心の在処が分からなくなったことがある。
私がまだポケモントレーナーとして、バトルを生業として生きていくことを諦めていなかった時のことだ。

バトルが楽しくて熱くなっていたはずの心。負ければ悔しくて燃えていた心。次のバトルに向けて対策を立てる時、ワクワクしていた心。
ある日、突然のことだった。これまで大好きだったはずのバトルのことを考えても、何も感じなくなったのだ。
これまで心があったはずの場所にぽっかりと穴の空いたような感覚が、次第に身体中を蝕んでいって、気づけば透明人間にでもなってしまったような気がした。
そこで私は気づいた。これは「突然起きたこと」なんかじゃない。たくさんの努力が報われないことの繰り返しが、少しずつ積み重なって起きたことなのだ、と。取り返しのつかないような喪失感の中で、ようやく気づいたのだ。
努力は報われないことのほうが多い。
その現実に耐えられなくなった私は弱かった。次から次へ『期待の新人』が現れる世界でやっていけるような「ふくつのこころ」を持ち合わせていなかったのだ。

14歳で、ついに夢を諦めた私は、そこから大学を目指した。地元からそこそこ近いクチバの大学へ通い、何となくで決めたメディア専攻の学科で学び、学んだことが活かせる仕事を探して、新聞記者になった。あらゆることが、なりゆきまかせだった。
カントー地方からイッシュ地方へ飛んだのも、どうせならまだ踏んだことのない土地で新しいものを見聞きしたいと思ったから、そんな単純な理由からだ。けれど、今となってはこの地に来て良かったと心の底から思う。
バトルサブウェイの担当記者になれたから。
ポケモン勝負を真剣に、全力で楽しむサブウェイマスターの2人に会えた。私では到底敵わないような実力を持つ2人と話すうち、そんな人たちも、また人並みに悩んでいるのだと知ることができた。
施設をより良くするためにこんな企画を考えているとか、あの仕掛けはお客さんに楽しんでもらうために考えたものなんだとか、そうやって、普通に日々を営み、人のためを思いながら生きている人なんだと、少しずつ知っていった。

かつて憧れた「強いポケモントレーナー」が、自分と同じ「人」であること。
そんな当たり前のことを、当たり前に気づかせてくれた人たち。2人に出会えたこの土地のことが、私はとても好きなのだ。

* 

少し離れた園路の先に、めざとくアイスクリーム屋さんのキッチンカーを見つけたクダリさんと、今度は公園の隅でアイスを食べている。「コジオソルトアイスがある! 珍しい!」なんていう、クダリさんの明るい声につられて、私もアイスが食べたくなってしまったのだ。
オススメのメニューがイラスト付きで描かれた小さな黒板がお店の前にあって、ポップなアイスのイラストと一緒にコジオのイラストが描かれていた。漫画のような吹き出しで、コジオが『パルデアの人気メニュー・コジオソルトアイス! 甘いバニラアイスの中のしょっぱみがたまらない!』と喋っていたのが可愛くて、私もクダリさんもコジオアイスを食べることにした。
コジオは確か、パルデア地方のポケモンだ。体内で塩を作り続けるポケモン。だからアイスの素材にもできてしまうという、なんともスゴいヤツ。
コジオソルトアイスは、とろけるようにまろやかな甘さのバニラアイスと、荒く削った小さな塩の粒が、舌の上で一緒に溶けていった。塩味がしつこくなくて、むしろ爽やかだから、いくらでも食べられそうだ。あまじょっぱいものは無限に食べられる気がして、ちょっと怖くすらある。
そうしてしみじみとアイスを味わっていたら、バタフリーが私の袖をぐいぐい引っ張った。

「わっバタフリー!」

アイスを食べている私たちを見て、自分もアイスが食べたくなったのだろう。

「分かってるってば、ちゃんとあげるから」
「あはは、バタフリー元気だね」

クダリさんは、あくまでバタフリーを肯定してくれる。嬉しいような、恥ずかしいような気持ちとが入り混じって、微妙な笑みを返すことしかできない。本当に、この食い意地は何とかしたいものだ。

「誰に似たんだろ……」
「でも、ナマエちゃんもなんだかんだ食いしん坊な気がする」
「えっ」

公園の隅で、なんてことない会話をしながらアイスを食べ終える。

そういえば、この後はどうするんだろう。なりゆきでずっと一緒にいるけど、いよいよその「なりゆき」も終わるのでは。なんて予感に、胸のあたりがそわそわした。
これは、なんの「そわそわ」なんだろうか。なりゆきとはいえ、クダリさんと過ごした時間が想像以上に居心地が良かったから、ひょっとして、私はまだクダリさんと一緒の時間を過ごしたいんじゃないだろうか。

「すいませーん!」

気が落ち着かないまま、アイスのスプーンをダストボックスに捨てた瞬間、不意に背中へ声を投げかけられた。
クダリさんと揃って振り返ると、ポニーテールの女の子がいた。10代半ばくらいだろうか? 前髪の緑のメッシュがおしゃれな印象だ。見覚えはないから、知り合いではなさそうだ。ちら、と隣に視線を向けると、クダリさんもサングラスの裏側で目をぱちくりさせている。というか、いつの間にサングラス掛け直したんだ。

「えーと……?」
「あ、突然すみません! わたし、ネモっていいます! 家族と一緒に観光でイッシュに来ていて」

元気な声とは真逆の丁寧なお辞儀につられて、思わず私も頭を下げる。そっと頭をもたげると、ネモと名乗る女の子はクダリさんのほうをじいっと見つめている。目がとてもキラキラしている。

「そちらの方、ひょっとして……」

まさか、サブウェイマスターのファンでは。ヒヤリとしながらクダリさんのほうへ目をやるが、いつもの笑顔のままだから何を考えているのか分からない。

「サブウェイマスターのクダリさんじゃないですか!?」

そのまさかだった。彼女の輝く瞳を前に、背中に冷たい汗が滲む。
どうしよう。これは、私がいたらまずいのではないだろうか。いくらクダリさんがグラサンをかけているとはいっても、正直どこまで正体を隠せているのか分からない。
クダリさんと、ただの地方新聞記者にすぎない私が休日を一緒に過ごしている。変に関係を疑われたりしたら、いよいよクダリさんに申し訳ない事態になってしまうのでは。

「いや〜違うんですよぉ。おれサブロウっていってね、全然別人でしてねぇ〜、出身はホウエン地方! 好きなものは坂道と地質学です」

何であくまでタモさんに寄せていくんですか!? というツッコミをギリギリ飲み込みながら、冷え切った心臓のあたりを手で押さえた。何ですかその雑なキャラ設定は、と今すぐ言ってしまいたい気持ちをぐっと堪えつつ、ネモちゃんのほうを目線だけで窺う。

「そうなんですね……すいません、勘違いしちゃって……」

ネモちゃんはすっかり意気消沈して、がっくりと肩を落とした姿勢のまま、謝罪の言葉を口にした。どうやらクダリさんの嘘をすっかり信じているようだった。
クダリさんは「いや〜よく間違われますよ〜髪型似てるんで」などと適当なことを言っているが、彼女の落ち込みようを見ていたら、なんとなく可哀想に思えてきてしまった。それほどまでにサブウェイマスターのことが好きなファンなら、なおさら今の私の存在が申し訳ない。

「はあ……せっかくイッシュに来たんだからバトルサブウェイで勝負したかったのに、まさかのお休みだし……ひょっとしてサブウェイマスターにお会いできたんじゃないかって思ったのになぁ……アツい勝負ができると思ったのに……」

ぽつぽつと小さな声で話す彼女の言葉からして、どうやらクダリさんとバトルがしたかったらしい。というか、さっき観光でイッシュに来たと言っていたけど、観光で来た先でもバトルをしようと思うあたり、よほどのバトル好きなのだろう。
ふと、クダリさんが私の耳のあたりにそっと顔を寄せてきた。

「彼女、パルデア地方のチャンピオンクラスのトレーナー」
「え、そんな凄い人なんですか!」
「うん。最近なったみたいだよ」
「へえ……」

目の前で、強いトレーナーと勝負することを切望する彼女。いつかの自分が夢見た姿だと思った。
夢を諦めた時の私と同じくらいの歳の女の子が、チャンピオンクラスのトレーナーとして、サブウェイマスターにまで認知されているのだ。
バトルの世界は、そういうものだった。年齢は関係ない。実力さえあれば、老若男女だれでも対等な場所に立てる。
実力主義の世界で、その『対等』はむしろ残酷でもあった。実力がなければ、高みを目指す心がいくら強くても所詮は有象無象。星の数ほどいるトレーナーの一人に過ぎない。その残酷さに耐えきれず、私は夢から逃げた。
彼女は、逃げなかった人だ。

「お姉さんは、バトルとか……します?」
「え゛っ私!?」

唐突に話を振られ、ギョッと目を見開いてしまった。ネモちゃんの、期待に満ちた輝く瞳から逃げることは叶わず、「し、します……一応」と口の中でゴニョゴニョ言うと、彼女の瞳の光はいっそう強くなった。

「えーっ本当ですか!?」

真夏の太陽のように強烈な眩さを放つ瞳にたじろぐことしかできなかった。

「私とバトルしませんか!?」
「え、いやそれは……」

「一応」の一言に、私の実力は大したものではないですよ、という意を込めたのだが、多分伝わっていない。

「あの、私そんなに強くないんですけど……」

仕方なく、気持ちそのままを口にする。
きっと、彼女ほどの人なら強い相手と戦いたいだろう。それこそ、サブウェイマスターのような。『チャンピオン』ほどの実力者の相手が私に務まるとは、到底思えなかった。

「そんなこと関係ない! アッツい勝負がしたいんです!」

あ、と思って、気づけば下を向いていた視線を上げる。握り拳をつくって、うきうきした心を少しも隠さずにポケモントレーナーと向き合う彼女の姿に、はっとした。
同じだ。彼女も、彼らと、サブウェイマスターと同じ。バトルすることが心の底から好きで、好きで仕方ない人。
強いポケモントレーナーから面と向かって、改まってバトルを申し込まれたことが久しぶりだったから、自然に怯んでいたのだと気づく。そうだった、彼女たちは彼女たちの道を歩んでいる。私とおんなじ、人。人生という名の、道の途上にいる人たち。

「ナマエちゃん」

クダリさんに、そっと耳打ちされる。

「バタフリー、戦いたがってるように見えるよ」

クダリさんは、バタフリーに目配せして小さく笑った。
バタフリー。夢を諦めた私と、ずっと一緒にいてくれたパートナー。この子たちがいたから、私は一度はやめたバトルを続けてこられた。
実力がなくとも、好きの気持ちを捨てずに、ここまでこられたんだ。

「はい」

頷くと、クダリさんはにこ、と笑って身を引いた。

「やろう、バタフリー!」

力強く握った拳を見せると、バタフリーは嬉しそうに羽ばたいて、その場で宙返りをした。
 
私は未だに、自分のバトルには自信がない。好きだったはずのものから一度離れたことに対する後ろめたさもある。
それでも、やっぱりポケモンと共にバトルをすることが好きなのだ。自信の無さも、後ろめたさも、全部抱えたまま好きなものを好きでい続けるために必要なものを、私は知っている。
そういうものを大切にしながら、私はこれからも生きていけるのだと思う。