あれから一度、町へ足を運んだ。空の雲は嫌に厚く、雨の気配をのせた湿っぽい風が、髪の毛を重くするのが鬱陶しい。
少し離れた場所からみょうじの店を伺った。町に明るい太陽の光はさしていなかったが、それでもあの店には活気があり、みょうじは店の客を相手に笑っていた。話に花を咲かせながら、口元を手で抑えて、こみ上げる笑いを抑えているようなしぐさ、はにかんだ笑顔。あの日、あの店に行った日は、その笑顔は俺の隣にもあったのだ。ほんの数日しか経っていないのに、今はまるで遠い存在のように感じる。
みょうじの店へは足を運ばず、そのまま存在を消すように踵を返した。

やっぱり俺の答えは間違いではない、と思う。俺はあの場には近づくべきではないのだ。
その思いは、あいつと初めて会った時から持っていたものだ。自分からお節介をしておいて、と思うが、自分の下の名だけを名乗ったのも、あいつの店になかなか足が向かなかったのも、全部結局はあいつとの間に確実な壁を作っておきたかったからだ。
いずれは早々に死にゆくのだ。戦の中に心置きなく身を投げ入れるにはきっと、身の回りを軽くしておくべき。そう思った。もう、あいつとは会わない。これで顔を見るのも最後だ。
そうだ、このほんの一瞬の時間が、その記憶や思い出があれば、俺はそれで生きていける。あいつには俺のことも、俺が志しているものも知ってほしくない。教えるつもりもない。知らなくていいのだ。あの穏やかな時だけを、あいつの記憶に残しておきたい。自分の中にも、綺麗なまま。

気持ちを抑えこむようにして、思い切り駆け出した。地面を蹴るたびに、確実にあの町との距離が広がっていく。それは物理的なものであり、内面的なものでもあった。
ひたすらに風を切っていた体に、ぽたりと冷たい何かが落ちてきた。その一粒を皮切りに、大粒の雨が降り出した。周囲の木々に雨粒が打ちつけられ、バタバタと激しい音を立てる。まるで身勝手な俺を責めるような激しい向かい風に煽られ、雨は俺の真正面から吹き付けた。ついさっきまで咽び鳴いていた蝉たちも、雨風にやられたのかいつの間にか鳴きやんでいる。
遠くで雷鳴が轟いているのが、雨音に混じって耳に届いた。ゴロゴロと、力を抑え、蓄えているような音。しばらくしたら雷雲にも追いつかれてしまうかもしれない。いろいろなものに追い立てられるようにして、俺は足を早めた。

学園に着いてからしばらく、水を被り続けた体もそのままに空を見上げた。空は、未だ鈍色の重たそうな雲に覆われていた。
この雨で、あの町沿いに流れる小さな川も、泥の波にのまれているのだろうか。あの日見た蛍が舞う美しい川は、見る影もなくなっているのだろうか。

「け、食満先輩?」

母屋の廊下から、鉢屋が眉をひそめた怪訝な表情で俺を見ていた。

「早く上がったほうがいいのでは…風邪を引きますよ」
「ああ……そうだよな、すまん」
「いえ」

ありがとうな、そう返して口角を上げると、不破の顔をした鉢屋は、困ったような笑顔で小さく頭を下げて、その場を去っていった。その背中を見送って、俺も自室へ向かった。

その日を境にして、雨ですべてを流してしまったように、あの町へも足を運ばず、あいつにも会わなかった。もともとほんの一瞬の出来事だったのだ。
それから季節は勝手に流れていって、いつの間にか蝉の鳴き声は鈴虫に、そして、生き物の気配がなくなる季節へ。またやってくる夏を前にした春、俺は学園を出た。



遠くで戦を鼓舞する鼓の音がする。戦場と化した草原はすでに草が剥げて、砂埃が舞っている。
自分の最期がこんな、流れ弾如きで終わる、呆気ないものだとは思いもしなかった。鉛に引き裂かれた太ももの血管から、生暖かい血が流れ出ているのが分かる。止血の処置をして、戦場から離れた場所に体を引きずってはきた。しかし処置が遅かったせいだろうか、当たりどころが悪かったせいか。血は未だ止まらずに体温はみるみる下がっていく。冷たい草の上に重い四肢を投げ出した。夏だというのに、足の先は感覚がなくなるようにすっと冷えていく。自分の体から、人の温かさがなくなっていくのが分かった。

仰向けになり、気持ちよく晴れ渡った空を見上げながら思い出すのは、10年も前に学園で過ごしたあの穏やかな日々。そして、6年の夏の事。最近は思い出すことも少なくなっていたのに、昔から都合のいいことだ。この最期も当然の報いなのかもしれない。
眩しく照っている太陽の光に、目を閉じる。未だ勢いの衰えない戦場で飛び交う怒号が、雷の音のように聞こえた。四方から降る蝉時雨も混じって、様々な音が体中を包むようだ。それら不快な音一つ一つが、過去の夏を思い起こしていく心地よいものに変わっていく。死を前にした俺の頭が、都合のいいように変換してくれているのか。ありがたいことだ。笑いがこぼれて、しかしそれもどんどん遠くなる。
耳が機能しなくなっていくのか、夏の声は次第に遠くなっていく。

「水の音、が……」

恋しい、そう、思った。