毎年お盆の時期には、遠く田舎の祖父母の家に行き、そのまま家族みんなで泊まるのが毎年の恒例になっている。10年前、私が赤ちゃんだった頃からそうしていたそうだ。夏休みの宿題も、この日を満喫するために頑張って全部終わらせている。だって、長い夏休みの中でいちばん遠くに出掛けることのできる、特別な日だから。学校の友達に買っていくお土産を考えるのも、楽しみの一つだ。
そんな祖父母の家の前には、小さな川が流れている。昔は蛍も飛んでいたんだと、お母さんが教えてくれた。今では辺りがコンクリートで固められてしまって、川の水質も変わってしまったらしい。

みんなでお墓参りをしたあと、私は一人で家の周りを歩き回っていた。
台所仕事をしていたお母さんに承諾を得て、家の裏手にある山のほうへは行かない約束をして。人通りの少ない場所は危ないから行かないように、という約束に頷き、私はお気に入りの青いサンダルをつっかけて、外に駆け出した。
祖父母の家には毎年来ていたが、周りを見てまわることはそういえば初めてだった。まだ太陽は空の高いところで白く照っていて、空の色は淡い青だ。薄っぺらかったり、点々だったり、もくもくしていたり。色々な雲が浮いているのを見て、心が踊った。

一通り周辺を見て回った私は、ずっと視界に入っていた山が気になっていた。高さがあるわけではないけれど、なだらかな緑が夏の空に映えていてとても綺麗だ。お母さんにはあまり遠くや危ない場所には行かないように言われたが、そう言われてしまうと逆に気になってしまう。しばらく自分の好奇心とお母さんの言葉で葛藤しながら山を眺めていた。
うん、大丈夫、ちょっと、ちょっとだけだから。勝手に自分を納得させ、私は怪しい雲行きにも気付かずに山へ足を踏み入れた。

そして数分後には、自分の軽率な行動を呪っていた。突然バケツをひっくり返したようなとんでもない大雨が降ってきたのだ。山の天気は変わりやすい、とはよく聞いていたけれど、私はそのことを身を以て知った。
ひとまずそばにあった木の下に逃げ込んだが、やはり大雨の中では木の下に逃げたところで雨宿りの意味をなさず、私は雨から逃げるように木の幹にぴったりと背中をくっつける。その場にしおしおとしゃがみ込んで膝を抱え、途方に暮れることしか出来なかった。
空には晴れ間など少しもなく、辺りは暗く雨でぼやけていて、さっきまでの好奇心なんてどこへやら。やるせない気持ちを抱えて空を見上げる。せっかく楽しいお出かけだというのに……本当にまったく、数分前の自分にデコピンしてやりたい。
どうすることも出来ずに俯いていると、雨が木の葉を叩きつけるバタバタという音に混じって、遠くからばしゃん、という水を跳ねさす音が聞こえた。ような気がした。慌てて耳をすますと、それは聞き間違いなどではなく、確かに私の耳に届いてくる。断続的に続くその音は、何かが走ってくるような音に聞こえた。

誰か、来る。次第にその音は、私のほうへ近づいてきた。ばしゃばしゃ、ばしゃん、という大きな音とともに、彼は山道を駆けてきたのだった。
そこにいたのは、私と同じくらいか、少し上くらいの歳の男の子。彼は何故か、大雨の中、閉じたままの傘を片手に息を切らして走っていた。そのつり気味の目で、私のほうをまっすぐに見つめて、私の目の前へ駆けてきたのだ。
私のそばへやってきた彼は、切れた息を整えもせず、ばさっと大きな音を立てて傘を開く。藍色の、大きな傘。
そしてそれを、私の目の前へずい、と差し出した。その傘のおかげで私は雨から身を守ることができたけれど、当の彼は半ば強引に私の手へ傘を押し付けると、膝に手をついてぜえぜえと肩を上下させた。その様子があまりにも苦しそうで、慌てて彼に傘を差しかける。

「あ、あの、大丈夫ですか?」
「……ん」
「なんで、傘……」
「天気…変わりそうなのに、山入っていくやつがいたから」
「うっ……」
「急いで家戻って、傘持って追いかけた」

つまり彼は、見ず知らずの私のために傘を持ってきてくれたのか。お母さんの言いつけを破って、なんとなくな好奇心でフラフラ山に入った私のために。なんてこった、私は無用心なうえにとんだ大馬鹿じゃないか……。
一人肩を落として呆然としていると、彼は一つ、大きく息を吐いた。

「ご、ごめんなさい……」

自分の口から出た声は思っていた以上に小さくて、傘を叩きつける雨の音にかき消されてしまわないか心配になった。けれど私の言葉はちゃんと彼に届いていたらしく、彼はしょうがねぇな、とでも言うように眉を下げて笑った。

「あの、本当に、本当にありがとう」
「……お前、名前は?」
「え?」
「名前」
「あ、えっと、みょうじなまえです。あなたは……」
「……俺は」



ととん、という、小さな電車の優しい揺れで、柔らかく目が覚める。それとほぼ同時に、あ、また思い出せなかった、と思った。いつもこうだ。恩を受けた彼の名前を、どうしても思い出せない。
たまに、こうして昔の夢を見る。こういう時、決まって私は幼い頃の自分に戻っていて、その時の記憶をそのままになぞっていく。夢の中で、私は10歳の時の自分に還ることが出来るのだ。

あの後、お互いの名前を名乗り合ってから、彼は私を家まで送り届けてくれた。家に帰る途中、雨が止んで、空にかかった虹を二人で眺めた。私が虹を指差して喜んでいるのを、隣にいた彼が優しく見ていてくれて、なんだか恥ずかしくなったりもした。
彼とはそれ以来会ったことはなかった。毎年祖父母の家には行っていたのだが、彼がどこに住んでいるのか聞かなかったものだから、会いたくとも会えなかった。山の近くに住んでいる、と言ってはいた。ような気はするのだけど。
それに、どうしてだか、彼にあれこれ聞くのが酷く躊躇われたのだ。聞いたら話してくれるのだろうか、何も教えてくれなかったらどうしよう。そんな、正体のわからないモヤモヤした思いが、彼に問いかける言葉を思い留まらせた。彼と会ったのはその時が初めてだったというのに、私はなぜか奇妙な寂しさに囚われて、結局彼について何も知ることは出来なかった。
それでいて何故だか、まるで忘れたくない記憶をなぞるように、繰り返し同じ夢を見てしまうのだから、不思議なものだ。
電車の窓枠に切り取られた絵画のような夏の景色をぼんやりと眺めながら、中身が半分ほどに減ったペットボトルのお茶を口に含んだ。


改札を抜けると、すぐに駅の外へ続いている。これは小さな駅ならではだ。一つ大きな伸びをすると、座りっぱなしで凝り固まった体が、ぐん、とほぐれた。遠くに見える濃い深緑の山々、真っ青な空にどっしりと腰を下ろしている入道雲。深く吸い込む空気が美味しいのも、きっと気のせいじゃない。

転職先がおじいちゃんとおばあちゃんの家があるこの土地に決まった時、素直に嬉しかった。私は幼い時から、この町の空気や景色が好きだった。どこか懐かしく思うような、田舎特有の香り、空気。

「さてと」

荷物が詰まった鞄を背負いなおし、おじいちゃんとおばあちゃんが待つ家へと歩き始める。鞄に詰めたペットボトルが、小さくちゃぽん、と気持ちの良い音を立てた。