私の母さんは、茶屋を営んでいる。あまり目立つことのない町はずれの小川沿いに店を構えているが、四季折々その時期にあったものを提供しているためそれがなかなか好評で、お客さんは毎日絶えることはない。それなりに繁盛しているといえる。
そうして毎日お店の切り盛りしている母さんが風邪で思うように働けなくなってしまったものだから、その分を私が賄わなければならなくなった。今までもそれなりに手伝いはしてきていたけれど、いつも商いを取り仕切る母さんが思うように動けないこと、これはなかなか大きかった。祖父母はすでに亡くなり、父も私の幼い頃に流行病で亡くなってしまったため、店を手伝えるのは私だけなのだ。

店じまいをした後、まだ日の落ちない明るいうちにと、私は山へ向かった。風邪に効く薬草でも採れればと思ったのだ。しかし山の天気は変わりやすく、薬草を採るより前に私は山の中腹で水瓶をひっくり返したようなとんでもない大雨に見舞われた。こんな土砂降りを遮ってくれるようなものを私はなにも持っておらず、ひとまず道の脇にある大きな木の下へ避難することにした。
はーっ、と大きく息を吐いて、空を見上げる。薄灰色の雲がどんよりと低く垂れ込み、雨はまだまだ止みそうにない。このままこうしていれば日が暮れてしまうし、最悪びしょ濡れになってでも帰らなければ。私まで風邪をひいたりしたらただではすまないというのに……山を舐めていた少し前の自分にデコピンしてやりたい。どうすることも出来ずぼんやり俯いていると、雨音に混じって、水溜りを跳ねさせるようなぱしゃり、という音が聞こえた。

誰か、来る。間を置かずぱしゃり、ぱしゃり、と繰り返される水音に、心臓が縮み上がるような思いがした。どうか、山賊のような迷惑な人たちじゃありませんように、とひたすら願いながら音のする方をそっと窺った。
そこには私と同い年か、少し上ほどだろうか?青年が一人、いた。彼は藍色の傘を片手にすたすたと涼しい顔で歩いている。う、羨ましい……。羨望の眼差しを遠慮なしに浴びせかけていたせいか、向こうも私に気づき、はたと目が合った。ジロジロ見てしまった手前勝手に気まずい思いをしていると、何故か彼はまっすぐこちらへ向かってくる。
しまった、やっぱりジロジロ見たから怒られるのかな。インネンつけられたらどうしよう、などと内心一人あわあわしている私の目の前まで来た彼は、私に向けてずい、と傘を差し出す。というか、私に傘を差しかけてくれた。予想外の行為にポカンと間抜けな顔をしていると、早く受け取れ、というように、つり気味の目で私をじっと見つめている。かと思うと、その精悍な顔つきを破顔させ、親しげな笑みをこぼした。

「参るよな、突然降られると。ホラ、使え」

突然声をかけられたものだから、急には言葉が出てこなかった。青年の、意外なほどに優しげな声色に驚き、自然な流れで傘を受け取ろうと手を伸ばしかけた。しかし見ず知らずの謎の青年に、ハイありがとうございますと傘を貸していただくわけにもいかないと思い、慌てて手を引っ込め首を横に振った。

「だ、大丈夫ですよ、見ての通り雨宿りしてますし」
「濡れ鼠状態じゃ説得力ねーぞ」
「うっ……」

この青年の言うとおりだ。正直に言ってしまうとこの木の下、それなりに雨よけは出来るが、時々枝の隙間から水滴は滑り込むし、何より葉っぱに溜まった水滴が、満を持してと言わんばかりにぼたぼたと落ちてくる。それらは着実に私を妖怪濡れ鼠へと仕立て上げていった。

「俺はもうすぐ着くし」
「でもこの雨じゃ、もうすぐ着くっていっても結構濡れますし、やっぱり悪いですから……」
「遠慮するなって」
「で、でもですね」
「……あ、じゃあ」
「へ?」
「俺はこれで帰るから、気にすんな」

そう言って彼は私たちの足元に自生していた大きなフキの葉を一つぶちりと引っこ抜くと、それをまるで傘のように自分の頭上に掲げた。
えええ、そんなまさか。私が、そんなの駄目ですという言葉を発するより先に、彼は私の足元に傘を置いて、じゃあなと背を向け走り出してしまった。彼は相当足が速く、なまくらな私ではとても追いつけそうにない。容赦なく降り続く雨もそのままに、ただ彼の背中を見送るしかなかった。

「あ、明日のこの時間に、また返しに来ますからーっ!!」

あっという間に遠のいていく背中に向けて、叫ぶことしか出来なかった。少し振り向いてくれたから聞こえはした……と思いたい。少し重量感のある藍色の傘は、手にするととても頼もしく、私を雨から守ってくれるには充分すぎるほどだ。
ばしゃりばしゃりと水を跳ねさす音は、次第に小さくなっていった。