2211年。
審神者になって、3回目の冬。

政府から、まずは審神者だけにと内密の連絡が入った。
訝しむ近侍や、事務仕事を手伝ってくれていた男士たちを自室から遠ざけ、私はひとり、政府の役人さんと話をしたのだった。


【私はそれを失くしてしまう】


「蜂須賀さん、お話が」

虎徹のみんなが集う小部屋の戸を引き、初期刀である彼の名を呼ぶ。三人揃って、こたつでぬくぬく楽しげに話す姿を見て、息が出来なくなるような苦しさを覚えた。顔に出ていたのだろうか、藍の着物姿で寛いでいた蜂須賀さんは、すぐさまこたつから抜け出し、駆け寄ってきてくれた。
心配そうに眉を下げる蜂須賀さんに背中を支えられながら、自室へと向かう。

こんなこと、まずは初期刀にだけ相談しなければならない、と思った。
部屋に入り、蜂須賀さんがそっと戸を閉めるのを確認して、私はそろそろと口を開く。乾いた唇の隙間から息を吸おうとしても、ろくな呼吸ができなかった。

「政府から連絡が入りました。審神者を辞めるように、と」
「は……」

蜂須賀さんは一瞬、何を言っているのか理解できない、という風に口をぽっかりと開けた。
純粋な驚きばかりが浮かぶ顔に、少しずつ歪みが生じていく。眉間に寄った皺は、怒っているようにも見えて、でもその端っこは下がっていて。今にも崩れて、泣き出してしまいそうにも見える。
色んな感情がいっぺんに押し寄せて、それら全てが表情に滲み出ているのかもしれない、と思った。

「な……なんで、そんな、急な話……」
「力が……いわゆる霊力というものが、底を尽きそうなんだそうです」

もう、戦いを続けていくだけの、本丸を営むだけの力が、無くなる寸前まで来ているのだと聞かされた。
何故そんなことを政府が知っているのか、聞けば白山吉光の連れている狐、もとい通信機を通して、そういった判断が出来るのだそうだ。

霊力というのは、人によって力の質、そして量も異なるらしい。
質というのは、まず単純な強さ。霊力が強ければ安定した本丸運営ができるが、弱ければ体調の不良などで簡単に揺らぐ。それからタイプ。鍛刀で珍しい刀を呼びやすい能力、強い刀を生み出す能力、手入れによる治癒力が高い能力、治癒の即効性がある能力、などなど。人によっては、そういう特別な能力があることも少なくないのだそうだ。
そして、量。単純に、少なければ審神者を続けられる時間は少ないし、多ければ長い。政府の人が言うには、私の霊力は、強い刀を生み出す能力があるものの、もともとの量が少なかったらしかった。

ついさっき聞いたばかりの話を打ち明けるうち、蜂須賀さんは少しずつ冷静さを取り戻したようだった。そして、その顔にはうっすらとした悲しさだけが残されていった。
目の下に影を落とす蜂須賀さんの前に、そっと、静かに人差し指を立てる。

「でも、ひとつ。審神者を続ける方法があると言われました」

人差し指の向こう側にある蜂須賀さんの目に、部屋の明かりが映って揺らいだ。

「記憶を力に代える方法」
「記憶……?」
「この本丸に来てからの記憶を失う代わりに、力を得るんだそうです」

本丸。審神者。そして刀剣男士。
そういう魔法みたいな存在を、日本政府が正式な制度として制定した日から、まだ5年ほどしか経っていない。それでも、審神者の霊力の枯渇という、どうしても避けられない問題に対して、ようやく編み出された方法らしかった。

「いや、でも、そんな……どういう理屈で……そもそも、その政府の話は信用していいものなのかい?」
「理屈は、ちょっと……お恥ずかしい話、説明が難しくて……でも、他の本丸ですでに成功事例があるらしいんです。だから、あなたさえ良いならいかがですかって……」

言うと、しかし蜂須賀さんは困惑の表情を浮かべたまま、顎に手を添え、考え込むような仕草をした。

「方法があるとは言っても……でも、記憶を失うなんて……だいたい、一時的に力を得たとして、また力が無くなったら同じ方法で……再び記憶を失って力を得るというのかい? そんな非人道的なことを、政府は承認して……あまつさえ推奨すらしているのか?」

蜂須賀さんは、言葉尻に、怒りに似た熱を滲ませた。
言いたいことは、よく分かる。記憶を力に変換するという仕組みへの困惑も、そんな方法しか無いのかという怒りも、全部、自分自身も抱いたものだったから。

「本丸での記憶って、ええと……すごく強い力があるらしくて。そういう記憶が三年分あるなら、それを力に代えれば、しばらくは補充の必要はないだろうって……」

うまく説明できないのが申し訳なくて、言葉がどんどん尻すぼみになる。こういう時、頭のいい人ならその仕組みの説明も出来て、蜂須賀さんを安心させてあげることだって出来るだろうに、自分の平凡さがまったくもって嫌になる。
しばらくの間、黙って考え込むばかりだった蜂須賀さんは、不意に姿勢を正した。つられるように、私も姿勢を立て直す。
天井に向かって、すうっと伸びるように背筋を伸ばした蜂須賀さんの、まっすぐな眼差しを真正面から受け止める。

「あなたは、どうしたいんだい?」

きらきらと明るくて、強くまっすぐで、優しい声だった。

「私は……」

不意の明るさも優しさも、眩しくて、泣き出しそうな気持ちになった。この人は、私のことを心から信じてくれているのだと、改めて分かってしまった。

「もし、記憶を失ったとしても審神者を続けられるのなら、私はそうしたい」

私の答えを予想していたのだろう、蜂須賀さんが驚くことはなかった。ほんの少しだけ寂しげな笑みひとつで、私の答えを受け止めてくれた。

「……ごめんなさい」

堪えきれなくなった涙を隠したくて、顎を強く引きつけるように顔を下げた。膝の上で握りしめた拳に、涙が一粒だけ零れる。

「なぜ謝るんだい?」
「だって、これは私のわがままだから……」

声が揺らぐのが情けなくて、鼻を一度、強く啜った。

「また、1から審神者の仕事に慣れていかなきゃいけません。そしたら、みんなに迷惑がかかります」

震える声のままに不安を口にしていくと、どんどん涙が溢れていった。

「でも私、審神者を辞めたくないんです。続けられる方法があるなら、そうしたい」

迷惑がかかると、分かっていながら諦められない自分が惨めだと思った。
それでも私は、審神者をやめたくない。
わがままなんだと分かっている。

私が審神者になったのは、政府からの手紙で「適性がある」と知らされて、何となくで始めたことがきっかけだった。でも、いつの間にか、ここで過ごす時間がかけがえのないものになっていたのだ。
きらきら輝く蜂須賀さんと、元気な愛染国俊くんと、私と。三人からはじまった本丸には、すでに70以上の刀剣男士が集まっていた。
この本丸には、たくさんの思い出が詰まっている。それを私が忘れてしまったとしても、またここに戻ってくることができるのなら。
私が何よりも怖いのは、思い出を失うことよりも、ここでみんなと過ごせなくなること。
この本丸の、ここにいる刀の主であるという立場を、簡単に手放したくないという気持ちが何よりも大きいのだということは、なんだか子供じみていて、とても言い出せなかった。

「うん、分かったよ」

蜂須賀さんは、顔も上げずに泣き続ける私の言葉がこれ以上続かないことを察したのか、おもむろに言葉を発した。

「俺は主の決断を、決して否定しないよ」

言ってから、蜂須賀さんは私の肩を支えるように手を添え、それから優しく撫でてくれた。

「むしろ、嬉しくもある。あなたが、これからも俺たちの主でいてくれるんだからね」

添えられた手の温かさが、こわばっていた肩を優しく溶かすようだった。それで、ようやく顔を上げることができた。涙でぐしゃぐしゃな顔は、多分彼にはもう何度も見せてきたものだから、気にはならなかった。

「俺は、あなたの選択を疑ったことは一度たりとも無いよ。だからここまでやってこられたんだ。そういうあなたが、また戻ってきてくれるのなら、俺はまた全力であなたを支える。たったそれだけのことさ。あなたが謝る必要なんて、どこにも無いじゃないか」

「ほら、顔を拭かなきゃ」と、明るく笑う蜂須賀さんが差し出してくれたティッシュを数枚受け取って、目元や鼻を拭った。

「ありがとう、蜂須賀さん」

蜂須賀さんは、ほんの少しだけ泣き出しそうな顔で、それでも笑顔を作ってくれた。そのおかげで、私もようやく笑うことができた。

これから話をしにいく人にも、自分の正直な気持ちを伝えよう、と胸の奥でそう思った。