「おや君たち、昼間から呑んでいるのかね」
「お〜、先生さん」

主の部屋へ向かう道中、庭に咲き乱れる梅の花がよく見える縁側で酒盛りをしている面々と行き合った。
日本号くんは気分良さげに杯を掲げ、こちらを振り仰ぎながら口元を緩ませている。

「あんたもたまにゃどーだい、一口くらい……なんてな。今日もこれから研究の時間だろ?」
「ああ、いや……ふむ」

なるほど酒か、と思った。
酒は人の思考を鈍らせるが、緊張も和らげるものでもあるはずだ。普段は徹底して飲まないようにしているが、妙に肩肘張って話すよりは、主にとっても自分にとっても良いかもしれない。空気を緩めるための装置として、酒は案外優秀なのかもしれない、と思い至った。

「うん、僕も一口だけもらおうか」

言うや、日本号くん、のみならずその場にいた次郎太刀くんや陸奥守くんまでもが、ギョッと目を見開きながらこちらを振り向いた。

「先生、どうしたがよ急に?」
「いや、なに。少しばかり酒の力を借りられればと思ってね」

あからさまな困り眉を作っている陸奥守くんのそばにしゃがみ込み、無造作に置いてある梅チューハイの缶を一つ、手にとってみる。ほとんど中身が無くなっていて、余っているのはほんの一口分だけのようだった。
陸奥守くんの肩越しにこちらの様子を伺っている日本号くんは、呆れまじりのため息を吐き出すついでのように口を開いた。

「なんか知らんがやめとけ? 酒の力を借りたいとか言うような奴が酒の力借りるとな、ロクなことになんねーんだよ」
「なに、缶チューハイ一口だけなら流石の僕も酔うまいよ」

手の中で弄ぶようにしていた缶を口元で傾けると、炭酸の弾ける明るい甘みが口の中に流れ込んでくる。

「あっイヤちょっそれわりかしアルコール度数高いや……つ〜あ〜あ」

梅の爽やかでまろやかな甘みが舌を熱くした。
そうして酒が喉元を通り過ぎると、途端に世界がぐわんぐわんと回り出した。周囲で呆れたような声、驚いたような声、焦るような声が混じりあっては頭の中に流れ込み、気持ち悪くなる。

薄れ遠のく意識の中で僕は誓った、もう二度と酒には頼らない、と。



「南海先生!!」

と、名を呼ばれた。
懐かしいような、それでいて、ずっとそばで聞いていたに違いない声。主の声だった。
僕は畳敷きの自室で正座をしている。そこへ主がやってくる。声を、息を、明るく弾ませながら、彼女は部屋の戸を開ける。

「聞いてください、私、記憶が戻ったんです!」

やってくるなり突拍子のないことを言った、彼女の言葉に僕は目を丸くする。

「それはまた、不思議なこともあるのだねぇ」
「本当ですね」

と、彼女はそれでも嬉しげに破顔する。

「でもよかった、ちゃんと思い出せました。蜂須賀さんに初めて会った時のことも、愛染くんを鍛刀した時のことも!」

彼女は、はじまりの日を懐かしみながら、歌うように語る。

蜂須賀さんが初めてつくったおにぎりは、ちょっといびつな俵型で、愛染くんはちっちゃく固く握った三角だったんです。
歌仙さんのつくるお味噌汁は世界一で、小夜ちゃんが焼いてくれるしゃけと組み合わせれば最高の朝ごはんができるんですよ。
御手杵さんが肩車してくれた時はびっくりしたけど、お兄ちゃんができたみたいで嬉しかったなぁ。それから、鯰尾くんと一緒だとお洗濯物干しが楽しかったし、巴さんと部屋の掃除をすると、あっという間に時間が過ぎちゃって。
私、みんなのことを思い出せて、本当に良かったです。

「南海先生を好きだってことも、ちゃんと思い出せたから」

そう言って、愛おしむように目を細めた彼女の口から「好き」などという言葉が溢れた途端、僕はたまらない気持ちになって、思わず目を伏せた。

「僕は」

言葉を詰まらせながら、それでも何とか口を開く。

「僕も、君に言わなきゃいけないことがある」

今こそ言わなければならなかった。
彼女が、僕を好きだという彼女が目の前にいる今、言わなければならない言葉。

「僕は」

言いかけた途端、視界がぐらついた。

「……先生」

と、おそらく僕を呼んでいるのであろう声がする。
目の前にいたはずの主の姿が消え、けれど名だけは繰り返し呼ばれている。
真っ暗な水の中を揺蕩っていたような意識が、唐突に途切れた。これまで感じなかった瞼の重たさに、奇妙な現実味を感じる。

「先生、南海先生?」

名を呼ぶ声に、鼓膜を優しく叩かれたような気になって、はっと現実へ引き戻された。
飛び起きて、すぐ隣にしゃがみ込んでいた主の姿を目に留めるなり、その手を勢いのままに掴む。「わっ」という小さな悲鳴を上げた彼女の手を、それでも離すことが出来なかった。
僕はまだ、彼女に何も言えていない。何も言わずに終わらせたくない。
思いつつ、しかし目の奥から徐々に頭全体へ広がっていく鈍痛に勝つことはできなかった。何度やらかしてもこの痛みばかりは苦手である。
僕はあえなく彼女の手を離し、三角座りの膝の間に重たい頭を埋め込んだ。

「うあ〜いいたたた頭が……」
「だ、大丈夫ですか?」

この痛みは覚えがある。酒を呑んだ後のそれだ。

「お水持ってきたので、どうぞ」
「ありがとう」

主がおずおずと差し出すコップを受け取り、口元でゆっくりと傾ける。喉元へ流し込んだ水が体内に巡って、頭が少しずつ覚醒していくのが分かる。
それで、ようやく気づいた。主の夢を見ていたこと、主の記憶が戻った夢を見ていたに過ぎなかったということ、いま目の前にいるのは、記憶を失った主であるということ。
気がついて、小さな喪失感を覚えながら、しかしさほど悲観的にはならなかった。

「どうして、主がここに……?」

こめかみを抑えながら、素朴な疑問をそのまま口にすると、主は小さく微笑みを返してくれた。

「日本号さんが私のところに来て、南海先生が部屋で潰れてるからお水持っていってあげて、って」
「なるほど」

気を遣わせたのかもしれない、と思った。
思えば、あの時の僕はどうかしていた。普段なら絶対に選ばないであろう手段に手を出し、挙句の果てに普段なら絶対しないであろう失態を、こうして犯している。日本号くんたちの話も忠告も碌に聞かなかったことを、今さら申し訳なく思った。多分、それだけ気が張っていたのだろう。我ながらなんと惨めなことだろうか。
重いため息を吐き出すより先に、彼女の明るい視線がこちらに向けられていることに気がつく。彼女のほうへ顔を向けると、彼女はほんの少し身を固くして、わざとらしく目をそらした。

「なにかね?」
「あ、いえ……」

言い淀みながら、彼女は視線を宙に彷徨わせ、はにかむのを隠すように口元へ手を添える。

「南海先生とこんなにお話できること、あんまり無かったから、嬉しくて」

彼女にとって、きっと何気ない言葉に過ぎなかった。
「いつも遠くからしか見たことなかったけど、綺麗な手ですね」などと、楽しげに言うのだ。目の前の、人の姿をした人でないものが、胸のうちに抱えていた人間くさく、泥くさい感情など知らずに。

「はは」

力ない笑いが込み上げてくる。
本来、人の身にこそ宿る感情などというものを持ってしまったばっかりに、僕らは散々振り回されてきたと思う。こんなものに折り合いをつけながら、人はそれでも生きていくしかないのだと、最近は特に身につまされていた。

「はは、は……」

己が笑っているのか、泣きたいのか、よく分からなくなって、歪む目元を片手のひらで覆い隠した。
振り回されていながら、それでも放棄したいと思うことはなかった。それは、彼女がいたからに他ならない。
もう戻れないのだ。僕の抱いた感情も、そして彼女の記憶もきっと、二度と戻らない。それでも、彼女は彼女なのだ。僕の想いも、変わらない。
恋というのは、数多ある感情の一つであり、生物同士の間に起こりうる事象の一つでもある。時には一方通行で、時には通じ合うこともあって。
そして僕らは明白に、絶望的なすれ違いを起こした。
それでも今、君が目の前にいて、僕と話をして「嬉しい」と言う、この時をどうしようもなく愛おしいと思う。

「どうかしましたか?」

気遣うような声に、僕は手のひらの中で、一つゆっくりと瞬きをする。顔を上げて、主、と応える。

「僕も嬉しいよ、君と話ができて」

素直な言葉を口にすると、胸のうちがほんの少しだけ晴れたような気がした。
主は一瞬目を丸くして、それから照れたように笑った。



2212年、初夏。
玄関の前で主が立ち往生していた。扉にカエルがへばりついていたらしく、そっと追い払ったら涙ながら大変に感謝された。
梅雨。
主とともに、うっかり傘を持たずに万屋へ赴いた帰り道、雨に降られた。彼女に外套を被せて本丸へ駆け戻ったはいいものの、蜂須賀くんには「なぜ傘を持っていかなかったんだ」と叱られた。
夏。
花火の景趣を初めて見た主が目を輝かせていたので、打上花火の作り方を調べようとしていたら蜂須賀くんに叱られた。仕方ないので市販の花火を買ってきたら、本丸中が賑わったので結果的には正解だったかもしれない。
秋。
主から栞を贈られた。「いつも何かと気にかけてくださって、ありがとうございます」と言われた。改まって言われると、多少やましい気持ちがある分はずかしくなった。栞はいつも懐に入れている本に挟むことにした。
冬。
主が秋田くんや今剣くんたちとかまくら作りをする約束をしたと聞いて、手袋を贈った。スキーグローブに近い本格的なものを選んだが、それを見た彼女は「すごい」と感心しながら、おかしそうに笑っていた。ひとしきり笑ってから、彼女は頬を紅潮させながら「ありがとうございます」とはにかんでくれたので、とりあえず良かったのだと思う。

明けて、2213年、春。

路地裏の日陰には名残りの雪が白く固まっている。橙色の夕焼けが崩れ落ちてゆき、朧げな春の宵闇の気配が漂い始めた、万屋の帰り道でのことだった。
本丸へと近づき、沈丁花の香りが濃くなろうという頃、主は突然足を止めた。

「南海先生、あの!」
「ん?」

振り返ってみれば、主は唇を真一文字に強く結んで、赤くなった顔を俯かせている。
この顔を、僕は知っていた。

「あの、私……」

主は何事か言いたげに口を開き、しかしすぐに閉じて、また開いて。繰り返しながら、それでも言葉を絞り出すように、小さな握り拳で胸のあたりを強く押さえつけ、それから大きく息を吸った。

「好きです」

瞼をきつく閉じたまま放たれた言葉に、息が止まったような気がした。
瞬きすらも忘れて、僕は再び開かれようとする彼女の唇を無遠慮に見つめた。

「南海先生のことが、好きです」

おそるおそる瞼を開けて、しかしなおも顔を上げられずにいるらしい彼女の様子を見るに、それは揶揄いでも冗談でもない真の、心からの言葉らしかった。

目と鼻の奥が、急速に熱を持つ。
たった一言、いつぞやもらった言葉を再び、そっくりそのまま渡された。ただそれだけのことが、とてつもない奇跡として今ここに、確かに、現実として起きている。
彼女は、その俯きがちな丸い頭を穴が開くほど見つめている僕の有り様に気づかない。気づいてくれても構わないから、その顔を上げて、よく見せてほしいと、我儘にも似た願いを抱く胸のあたりが熱かった。
この奇跡を彼女と共有することは、決して叶わないことだ。ならばと努めて何気なく、明るく繕った声で応えた。

「おや、光栄だね。僕もだよ」
「えっ」

顔を上げた彼女は、目をぎょっと見開いており、心の底から信じられない、とでも言いたげな顔をしていた。

「……え、あの、私が言った好き、の意味……わかってますか?」
「勿論。恋愛感情でもっての好き、なのだろう?」
「え、あ、う、ハイ……」
「はは、顔に書いてあるよ」

機嫌よく顔を指差しながら言うと、主はなおも目を点にしながらおろおろと狼狽えている。

「えっ、あの、南海先生は、私の気持ちを受け入れてくださる……ということですか?」
「そうだが?」

当たり前なんだよ、主。と、頭の中で募る感情を何とか処理しながら、上辺だけでも平静を保ってみせる。
主。
君の中で、この本丸での記憶は消え去った。君が僕を好きだと言った当時の記憶も、等しく消えて無くなった。あの時の僕たちは、無かったことになったんだ。
それでも今、またここから始まることができるその機会を、どうして受け入れないことがあろうか。

「そ……ええ……」
「おや、なぜ引き気味なのかね」
「や、あの、信じられなくて」

眉間に皺を寄せ、頭のてっぺんに大量のハテナを浮かべ混乱する主を前に、つい「僕も信じられないよ」などと溢してしまった。

「え?」
「いや、失礼。何でもないよ」

思わず口をついて出た自分の声が、思ったよりも浮かれていて、それこそ信じられないような、柔な笑声が漏れ出た。
幸福感に浮かれ切る内心を抑えるように小さく息を吐き、ゆるやかに瞼を下ろす。

「これで、ようやっと言える」

情けない遠回りをしたと思う。
好奇心で手を出した恋愛なぞというものに、結局一人焦がれることになり、格好の悪いさまも散々見せたはずだった。
それでも、ようやく得られた答えを、この感情を、君に何の不安も憂もなく手渡せることが、今の僕にとって最大の喜びであることを、これから長い時間をかけて、君にわかってもらいたい。

「僕も好きだよ。君のことが」

瞼を上げれば、主は固まったまま耳まで赤くしている。

僕が君のことを好きになったのは、君が僕に思いを告げてくれたあの日があったからだ。
そして君が、再び僕を想ってくれたから、僕はずっと抱えてきたこの言葉を君に告げることができた。

「ずっとそれが言いたかったんだ」