2212年、春。
主不在のまま年を越し、いつしか寒梅が綻び始め、しかし春の兆しにも心躍らぬ者らが顔を曇らせるばかりの本丸に、主が戻ってきた。
本丸にまさしく春が訪れたようであったが、しかし『初めて』訪れる場所への不安と期待が入り混じった、感情の曖昧な表情をしている主を見た刀剣男士たちは、みな往々にして一瞬、瞳に寂しさの証のような影を宿すのであった。
今の彼女にとって、この本丸は「知らない誰かから引き継いだ本丸」であり、彼女の手によって顕現された男士もまた「知らない誰かによって呼ばれた男士」なのである、と。政府側から、そういう説明をされているらしかった。
今日この春の訪れの日は、本丸の誰にとっても忘れられぬ日になるのかもしれなかった。


【僕はそれに手を伸ばしたい】


本丸内を一通り見て回った主のもとへ、一振りずつ挨拶を行うこととなった。

いざ一対一で対面すると、彼女の瞳に浮かぶ不安と好奇心とがより一層伝わるようだった。見知らぬ相手への、純粋な好奇心である。その純粋さに、うっすらと憂いを覚えてしまったことが、何となく後ろめたかった。

「僕は、南海太郎朝尊。長いなら朝尊とでも……」

顕現の折に言ったままを淡々と述べようとして、うっかり言葉を詰まらせた。
ほんの一瞬、「南海先生」と呼ぶ声が、耳のすぐそばに蘇ったような気がした。

「……いや、うん。好きに呼んでくれたまえ」

雑に誤魔化して、勝手に浮かんでくる失笑を隠すように、眼鏡を指で押し上げた。
彼女はこの名を覚え切ることができなかったのか、俯きがちに小声で「なんかい……さん」と、呟いている。
これが現実なのだ、と奇妙なほど腑に落ちる感覚がした。記憶を失う前の彼女は、僕に「また好きになってしまうと思う」と言った。しかし、実際は名前を覚えることすら出来ぬほど何もかもを忘れ、後には何も残っていない。全てが無に帰したのだった。
頭で理解していた、予想していた事態が起きただけに過ぎない。だというのに、彼女の言動一つひとつに小さな傷をつけられていくような気になって、おまけにそういう愚劣極まりない自分の内面を、次々暴かれているような心地がした。

「あのう……」
「ん?」

控えめに、上目遣いでこちらを伺っている主に精一杯のいつも通りを演じながら返事を返すと、

「皆さんからは、何て呼ばれているんですか?」

と、意外なことを聞かれた。
どう呼べば良いのか迷った末に、それならばいっそ郷に入っては郷に従おうと思ったのだろうか。

「そうだねえ……南海先生、と呼びたがる輩が多いね。敬意なのやら、からかいなのやら、分からないけれどね」
「南海……先生?」
「僕を打った刀工は、刀剣の研究に明け暮れる学者の一面もあったからね」
「なるほど。南海先生、ですか」

どうやら、『記憶を失った彼女』の中でも再び「南海先生」に落ち着いてしまったらしかった。
意外な形で元の呼び名に収まってしまって、拍子抜けした。と同時に、聞き慣れた声が、その名の感触を確かめでもするような呼び方をするのが、どうしても物悲しくていけなかった。

「ところで、主」
「はい、何ですか?」

虚しいと分かっていながら、僕はこの一瞬、子供じみた思いつきを口に出す愚かしさにブレーキをかけ損なった。

「本丸の塀沿いに、沈丁花が植わっているのは気づいたかね?」

あれは彼女の要望により、自分らの力で植えたものだった。
秋田藤四郎くんから借りた図鑑片手に、彼女と花の話をしたのを覚えている。あの日、確か花言葉について話をしたのだった。

「ああ! 道理ですごくいい香りがすると思った……そっか、沈丁花だったんですね」

「沈丁花、とっても好きな花なんです」とはにかむ目の前の主に「知っているよ」と、ひとこと言えたなら楽なのであろう。
沈丁花の花言葉。栄光、不死、不滅、永遠、青春の喜び。
甘美な思い出。

「暇な時にでも、行って見てみるといい。良い気分転換になると思うよ」
「はい、ありがとうございます」

こちらのつまらない思惑を、素直に好意として受け取ったらしい彼女が、純な笑みを浮かべるのを目の当たりにして、酔狂極まりないことを言った、と暗いことを思った。
あの、生命の根底に埋もれた記憶の一欠片をじわじわと掘り起こすような、優しいようでいて痛ましい花の香りが満ちた場で、彼女が深く息を吸い込んだところで、何を思い出す訳でもないと、分かっているというのに。
動けば動くほど足を取られて惨めな思いをする、泥沼に嵌っているかの如き自分が信じられなかった。

「それじゃあ、僕はこれで失礼するよ」
「はい、南海先生」

僕の愚かしさに気づきもしない彼女は、無垢に笑って僕の名前を呼ぶのだった。

苦々しい気持ちを表に出さないよう、顔を凍りつかせながら廊下を歩く。そうして部屋に戻る間に、自分から彼女のそばに行くのはやめよう、と思い至った。
何をどうすればいいのかまるで分からず、こうして墓穴を掘るばかりなのだとしたら、それは後々、主をも傷つけることになりかねない。もし仮に、僕が抱くものに彼女が気づいてしまったとして、彼女に妙なプレッシャーを与えでもしたら。挙げ句、気のない彼女から気遣わしげな態度を取られでもしたら、いよいよ居た堪れなくなる。
彼女のことを目で追いかけるのは癖になっていたため諦めた。代わりに、目が合ってしまったら笑顔で取り繕って、その場から去るようにした。
それが、今の僕にできる精一杯だった。



「気持ち悪ぃんだよ」

と、馬に飼い葉をやる肥前くんが、唐突な暴言を吐いた。
馬当番として、馬の世話を今まさに終えようという時のことだった。

「肥前くん、いくら馬が言うことを聞かないからと言って暴言を吐いてはいけないよ」
「馬じゃねえ。ていうかコイツら俺の言うことはちゃんと聞いてる」

イ、とこちらを威嚇でもするみたいに歯を見せた肥前くんは、ため息を吐き出しながら手についた飼い葉をぱっぱと払った。

「先生、あんたのことだよ」
「おや、それは心外だね。確かに目の下に出来る隈というものはヒトの見た目を損なわせるけれど」
「そういうこっちゃねえ……つーか本当に隈すごいな! 寝ろ!」

じゃあ、どういう意味なのか、とこちらが問うより先に、肥前くんは鋭い視線をこちらに向けた。

「何で何もしねぇんだよ」

何もしない、という言葉の指し示す意味を、一瞬で理解できてしまった。この瞬時の理解とはつまり、僕が肥前くんに問われた事その議題について後ろめたさを抱いていることの証でもあるように思えた。

「あいつのことジロジロ見てるくせに目が合うとヘラヘラしながら目え逸らすだろ」
「ふむ、確かに言葉に起こしてみると、僕の行動は気持ち悪いのかもしれない」
「そこじゃねーよ。意図して近づかないようにしてるように見えるのが気持ち悪ぃ」

「何で避けてんだ」と、肥前くんは投げつけるような雑さで僕に問いかける。その、強引に踏み込もうという気が感じられない雑さが、今は有り難かった。

「記憶を失う前の主にね……」
「あ?」
「そのままの僕を好きになった、と言われてね」

言いながら、その場でしゃがみ込んで、辺りに散らばっている飼い葉や干草を指先でつまみあげながら、彼女と二人で話をした時のことを思い返した。
僕のどこを好きになったのか、という問いに対する返答。あの時、あんなことを聞かなければ、今こんな気持ちにならずに済んだのかもしれないというのに。

「そのままの僕、とは何だろうか」

彼女が思う「そのまま」の南海太郎朝尊とは、一体何だったのだろうか、と。もはや彼女の心の内にすら無いのであろうその答えを、それでも意識し続ける僕は、はたから見れば大層滑稽だろう。

「もう、こんなものを抱える前には戻れないというのに」

彼女の抱いた感情が消えて、後に残ったのは、僕の情けない感情だけだった。

「いやはや、無欲な頃に戻れたら楽なのだがねぇ」と適当なことを言いながら、何となく気だるい体を引き上げるように立ち上がる。拾い上げた草を馬の口元に持っていったが、鼻息ひとつであしらわれて、肥前くんにも鼻で笑われた。

「別に、欲があろーが近づいたって構やしねぇだろ」

鼻で笑ったついでのように、肥前くんは軽い調子で意外なことを言った。

「自分抑えて他人を気遣うなんざ、それこそらしくねぇだろ」
「おや、それは暗に僕が自己中心的である、と言っているのかね?」
「暗にじゃねえよ、ハッキリ言ってる」

と、ちょっとひどいことを言って、しかしその目元に、先刻のような鋭さは無くなっていた。

「俺はくだらねえと思ってるよ、今も」
「……そうだね」
「でも先生は、くだらなかろうが、ごっこ遊びだろうが、それでも付き合ってやろうと思った何かがあるんだろ」

「知らねえけど」と言いながら、肥前くんは小指を耳の奥につっこんだ。こちらへの気遣いを誤魔化すような仕草に、小さく吹き出すような笑いがこぼれる。

今の彼女は自由だ。
誰を好きになってもいい。それが僕じゃなくたって、何も悪いことはない。彼女が僕を想った日々の記憶は、すでに失われているのだから、誰も彼女の想いに口を挟むことなどできない。
誰を選んだっていい。むしろ、普通の人間と結ばれるほうが理には適っているのだ。同種同士が共にあるのが、一番自然なのだから。
それでも、もしも。
もしも、本当にまた彼女に好いてもらえたとしたら。
その時は、今度こそ僕もその気持ちに正面から向き合いたい。向き合わなければならない、と思う。
彼女のために。そして、僕のために。

「ありがとう肥前くん。では、僕も少し、主と話してみるとするよ」
「そーかよ」

肥前くんは、ほとんど吐息に紛れるような笑いをこぼして、さっさと片付けを始めてしまった。

こんなに往生際が悪い僕を、あの日の彼女が知ったらどう思うのだろうか。
もがいて、もがいて、君のことを考えて足掻き続けている僕のことを知ったら、幻滅するのだろうか。それとも、それすら「そのままの僕」として受け入れてくれるのだろうか。
失われたものは、もう戻らない。あったかもしれない未来も、すでに過ぎたことだ。
今この時、そばにある大切なものにこの手が届くことを、僕はどうしても願ってやまないのだ。