだ。最後の洗い物を終えて、ひんやりと冷たくなった手を閉じ、ぐっと力をこめる。多少無理をしても頑張ると決めていたのだ。
私が風邪をひいた時、母さんは女手一つながらに店もしっかり回し、私のこともちゃんと気遣ってくれた。今度は私がそれを成す番なのだ。

気づいた時にはすでに小さな雨音も止んでいた。差し込む光は明るく、ひょっとしたら虹が出ているかもしれないと、戸を開ける。

「んんー、気持ちいい! ……って、あれ?」

思い切り伸びをした後ふと足元に目をやると、そこには見覚えのない小さな包みが唐突にぽん、と置いてあった。手ぬぐいに包まれたそれを、訝しみながらそっと持ち上げる。意外に軽い。誰かの落とし物だろうか?
ひょっとして中に、持ち主に関する何かが入っている可能性も、なくはないわけで。この落とし物が誰のものか分からなければ、届けることも出来ないわけで。

「開けてもいい…よね」

失敬しますという意味合いも込めて、パン、と手を合わせる。すいません、勝手に中を検めさせていただきます。相手も分からないままに小さく謝りつつ、包みを解いた。
出てきたのは懐紙が幾つかと、一つの文のようなもの。どなたか宛に書かれたものを勝手に見るのはさすがに憚られたが、ひょっとしたら名前が書かれているかもしれない。というか可能性大だ。少々の罪悪感と好奇心を抑えつつ、そっと、慎重に文を開いていく。

「え……え?」

そこには間違いなく、しっかりと私の名前が記されている。本文のほうは至って簡潔なもので、「風邪に効く薬だ。母上に差し上げろ」と、さらさら流れるような、けれど勢いのある、そんな字でそう書かれていた。差し出し人の名は記されず、文をいくら翻せど、それらしきものは書かれていない。
けれど何故だろうか、真っ先に頭に浮かんだのは、あの精悍だが人懐こい笑顔のよく似合う、あの人だった。確証はないけれど、強い確信はあった。
ああ、私はまた、助けられてしまったのだ。

雨に洗いあげられた、どこまでも澄みきっている空気を深く吸い込み、大きく吐き出す。恩返しなんてできやしないで、どころかまたお世話になってしまうとは。ずるいなぁと思いつつ苦笑し、けれどあの笑顔がまだ鮮明に思い出されて、少しだけ胸のあたりがぎゅっと縮むような、息苦しくなるような感覚がした。

ありがとう、と独りごちて見上げた空には、少し消えかけの虹が弧を描いていた。