2211年、冬。
その日は突然訪れた。

「審神者をやめるよう言われました」

主の部屋に呼び出され、何かと思ってみれば、そういう突飛な話を切り出された。そして、審神者を続けるにあたり必須である霊力が底を尽きそうだということも、再び得るためには、記憶を元手にするほかない、ということも。全てを聞かされた。

記憶を霊力に変換する手段があることは、政府の人間から聞き及んでいた。が、役人の口から聞くのと、自らの主の、彼女の口から直接聞くのとでは、まるで重みが異なっていた。

らしくもなく、気が急いた。
主がいつも仕事で使っている電子端末が卓上に置きっぱなしになっているのを目に留め、それに手をかける。そうして、こちらの行動に戸惑っているらしい彼女の困惑した視線を背中に受けつつ、その場ですぐさま政府に連絡を取った。
事実確認、他の方法の有無、その他諸々を聞いた。半ば問い質すような口調になるのを感じながら、それをコントロールするだけの余裕を欠いていた。しかし努めて冷静であろうと意識しながら、本丸が拠点を置くサーバーの管理課係長と名乗る、壮年の男の答えを待った。
結果として、それは事実であり、かつ他の方法など存在しないということが淡々と明かされた。

「南海くん、申し訳ないけどそういうことなんだ」
「刀剣男士の霊力を審神者に分け与える方法もある、と聞き及んでいますが」
「ああ、それはなぁ……」

男は、意味深なため息を一つ吐き出し、しばし沈黙した。ややあって、ようやく重たげな唇を動かし始める。

「南海くんなら知っているかもしれないけど、臓器などの身体の一部を他者から移植したことにより、人格が変わることがあるという」
「審神者の霊力というものにも、それがあり得る、ということですか」
「うん、まあ正しくは、霊力の性質がまるきり変わってしまうんだよね」

なるほど政府は、彼女の霊力をそのままの性質で復活させることを望んでいるらしかった。
男は、手元に置いてあったマグカップを手に取り、人差し指でそれを指し示し、身振り手振りを交えた説明を始めた。

「例えば、霊力を貯めておく器のようなものがあるとする。それがほとんどカラの状態で、性質の異なる力がそれを満たしてしまえば、彼女の力は彼女の力ではなくなる」
「彼女の力は彼女のものとして、そのまま再度増殖させたい、ということですね」
「うん。彼女の手で鍛刀した刀から顕現した男士は、どうも通常より力が強い。これを失う手はないからね」

男は、ほとんど空になっていたマグカップをそのまま口に付け、茶らしきものをグイと煽り、再び口を開いた。

「記憶とは意識だ。意識とは、常に主観性しか持たない。客観の介在する余地がない。だからこそ、純粋なその人間自身の霊力を回復するための媒体として安全性が高い上に、とても質が高いんだよ」

ごとん、とマグカップを置く鈍い音が聞こえた。それから、男は相好を崩し、

「幸い、彼女には君らと過ごした三年分の記憶がある。刀剣男士と関わり合った時間が長ければ長いほど、力は大きくなるんだ」

と明るく言った。
他の審神者にも似たような事例があったんだ、というような話をしながら、政府の人間は愉しげに笑っている。その顔を呆然と見つめながら、僕はぼんやりと霞んだような頭で考えた。

幸い、と彼は言った。
幸いとは、一体誰にとっての幸いなのだろうか。
彼女はそれを幸いと思っているのだろうか。僕らはそれを幸いと思うのだろうか。
僕はそれを、幸いと思っているのだろうか。

記憶を失い、代わりに力を得た彼女は、再び審神者としてここに戻ってくる。
審神者として過ごしたこれまでの経験ごと記憶を失うわけだから、業務に多少の差支えがあるかもしれないが、それはまた1から経験を積めばいいだけの話だ。振るわれる僕たちにとって、主が変わらず戻ってくることは、それで最良のはずだ。また、ただ振るわれるのみだ。
だというのに。これは一体なんなのだろうか。

通信を切って、切ったままの姿勢で、そのまま動く気力が微塵も残らず尽きたような心持ちだった。

「南海、先生……」
「ああ、すまないね。やはり、手は無いようだね」

まともに顔を見ることが憚られた。主を振り返りつつ、表情を隠すように中指で眼鏡を押し上げる。

「先生、あの」

気丈に振る舞おうという意思が透けて見えるような声で、主は僕の名を呼んだ。背筋を伸ばし、僕に向き合おうとする彼女を前に、僕もまた彼女に向き合わざるを得なかった。僕は、彼女の初期刀に似た、彼女の直向きな眼差しを、真っ向から受け取ってしまった。

「私、この話を飲もうと思います」

今この瞬間、可能ならば聞きたくない言葉であると同時に、容易く予想できる言葉でもあった。
彼女がこの本丸という場所を、刀剣男士を、大層愛しているらしいことを、僕はよく知っていた。

「例え記憶が消えてしまうとしても……まだ審神者を続けることができるのなら、私はその可能性に賭けたいんです」

頬がやや紅潮し、瞳も赤らんでいた。痛々しいまでに強い意志が、みょうじなまえという人間の形で目の前に存在していた。

「きっと皆さんには、迷惑をかけてしまうけど……」

そう言うや、目を伏せた主に向かって僕は、

「例え悲しむ者があろうと、迷惑……と思う刀は、きっといないはずだよ」

と、月並みな言葉をかけることしか出来なかった。
他に何と言えば良いのか、咄嗟に言葉が浮かばなかった。それでも、彼女は嬉しげにはにかんで「ありがとうございます」と言った。

「でも、すみません。南海先生には謝っておきます」
「ん?」

彼女はよく分からないことを言って、それからいつも僕に向けてくれていた、はにかんだような笑顔のままで、

「私、また南海先生のことを好きになってしまうと思う」

と冗談めかして言うのだった。

「おや、それは……光栄だね」
「信じてないでしょう」

笑顔の彼女に合わせて、あえて軽い調子で返したが、内心が晴れることはなかった。
そんな都合の良いことが、あり得るとは思えなかった。
彼女は全てを忘れるのだ。人でありながら、人でないものへ焦がれてしまったことも。そういう気持ちを抱いて過ごした日々のことも。
何もかもを忘れるのである。そういう現実からの、逃避にしか思えない言葉だった。

「主は……」

ほとんどため息のようになってしまった声を正すように呼吸をし直し、改めて言葉を継いだ。

「僕の、どこを好きになったんだい?」

この期に及んで、こんな事を尋ねる己がまこと阿呆らしく思えた。こんなことを聞いて、僕は一体どうするのだろう。一体、何がどうなるというのだろう。
主は、一瞬目を丸くして、しかしすぐに泣き出しそうな笑みを浮かべ、

「そのまんまの先生を好きになりましたよ」

と、具体性に欠く返答をした。
僕は「そうかね」と、低く短く返すことしか出来なかった。

どうやら主は、今日の夜には本丸の全員に事情を打ち明けるらしい。そういう話をする中、僕は「うん」とか「へえ」とか、短い返事を曖昧に繰り返して、それから彼女の部屋を後にした。

身を引き摺るようにしながら、廊下をのろのろと歩いていく。
いつぞや、嬉しげに相好を崩した主が、向かいから手を振って歩いてきた廊下。「部屋で、二人で映画でも」と誘われた時、ここを通って彼女の部屋へ向かったこともあった。二人でいる間中、ずっと頬を赤く染めていた彼女は、僕が部屋を去る時には決まって寂しそうな笑顔で見送るのだった。
そういう健気さを、この一年ほどの間、「もう降参だ」と言ってしまいたくなるほどに、日々思い知らされてきた。

心臓がまるごと焼け落ちそうだった。
廊下の壁に拳を押しつけてみると、手に痛みが集中して、一瞬心の痛みを忘れたような気がした。しかしそんなものはすぐに効果が無くなった。ぎりぎりと、握った拳の軋む音ばかりが、寒々しい廊下に響いて虚しかった。

何なのだろうか、これは。
僕は悲しがっているのだろうか。悔しがっているのだろうか。
主を失うわけではない。彼女はまた戻ってくる。だというのに、何がこんなに苦しいのだろうか。
目の奥が熱を持って、頭が痛んだ。誤って酒を呑んだ時のようだった。思考が鈍り、どうして、なぜ、と堂々巡りを繰り返していた。

この期に及んで漸く、彼女から幾度となく向けられてきた「好き」という言葉に、身体の奥底まで貫かれたような気になっていた。


【僕はようやくそれを知った】


そうして10日後、彼女は再び霊力を得るべく、政府の当該施設へと去っていったのだった。