ぼく、あのままノボリだと勘違いされたままだったら、どうするつもりだったんだろう。

そのまま今日一日をノボリとして過ごした? それで明日は、ちゃんとクダリに戻れる?
『ぼくがノボリとして存在する世界』は、多分そうと気づかない人たちにとっては『ノボリが帰ってきた世界』になる。ぼくは、それでも良かったのかもしれない。
例えばぼくが世界から消えたとして、ここが『ノボリが帰ってきた世界』になるのなら、ぼくはそれでも構わなかった。

の、かな?



「な、何故グラサンを……」

ナマエちゃんと並んで歩く、傘の下。コートの懐にある内ポケットから取り出した真っ黒いサングラスをかけると、ナマエちゃんは心底摩訶不思議なものを見たような目で、ぼくを見上げた。

「変装。ぼくがクダリだって周りの人にバレちゃうと、変にウワサになっちゃうかもしれないから」

特に、今はノボリがいなくなって間もない時期で、マスコミの人もざわざわしてるみたいだし。バトルサブウェイが休みになったからといって女の子と遊んでいるのか、兄弟が失踪したのに、とか。そうやって面白半分の変な記事にされちゃっても困る。

「いや、バレますて……逆に不審ですよ、不審なのに醸すオーラはめちゃくちゃクダリさんですよ、サングラスの向こう側からサブウェイマスターの覇気が溢れてます」
「そうかなぁ? 今の気分、お昼休みはウキウキウォッチンなんだけど」
「また随分と懐かしいネタを!」

とても律儀にツッコミを入れてくれるナマエちゃんに、ぼくは思わず声を上げて笑ってしまった。
ナマエちゃんの隣は居心地がいい。いつもそう思ってた。今日、まさか会えるなんて思っていなかったけど。
傘はぼくに持たせてもらった。身長差のせいで、ナマエちゃんが持つとお互いどうしても苦しい姿勢になるから。
雨は小降りで、傘を打つ音もささやかで耳触りが良い。
小雨に白む街の灰色が憂を孕まないのは、隣にナマエちゃんがいてくれるからかもしれない。

「そうだ、ナマエちゃん。ぼくのこと名前で呼ばない方がいいかも」
「え、どうしてですか?」
「それでぼくがクダリだってバレちゃうし」
「ああー……まあ、うん、やっぱりマズいですよね」
「変なウワサが立つと、ナマエちゃんにも申し訳ないし。『現役サブウェイマスタークダリに恋人か! 白昼堂々デート!』みたいな」

透明の見出しを読み上げるみたいに、宙を人差し指でなぞる。ありがちですよね、とナマエちゃんが苦笑いを溢した。
この間、遠くの地方のジムリーダーが熱愛疑惑で報道されているのをテレビで見た。お昼休み、ワイドショーでコメンテーターの人があれやこれや勝手な憶測を並べているのを横目で見ながら呑気にカップラーメンを啜っていたけど、他人事と思ってもいられないのかもしれない。
ぼくらの職業は、バトルが本分。だけど、だからこそ、目立つ立場でもある。その自覚を持たなければならないのだと、最近になって気づいた。

「ぼく、今日だけサブウェイマスターのクダリじゃなくなるから。ナマエちゃんが適当に偽名つけてよ」
「ええ〜っ、急に言われても……」

眉を八の字にしたナマエちゃんは、タマザラシ模様の傘に助けを求めるみたいにして、天を仰いだ。
うーん、うーん、と、しばらく唸っていたナマエちゃんは、渋るようにゆっくり口を開いて、

「……じゃあサブウェイマスターのサブから取ってサブロウで」

と、口の中をにょもにょさせながら言った。
言った瞬間、ぼくは堪えきれずに吹き出して、それからお腹を抑えて笑ってしまった。

「めちゃくちゃ爆笑するじゃないですか……」
「だ、だって安直すぎて」

「はー面白い」と、未だに治らない笑いを引きずりながら、ぼくは一つ頷く。

「うん、じゃあぼく、今日はサブウェイマスターのクダリじゃなくて不審者のサブロウだ」
「ふ、不審者でいいんですか……ていうかサブロウでいいんですか」
「うん、バレなきゃ何でもいいよ」

かくして、ぼくは今日一日をクダリではなく、ふしんしゃのサブロウとして過ごすことにしたのだった。



さて、ここはライモン市立公共図書館。

100年の歴史があり、大理石が経年で柔らかな白色に変化した外壁がきれいな建物だ。オスとメスで対になるよう入り口の左右に配置されたカエンジシの彫刻や、緻密な花柄の意匠が美しい壁面。その美しい外観だけを写真におさめていく観光客も少なくない。
クラシカルなのに、現代的なビル群に飲まれもせず、かといって主張もしすぎない佇まいは、この場所がずっとライモンの都市と、そこに生きる人たちを見守ってきた証なのかもしれない。
アーチ状の入り口を通り抜けると、広々としたエントランスに出る。天井が高く、両側が各種図書コーナーへと開けていて、右に行けば新聞の閲覧所などなどメディアコーナーや視聴覚室、左にいけば児童書コーナー、エントランスの真正面から伸びる階段を上がって、2階が一般図書コーナー、という具合だ。

「ナマエちゃんは、何か読みたい本とかあるの?」

階段の手前で立ち止まり、ナマエちゃんを振り返る。

「え? うーん、まあ何となく目星はついてますね。仕事関係のものとかかな」
「じゃあ、それぞれ別行動のほうがいいね。ぼくも適当に見て回りたいし。時間決めて、エントランスで落ち合う感じにしよっか」

ナマエちゃんは、数回すばやく瞬きしてから、すぐにこくこくと頷いた。

「うん、うん。そうですね。じゃあ、とりあえず1時間くらいで……11時30分に落ち合うってことで、どうですか?」
「オッケー」
「では、また1時間後に」

小さく頭を下げ、1階右手に向かったナマエちゃんに手を振り、ぼくは階段を登った。
静かだな、とぼんやり思う。ローファーじゃなくて、スニーカーを履いてきて良かった。
当たり前だけど、電車の音が聞こえない。電車が通り抜ける時の鋭い轟音も、電車が止まる時の、微かな軋みや金属の擦れる音が折り重なってできる響きも、一切聞こえない。聞こえるのは、人の足音と、ページを捲る音だけ。館内では、ポケモンをボールから出すことは基本的にNGなので、ポケモンの鳴き声も聞こえない。こんなにも静かな空間に自分がいることが、なんだか不思議でたまらなかった。
ナマエちゃんと離れて、その姿が見えなくなって、階段を1段、また1段と上がっていくたびに、ぼくはなんとなく足が重くなっていくのを感じていた。
ぼくが、ここで見たいもの、知りたいもの。毎日考えてやまないもの。
図書館という、全国、世界中の叡智が詰まった箱の中で、ぼくが求めているもの。

図書館には、ずっと来たいと思っていた。



「クダリさん」

と、名前を呼ばれ、肩を叩かれ、ハッとした。

「良かった、やっと見つけた……」
「ナマエちゃん」

閲覧用の机ときっちり水平になるほど下がり切っていた顔を上げると、ぼくの肩に手を置くナマエちゃんがほっと息を吐いた。

「11時30分、過ぎても来なかったので。探しちゃいました」
「あれ?」

シャツの袖を捲って、腕時計を確認する。約束した時間はとうに過ぎていて、時計は12時を指していた。

「ごめんね、気がつかなかった」

慌てて机の上に広げていた本を閉じ、館内のあちこちから集めてきた本を片付けようとした。手伝おうとしてくれたのか、はたまたただ興味を惹かれるままにか、ナマエちゃんは、ぼくが山にしていた本のうち一冊を手に取り、パラパラとページを捲った。

「……これ」

ナマエちゃんが手に取ったのは、オーキドユキナリ氏著の『携帯獣研究序説第五版』だった。その中の第四章では「研究者の失踪」について語られる。氏が、自らの知人に聞き取り、多くの事例をまとめたものだ。失踪に関わったポケモンの能力等も記してあり、無事帰ってきた者、結局戻らなかった者、そのいずれの事例も掲載してある。比較的最近の事例では、アンノーンの作り出す世界に閉じ込められた研究者の話なども載っていた。その人は、無事に帰ってきて、娘さんとも再会できた、と書いてあった。
ナマエちゃんは、目次を見てピンとくるものがあったのだろう。わずかに眉を下げ、ぼくの表情を窺うように視線を上げた。

「何か手掛かりになるかも……って、どうしても考えちゃうみたいなんだ」

なんの、とは言わなかった。なんとなく、口に出すのを躊躇してしまった。
人がいなくなる。全国各地で起きた事例を、たくさんの人が本にまとめてくれている。その本が、ここにはある。読むことができる。オーキド博士が書いたハードカバーの本から、『ヨノワール、異界の住ポケだった!? 〜連れ去られた先にある暗黒の世〜』なんていうエセっぽさ全開の本まで、なんでもあった。

「ぼくがこんな本読んでも、何しても、何がどうなるわけでもないって、分かってるのにね」

なんだか、いやな言い方になってしまった。自棄になっているみたいで、子どもじみてて、口元だけで笑ってみても、勝手に床へ落ちていく視線のせいで、何も取り繕えていないような気がした。
ナマエちゃんは同情するかな。いま、たとえば「大丈夫ですよ」とか「きっと帰ってきますよ」とか、言われたらと思うと、怖かった。それを惨めに思うであろう自分、優しさをそのまま優しさとして受け取れる自信のない今の自分、すべてに失望しそうだった。

「これ、何かに書き留めておきませんか?」
「え?」

思いがけない言葉に、顔を上げる。ナマエちゃんは、さっきの本をぺらぺらと捲りながら、目を通していた。

「決定的でなくとも、ヒントにはなるかもしれないですし。ヒントを持ってるってだけで、少しだけほっとする、お守りみたいになる……みたいなこと、あると思う、の、ですが……」

ふと顔を上げ、言葉尻を弱々しくさせたナマエちゃんは、ぼくと目が合うなり素早く首を横に振った。

「いや、すいません。余計なことだったかもしれないです……」

ナマエちゃんは、ぱたんと本を閉じて、細く息を吐いた。何かを恥じるみたいな微妙な表情で、ぼくから目を逸らす。

「ありがとう」

余計なことだったかもしれない、というナマエちゃんの言葉を打ち消すように、そっと首を振る。

「ありがとう、ナマエちゃん」

もう一度言うと、ナマエちゃんはそろそろと視線を戻して、それからはにかむようにな、安心したような笑みを見せてくれた。

「あ、でも、ぼく書くもの持ってないや」
「私のルーズリーフで良かったら使ってください……っていうか、私も書くの手伝いますよ。手分けしてやりましょう」

ぼくの隣の席に腰を下ろして、腕まくりをするナマエちゃんの横顔に向かって、心の中でもう一度「ありがとう」を繰り返した。
 
自分で思っているよりも、ずっと重いものが蓄積されているらしい心をひきずってきた先で、会えたのがきみで良かった。