シオンタウン。
シオンはむらさき、とうといいろ。

自分の生まれ故郷が、昔はあまり好きではなかった。ポケモンを供養するため建てられたタワーが大きな影を落とす、日陰の多い町。暗くて、娯楽は少なくて。幼少期、ほど近いタマムシシティの明るさと故郷の仄暗さを比べては、いつも落ち込んでいた。ポケモンを連れて旅に出たのも、あの町を出たかったから、という理由がないわけではなかった。故郷を捨てたい、というよりは、もっと明るい場所に出たいと願ってやまず、狭い町を飛び出したかったのだと思う。
そんな気持ちで旅に出た私のことを、それでも町はいつも変わらず迎え入れてくれた。いつだってそうだったのだ。14で夢を諦めた、私のことも。時間がゆるやかに流れるあの町の穏やかさが、夢に焦って迷い続ける私にとっては、とても有り難かった。
そういう故郷があったからこそ、私は今、穏やかな思いでこの地にいられるのだと思っている。



図書館から出るなり、クダリさんは晴れやかな顔で空を見上げた。

「雨、上がってる」
「本当ですね、良かった」

つられて空を見上げると、連なって飛んでいくスワンナとコアルヒーが目に入った。雨に洗い上げられた空気の中、めいっぱいに広げた翼で太陽の光を受け止めている。すっかり晴れあがったようだ。
カバンからモンスターボールを取り出し、軽く宙に放る。ボールから出てきたバタフリーは、伸びをするようにグン、と羽を伸ばした。開放感を味わうように周囲を飛び回って、しばらくしてから私のそばに舞い戻ってきた。

「バタフリー、すっごく元気」
「バトル出来なかったからかな、元気が有り余っちゃってるくらいです」

たはは、と恥じるように笑うと、クダリさんは「元気がイチバン!」と笑顔を返してくれた。

「あ、お昼ごはん。あれ食べていこうか」
「え?」

クダリさんが不意に指差したほうへ目をやると、ベーグル屋さんのキッチンカーが図書館前のストリートに停まっていた。腕時計を確認すれば、時刻はすでに午後1時30分を過ぎようとしている。お店の前には、ほとんどお客さんはいなかった。お昼時のピークをさばき終えたらしい店主のおじさんの疲れた顔だけが、お店の中に見えている。

「傘とかメモのお礼もしたいし、奢るよ」
「えっ? いやいやいや!」

クダリさんからの思いがけない申し出に、私は慌てて頭をぶんぶんと横に振った。

「全然そんな、気にしないでください!」
「バタフリーの分も買うし」
「いやいや、余計申し訳ないですから!」
「サブウェイマスターの財布を開かせる人間はそうそういないよ」
「開かなくていいですって!」

言い合いをしながらも、すでにクダリさんの足はお店のほうへ向かっている。困惑しながら必死の形相で隣を歩く私のことなどお構いなしに、クダリさんは長い足プラス素早い足取りでお店のほうへ行ってしまう。
ついさっきまで疲労の滲む顔をしていた店主さんは、私たちの顔を見るなりパッと目を輝かせ「いらっしゃいませ」と満面の笑みをつくった。接客のプロである。
正直、お昼ご飯をクダリさんと一緒に食べることになろうとは思っていなかった、というか、図書館で過ごした後どうするかすら考えていなかったのだ。クダリさんだって貴重な休日、大事に過ごしたいだろうと思っていて、その大事に過ごす時間の中に私がいていいのかが未だに疑問で。
だというのに、本人はお昼を一緒に食べようと言う。しかも奢ろうとしている。すごい勢いで。
さて、目の前にはすっかり奢る気で財布を手にしているクダリさんに、しっかりお買い上げしてもらう気でいる店主さん。
二人から笑顔を向けられた私が、この状況でとるべき選択は1つだった。

「私とバタフリーは……プレーンベーグルのクリームチーズサンドにします」

流されるままに注文してしまった。バタフリーはベーグル屋さんに来た瞬間からうきうきと浮かれて飛び回っているし、ここで食べさせてあげなければ後でスネてしまうだろう。
だからって、クダリさんに奢ってもらうのはやっぱり申し訳ないけど。なんだかクダリさんに会ってからというもの、ずっとこの人のペースに乗せられているような気がする。

「トッピングいいの?」
「ハイ……さすがに弁えます」
「弁えなくていいのに。あ、ドリンクは? スムージーとジュースとコーヒー、どれが良い?」
「え、えっと……ジュースでお願いします……」

ここで「ドリンクはいる?」と聞かずに選択肢を並べて選ばせようとするあたり、なんというか、策士である。
またもクダリさんのペースに乗せられ、ジュースまで買ってもらう流れになってしまった。奢るという本人がずっと機嫌良さげな笑顔でいるのだから、これでいいのだと思うけれども。

「プレーンのクリームチーズ2つ、あとライ麦のリコッタチーズアンドモモン1つとプレーンのスモア1つ、それからフライドポテトMサイズに、オレンジュースグランデ、カフェラテグランデで」

つらつらと呪文のような注文を口にするついでのように、ジュースのサイズもさりげなく一番でっかいものにされてしまった。なんてこった。
注文したものすべてが詰まったでっかい箱を受け取り、クダリさんは「ありがとう」と、店主さんへ笑顔を向けた。はたして相手は、この人がサブウェイマスターのクダリさんだと気づいているのか、いないのか。ずっと接客スマイルニコニコ顔なので判断ができない。

「あっちの公園で食べようか」

案外その辺りは気にしていないらしいクダリさんは、図書館の横道のほうを指差した。建物の裏手に、大きな公園があるのだ。

「そうですね、ひょっとしたらサクラ咲いてるかもしれないですし」

イッシュには意外とサクラの木が多く、図書館裏の公園の園路沿いにもサクラが植わっている。ちょうど咲きはじめてもおかしくない頃だ。
いい時期に来られたかも、と思いながら、クダリさんの隣を歩き始める。
イッシュ地方のサクラは、かつてカントー地方から渡ったものなのだそうだ。なんでも100年ほど前、イッシュ地方出身の写真家の女性が、カントー地方で見たサクラを気に入ったことがきっかけだったとか。イッシュにもサクラを、と国に働きかけ続け、国をも動かしたその情熱には驚いたが、それほどまでに自分の生まれた地方の花を美しいと思ってもらえたのならありがたい話だ。

さて肝心のサクラだが、今日はまだ開花していないらしく、園路を行きつつ木を見上げても、うっすらと色づく蕾がちらほら膨らむばかりだった。芝生が広がる中央広場のほうは緑がいきいきとしているが、園路の色彩はまだ寂しい。寒々とした風景の中、ぱたぱたと羽ばたくバタフリーの姿が、余計に鮮やかに見える。

「うーん、まだつぼみですねぇ」
「そうだね」

あからさまにがっかりする私とは対照的に、クダリさんは何となく淡々としている。おや、と思いながらも足を進めていくうち、クダリさんは園路からわずかに奥へ入った場所にあるベンチの方へと寄っていった。腰かけてみれば、そこはほどよく日陰になっており、公園内をゆったり見渡せる良い場所だった。
クダリさんは、クダリさんと私との間にベーグル屋さんの箱を置き、手際よく開封していく。

「ナマエちゃんは、サクラの花は好き?」

箱の中に入っていたおしぼりで手を拭きつつ、クダリさんの問いに頷く。

「そうですね。私の地元、カントーのシオンタウンなんですけど、タワー……いえ、ラジオ局のそばにサクラが植わってて。毎年、そのサクラを見るのは結構楽しみだったんです」

ポケモンタワーは、何年か前にラジオ局になったのだ。もちろん、ポケモンたちのお墓は別の場所にきちんと移されたと聞いている。
周辺の再開発にあたって、町の雰囲気は少し変わったけれど、タワーの近くにあったサクラの木はそのまま残された。町には今も、春が来ればサクラが穏やかに咲いている。

「でも、ちょっと怖かったんですよね」
「え?」

私が微笑まじりに言うと、クダリさんは目を丸くした。

「ホラ、よく言うじゃないですか。サクラの下には死体が埋まってるっていうの。ラジオ局って、昔はポケモンタワーっていう、ポケモンのお墓がある場所だったから。だから余計に怖くて」

子どもの頃の、他愛ない笑い話だ。
サクラがきれいで、でもその美しさが奇妙に不気味なような気もして。そのくせ、小さい頃は怖いもの見たさでしょっちゅうサクラの木の下に行っていたのだから、子どもというのはとんだお馬鹿さんである。けれど、そこで初めてのパートナーであるゴースにも出会えて、ゲンガーに進化してもずっと一緒にいるのだから、そういう好奇心に忠実だった昔の自分のことも少しは肯定してあげたい。
 
「ぼくも、実はサクラの花を初めて見た時、綺麗だって思えなかったんだ」
「そうなんですか?」

リコッタチーズとモモンの実ジャムが挟まったベーグルを齧りながら、クダリさんは頷いた。

「ちょっと怖かった。暴発寸前の命が密集してるみたいで」
「それは……サクラの花に、ですか?」
「うん。満開なサクラとかは特にそうかも」

サクラの花に対して、そんなことを思ったことが自分には一度もなかったので、意外な答えだ。
でも確かに、満開になったサクラは、夜でも周囲がぼんやりと淡く光って見えるほどに明るくて、それが少し怖いと思う人もいるのかもしれない。クダリさんの言う「怖かった」の意味が、そういう類のものなのかは分からないけど。クダリさんはわりと繊細な人で、肝が座っているのはどちらかというとノボリさんのほうだったりする、というのは、これまでの付き合いで何となく分かっていた。なるほど、サクラに対する思いも、ひょっとしたら兄弟間で違っていたのかもしれない。

「でも、ナマエちゃんの今の話聞いたら、ちょっとだけ怖い気持ちなくなった」
「え?」
「ひょっとしたら、シオンタウンのサクラ、亡くなったポケモンたちの魂の受け皿になってたかもしれないもんね。そういう場所にサクラが舞う景色は、なんだか優しい風景だなって思ったよ」

クダリさんが紡ぐ言葉の一つひとつから、故郷の春を思い出す。
花曇の昼、無機質なポケモンタワーのそばでサクラが舞っている。タワーの中で、かつて共に生きたポケモンたちを悼む人たちの祈りや、その人たちを愛おしむポケモンたちの心を、散りゆくサクラが包み込んで、空へ運んでいく。
懐かしい故郷の風景が、クダリさんの言葉で彩られていく。
クダリさんの言葉は端的で、でもそれは自分の考えていることを最善に単純化させて出力できるからで。だからこそ、その言葉は話す人の頭にすっと入っていく。

「いつか行ってみたいなあ、シオンタウンも」

どこか間延びしたようなクダリさんの声に、はっとした。もぐもぐとベーグルを食べながら、クダリさんはまだ花開く前のサクラの木をのんびりと見上げている。

「もしシオンタウンに行くことがあったら、その時はナマエちゃんに案内してほしい。さっきナマエちゃんが言ってたサクラを見てみたいから」
「はい。その時は是非」

クダリさんと一緒に、故郷のサクラを見上げている自分の姿は、何だか容易に想像できた。それが何となく嬉しいことのように思えて、ちょっとだけ恥ずかしかった。
照れながら俯いていると、そばで大人しくしていたバタフリーが、耐えかねたように私の服の袖を引っ張り、ベーグルを催促してきた。

「わーごめんごめん、今あげるから」

なりゆきで始まった二人の休日が、意外なほどしっくりきているのが不思議で、だけどやっぱり、少し嬉しかった。