近頃は実習もなく、まとまった時間がそれなりに取れていた。だがそれでもしばらくは、なんとなくこの町に来ることを躊躇っていた。何故か、というのは自分でもなんとなく分かっている。多分、揺らぎたくなかったからだ。

藍色の暖簾が出ているみょうじの店に着き、店の中に促された。客足の落ち着き始めた時間帯なのだろう、他に客は二人だけで、そのせいか店の中はそれなりの広さがあるように感じた。
彼女が帰ってきたことに気づいた彼女の母上は、店の奥から出てきて、俺の顔をじっと見た。そして彼女のほうへ顔を向け、優しげな笑みを浮かべる。親子だから当たり前なのかもしれないが、二人はよく似ていた。特に目元が見事に似ているなぁと思いつつ、二人の顔をそっと見比べる。

日が落ちてきた今の時間帯なら店の中より外の方が涼しいからと、外の縁台を勧められ、それに従った。団子と緑茶を頼んで、再び店の奥に戻っていくみょうじの母上の背中を見送り、残ったみょうじの顔を見る。

「似てるな」
「母さんに?」
「ああ」
「よく言われます。やっぱり親子なんですよね」

そう言って、彼女は小さくはにかんだ。その顔がまたよく似ているなと思い、小さく笑い返す。

「なまえ、ちょっといいー?」
「あ、はーい! ……すいません、ちょっと行ってきます」
「ああ、気にすんな」

手伝いのためか、名前を呼ばれたみょうじは店の奥へひっこんだ。

日暮れの時間を迎え、傾いた太陽は昼間の勢いをいくらか落とし、それなりに過ごしやすくなった。でかでかとした夕日が町中を橙一色に染め上げていて、眩しさに少し目が眩む。母親が子供の手を引きながら家路につく。若い町娘3人が話に花を咲かせながら目の前を通り過ぎていく。
ここではこんなにもゆったりと時間が進む。普通の生活を送る人々は、こんなにも穏やかな時間を過ごす。

「当たり前だよなぁ」

ここには普通の幸せが溢れている。喧嘩している若い男女もいれば品物を値切るのに必死で押し問答を繰り返す店主と客もいるが、それも何気ない日常の一部なのだ。何気ない日常を送れるということは、普通の日々を過ごす人間にとってはこの上ない幸せだろう。

「お待たせしました」

団子を二皿と湯のみが2つ乗った盆を片手で支え、それらを縁台の上に一つ、一つと置いていく。それらを全て置き終えると、盆を胸の辺りで抱えた。
彼女はちょっと失礼します、と言い残し、店のほうに引っ込んでいった。奥のほうへ消えていった彼女は、少し間をおいて、藍色の何かを片手に戻ってきた。いそいそとこちらへ歩み寄る彼女が手にしていたのは、団扇だった。戻ってきた彼女は団扇を片手にはにかみながら、縁台の端のほうを指差した。

「あの、一緒に座ってもいいですか?」
「ああ」

俺は縁台の左側に、彼女は右側に。真ん中には団子と湯のみ。距離が離れてはいるが、いつもより彼女が近く感じるのは、このゆったりとした空間のせいだろうか。
茶を一口、口に入れる。渇いていた口の中や喉に水分が染み渡っていくのがわかり、熱を持っていた体がふっと楽になるのを感じた。
ふと、温い風が右から吹いてくるのに気づいた。何気なく彼女のほうに目をやると、彼女は持っている団扇で然りげなくこっちへ風を送ってくれていた。ぱた、ぱたと団扇が風を起こす小さな音が、規則的に聞こえてくる。
日が落ちてきた町の中、茶を片手に、柔らかい風を感じながら、彼女の存在を感じる。ただそれだけだというのに、何故こんなにも安心してしまうのだろうか。

「みょうじ」
「はい?」
「ありがとうな」

そう言うと彼女は、きょとんとした後に、少しだけ笑った。団扇が起こす優しい風に揺れ、目に入りそうになる前髪を手で避ける。
あれだけ赤く燃えていた夕日は、もう山の向こうへ落ちていた。仄暗い影が、町を覆い始めていた。