※血の描写あります


薄く頼りない三日月を、厚い灰色の雲が覆い隠してくれたおかげで、辺りは少しの隙もないほどの黒に包まれていた。濃緑の忍び装束が闇に溶ける。自分の、ほんの少しではあるが乱れた呼吸もその闇に溶けていくような、張り詰めた空気。
戦の気配がある城への浸入、そしてその城の密書を密かに掠め取るのが今回の実習だ。というか、実習を兼ねた学園長先生からの依頼でもある。
一人でもいけるか。
今日の昼下がり、授業を受ける生徒たちの声が遠く聞こえる学園長先生の庵で、忍務を言い渡された後。学園長先生にそう尋ねられ、俺は間髪入れずにもちろんです、と応えた。そんな俺の言葉を受けて、学園長先生は口元に笑みを浮かべながら深く頷いた。
6年生はプロに一番近い、と言われている学年だ。場数も踏んでいるし、その分様々な場面に対応するための経験も豊富である。

それが故の過信だった。いや、多分ほんの一瞬の油断が招いた事態だ。

城から去り、少し離れた場所で、忍務の達成を確信した俺はふう、と一人息を吐いていた。懐に入れた密書の存在をしっかり感じながら、学園に戻ろうとした、その時のことだ。
ほんの一瞬の油断だったはずだった。
殺気をまとった苦無が、どこからともなく闇を破り飛んできた。それを寸でのとこれで避け、すぐさま身を屈め、自身の存在を殺すように息を潜める。夏の夜の空気は生温く絹のように柔らかで、しかし今この場に流れているのは、ピンと張り詰め切迫した空気だ。
体を闇に紛れさせ、辺りを伺っていた。神経を全身に集中させていた、はずだった。

「どこの城の者だ」

相手の姿も見えない闇の中、すぐ背後で男の声だけが浮かび上がる。背中のあたりが変に冷えたような気がして、ゾワリと鳥肌が立った。
気づいた時には、背中をとられていたのだ。
動脈に突きつけられた、鋭く、無機質な冷たさは、多分苦無の先端だ。
相手の低く、地を這うような声。その問いかけに無言で返すと、苦無の刃が皮膚を少し破った。答えなければ今すぐここで首を掻っ捌く、ということだろう。そこからプツリと血が滲み、少しずつ首筋を伝っていく感覚がこそばゆい。
何故だろうか、焦りはあったが奇妙に冷静だった。首筋を流れる血のように冷たく冴えた頭で、隙を窺い続ける。

結局、運は俺のほうに味方したようだった。
すぐそばの木に止まっていた蝉が飛び立ったのだろう、ジジッというその羽音に、ほんの一瞬、本当に、刹那の隙が出来た。張り詰めていた緊張の糸がほんの少し緩んだ、その隙をついて、男から距離を取りつつ後ろ回し蹴りを食らわす。そして。


しばらく実戦はなかったものの、鍛錬は続けていた。鉄双節棍の鍛錬も怠らず毎日していた。だが、これを使って人の頭を割ったのは久しぶりかもしれない。鉄双節棍を持つ手には、まだ人の肉を殴りつけた時の感触がある。
柔らかい皮膚、跳ね返そうとするような弾力のある肉や筋肉。それを力でねじ伏せた時の感覚が、男の頭から流れた血で血だまりが出来始めた今になっても、まだ残っている。
倒れている男の傍らに屈んで、男の様子を伺った。起き上がる気配はもうない。そばで見てみると、男は体格や顔の感じからして、俺とは少ししか年が違わないように見えた。利吉さんくらいの年だろうか。
この男の仲間の気配はなかった。大方、一人でなんとかして手柄を立てたかったのだろう。それとも人手不足か。
どちらでも構わないが、追っ手が一人だけだったのは不幸中の幸いだ。まぁどっちにしろ、早くこの場を去るに越したことはないだろう。
立ち上がろうと、手近な木に手をついた。と、手元で小さく、くしゃり、という乾いた音がした。なんだろうかと木に顔を近づける。
そこには蝉の抜け殻があった。それの一部分を粉々にした音だったようだ。汗をかいた手に張り付いた粉々な抜け殻を、手で軽く払い落とす。
なんだ、今夜はやけになにかを壊す日だ。
自嘲しながら、その場から逃げるように立ち去った。手に残っている感覚を振り払うように、ただひたすらに走った。