この学園から出ようと門をくぐる時「また来てください」なんてことを言われたのは、おそらく初めてのことだった。
一人のくのたまを助けてやった、つい三月ほど前のことである。



とんでもない一日ともようやくおさらばだとため息をつきながら、門をくぐろうとした時のことだ。

「出茂鹿さん、ちょっと待って!」

薄暗がりの中、声がしたほうに目をやると、みょうじが松葉杖を使ってぴょこぴょこと走ってきた。

「出茂鹿ではない、出茂、鹿之介!!」
「あっすいません、呼びやすくて……」

包帯ぐるぐる巻きの足で、しかも松葉杖を使ってまで必死にやってきたらしいくのたまが肩を落とす様子に、たまたま近くにいた忍たまどもが怪訝な表情でヒソヒソやってるのが見えた。くそ、腹立つ。
「まぁいい」と、場の空気を取り繕うように咳払いをする。

「で、何だよ」

別にみょうじを邪険に扱う気はないにしても、もう今日は一刻も早くここから去りたい気持ちもあって、どうしても気が急いた言い方になった。

みょうじを医務室に送り届けた後、学園長先生に諸々の報告を済ませた。
不本意ながら「助け出す」と約束した生徒に怪我をさせてしまったことへの謝罪や見てきた城内の様子、忍び込んだ城内で思いがけず得られた近隣勢力の状勢などなど。
しかしまぁなんにしても、学園長先生に良い印象を与える作戦は有耶無耶になったと言える。本当に、不本意だったとはいえ、みょうじに危険な選択をさせてしまう流れを作ってしまったわけだし。結果、怪我しちゃうし。
そうしたら、もうここに用はない。また次の機会を狙えばいいわけなのだから。
そんなわけで、私は早く帰りたいのだが。

「あの、今日は……」

今日は、と言った口の形のまま、みょうじは言葉を探すように視線を宙に泳がせた。
苛立ちを何とか抑え込みながら「何だよ?」と次の言葉を急かせば、みょうじは観念したみたいに大きな深呼吸をしたあと、頭を思い切り下げる。

「今日は、本当にありがとうございました!」
「はあ?」

眉を完璧なまでの八の字にして言ってしまったあと、感謝の意が込められた言葉に対しての返事としてはあんまり相応しくなかったか、と内省した。
が、わざわざ怪我した足を引きずって来て言うようなことでもあるまい。というか、礼ならすでに言われていたはずだ。
わざわざ重ねて礼を言うために来たというのだろうか、この娘は。

「きみ、くノ一のたまごのくせに意外と律儀なんだな……」
「い、意外ってなんですか」
「いや、別に」

やっぱり、こういう奴が上手いこと世の中を生きてゆけるのだろうな、と心の中でボヤきながら天を仰いだ。
空は西の方がほんのりと紫色になっているくらいで、あとはもう藍色の、一日を締めくくるための帳が下り始めている。

なんだか、変な疲れ方をした一日だった。

忍術学園に来るたびに思い知らされるのは、ここと外との世界の見え方の違いだ。
学年が上がるにつれ外の世界を見る機会が増えるにせよ、いつか卒業する日が来るにせよ。一度育まれた「忍たまの良い子の精神」は、きっといつまでも絶えることなく彼らを支えていくのだろう、と思う。
裏切った裏切られたが常である世の中において、人から信用される精神のあり方というのは、なんやかんやで一番の武器となり得る。フリーターだろうが何だろうが、忍びの仕事をしていると、イヤというほど身に染みることだ。
自分にはおそらく無いそれが鬱陶しいくらい眩しくて、ずっと見ていると胸焼けするような心地になることが、時々ある。
今日一日、みょうじにそれを眼前に突きつけられ続けていたような気がしていた。

「……ていうかきみ、足あんまり動かさないほうがいいんじゃないか」
「あー……でも、松葉杖使えば結構動けるんです。帰り、出茂鹿さんがおぶってくださったから。足を酷使せずに済んだおかげですよ」
「ふうん」

言外に「早く医務室に戻れ」と言った言葉に対して、またも重ねて礼をされてしまったので、さすがにバツが悪くなった。
なんとなく正面からみょうじを見られなくなって、視線を乾いた地面に落とす。

「あの」
「何だよ、まだ何かあるわけ」
「さ、最後に一つだけ」

焦ったように、しかしそれでも懇願するみたいな声だった。

「……また、来てくださいね」

思いもかけない言葉に引っ張り上げられるみたいに、顔を上げてしまった。
なんてことない、ただの挨拶みたいな一言にいちいち衝撃を受けてしまうのがちょっと悲しい。

「……お前、そんなこと言って他の忍たまどもに吊るし上げられたりしないか?」
「普通自分でそんなこと言います!? いくらなんでもそりゃないですから大丈夫ですよ」

みょうじはひとしきり笑ったあと、はあ、と一つ息をついた。

「今度いらっしゃる時は、私に一声かけてくださいね。今日のお礼、いつかさせていただきたいんです」



てなわけで、再び門前である。
あれから三月ほどが経ち、雪がちらつくほどに冷え込むようになった。

今日は何のことはない、いつものように小松田から事務員の座を奪うべく訪れただけだ。
しかし、いつもなら何の躊躇もなく叩けていた学園の門の前で、ノックするために拳を作った格好のまま固まっている。
「また来てください」と、裏も表もない言葉を向けてくるくのたま一人いるだけで、何故こうも戸惑うのだろうか。歓迎してもらっているというのに、こりゃあんまり捻くれすぎていやしないか。さすがに自分で自分に呆れてしまう。
ちょうどあの日と同じように天を仰いでみれば、やはりあの時と同じように日が傾きかけている。冬は日が沈むのが早くていけない、何もかもを投げ出したくなってしまう。
吐いたため息が白く煙りながら天に溶けていくのを見送ったあと、もういいや、帰ろう、と踵を返そうとした。

「あれっ、出茂鹿さん?」

さっさと立ち去ろうとした背中に浴びせられた声が冷や水のように思えた。肩を飛び上がらせながら、勢いのまま振り返る。

「あ、やっぱり。出茂鹿さん」

門からひょっこり顔を覗かせたみょうじとバッチリ目が合ってしまった。
「人の気配がすると思ったら」といかにも嬉しげに言葉尻を弾ませながら、わざわざ門の外へ出て近づいてくるみょうじから、なんとなく目をそらす。

「どうしたんですか? 何か御用ですか?」
「まあね。小松田くんは?」
「小松田さんなら今日はいらっしゃらないですよ」
「えっ、どうして」
「あー、というか、今はいつもの学園の三……いや四分の一くらいしかいませんね、人」
「だからどうして」
「冬休みなんですよ。小松田さんも今はご実家に帰られてるんです」

しまった。すっかり頭から抜けていた。
お気楽忍たまたちのハイスクールライフにつきもののウィンターバケーション。なんてこった、もうそんな時期か。
で、小松田までそれに乗っかってるってことか。
しかし、逆に学園長先生にも取り入りやすくもなる好機でもあるのではないか?

「ちなみに学園長先生も、今日は金楽寺の和尚様のところでお泊まり会だそうで、いらっしゃらないんですよね……」
「おっ、お泊まり会ぃ〜!? なんだそりゃあ!!」
「すんごいバッドタイミングですね、出茂鹿さん……」
「出茂、鹿之介!!」
「あっすいません」
「あーっもうぅ〜最悪じゃないか……」

私はただ事務員になりたいだけだっていうのに、こりゃあんまり酷い仕打ちだ。
思わずその場に崩れ落ちるみたいにして、ガックリと膝をつく。
狡い手を使って事務員の座を奪おうとはしていたが、しかし今日はまだ未遂なんだから、天の神様からの罰にしたって酷い。寒空の下、冷たい地面に膝を突かせやがるような世界に、神も仏もいやしないではないか。

「出茂し……あー、いえ。し、鹿之介さん」

しゃがみ込んだみょうじに小さく名前を呼ばれて、顔を上げる。寒さのせいか、鼻の先と頬骨のあたりが赤くなっていた。

「せっかくなんで、その……ご飯、食べていきませんか?」
「おっ、食堂のおばちゃんのご飯かぁ」
「いえ、食堂のおばちゃんも今いなくて……」
「おい……」

現金なことだが一瞬出そうになった元気が一気に萎んでいった。食堂のおばちゃんのご飯が食べられるんならまぁいいだろうと思った私を天国から地獄に叩き落とした罪はだいぶ重いぞ。

「私が作ったうどんの余りがあるんですけど、それで良ければ」
「きみが作ったうどん〜? 美味しいのかぁ? それ」
「そ、それなりだとは思います」
「ふーん、じゃあ仕方ないけど頂いてくか」
「そうですか、良かった。私も今から食べるところなんです」

じゃあ決まりですね、と立ち上がるみょうじを追うように体を起こす。
学園の門をくぐり、ヘムヘムが持ってきてくれた入門表にサインをして、みょうじのあとに続いて食堂に向かう。
歩いていてなんとなく気づいたが、確かに今日は異様なまでに人の気配が少ない。仮にも忍びの名門校が手薄になるのはいかがなものかと思うが、聞けば何かあった時のために先生方は数人ずつ交代で休みを取っているらしい。それならば、ちょうど学園長先生が休みの日に来てしまった自分は本当に運が悪かったのだろう。こんな不運、例の保健委員の連中じゃああるまいし。

「適当に座っててください、準備しますから」

食堂につくなり厨に向かったみょうじは、さっそくでかい鍋の前で何やらごそごそやり始めた。
人っ子ひとりいない食堂は、うっすら寒くて肌が粟立つ。首をすくめながら、厨に一番近い真ん中の席に腰を下ろした。みょうじが案外手際よく火を起こしたらしく、ほんの少しだけ空気が緩まった。

「ていうか、きみは家に帰ったりしないわけ?」

机に肘をついて息を吐きながら、なんとなく気になっていたことをみょうじに投げかける。
少し間が空いてから、包丁で何かを刻む音に混じってごく小さい返事が返ってきた。

「ちょっと、色々ありまして……」
「へー、色々ねぇ」

色々とワケありらしい雰囲気だが、まぁ私には関係のないことだ。と、早々に話を切り上げようとしたが、みょうじはさらに言葉を続けた。

「実は、母上からは大量に『帰ってこい』のお手紙が届いてるんです」

言いにくそうにしていたわりに、話は続いていくらしい。

「へー、じゃあ帰ればいいんじゃないの」
「父上からは『今は帰って来るな』の文一通が届きまして……」
「ああ、なるほどね」

母親からの大量の文も、一家の長たる父親からの文一通でひっくり返るというわけだ。
しかし一方からは帰ってこい、一方からは帰って来るなでは、やりにくいことこの上ない上に返事の書きようもないだろう。加えて、こいつの家で何かしらのゴタゴタがあるらしいことは明白だ。子どもは子どもなりに苦労しているってことか。
労いのお言葉の一つでもかけてやろうかと口を開いたが、うどん鉢二つと茶の乗った盆を持ってやってきたみょうじが先に口を開いたので、タイミングを失った。

「おまたせしました、煮込みうどんです」

うどんの一つはこちらへ、もう一つは向かいの席へ置かれた。目の前に置かれたうどんをのぞき込むと、味噌の香りが白い湯気と一緒に柔らかく立ち昇ってくる。

「油揚は後乗せですけど、サービスです」

みょうじがちょっと得意げに言う通り、太い麺とくたくたのネギが揺蕩うその上には、うっすら焼き目のついた油揚が乗っている。

「おー、見た目はいけるな」
「見た目はって……」
「香りも」
「それはどうも」

ご一緒しますね、と向かいに座ったみょうじはさっそく箸でうどんを掬った。口に運んで咀嚼して、一つ頷く。

「うん、味も大丈夫です。美味しくできてますよ。安心してください」
「え、何だよ今の。毒味?」
「だって出茂鹿さん警戒して食べてくれなさそうだから……」
「出茂、鹿之介な」
「す、すいません」
「ま、いいや。おかげで安心して食べられる。じゃあいただこうかな」
「やっぱり警戒してたんじゃないですか〜……」

がっくりと肩を落とすみょうじのことは見ないふりをして手を合わせ、箸を手に取る。
麺と油揚を一緒に掬い上げて、ほんのり温かいそれを口に入れ、ずるずると啜り上げた。柔らかいそれをあえて何度か噛みしめると、味噌の味をたっぷり吸い込んだ油揚からじわりと汁が染み出して、香ばしい香りが鼻から抜けていく。

「うん、意外といけるな」
「ほ、本当ですか?」
「まあね」

良かったぁ、とみょうじが目を閉じた隙に、たっぷり掬い上げた温かいうどんを目一杯に頬張った。
そういえば、このところ温かい食事はたまにしか食べられていなかった。仕事中は言わずもがな、受ける仕事が少ない時期はそう贅沢もできないから、安い飯屋にしか行けず。そういう店は決まって冷や飯が出てくる。
こんな風に腰を落ち着けて、誰かと飯を食うのは本当にいつぶりかも分からないほどだ。
こいつは毎日、こうして誰かと飯を食っているのだろう。きっと、小さな頃から、それが当たり前の子だったのだろう。

「きみ、武家の子なんだったもんな」
「え? あ、はい、一応……」

一応ってことはないだろうに。
何不自由なく生きてきたみたいな顔をしているこの娘の家で何が起きているのかは知らんが、まぁ武家のいざこざなんてのは案外日常茶飯事だ。いずれなるようになるだろう。
クラスメイトが実家に帰る中、ここに残らざるを得なかったみょうじが何故私を食堂に呼んだのか、何となく分かったような気がした。簡単なことだ、単純に寂しかったのだろう。

「さっきの話だけど、ここにいればきみの家で何があろうと、ある程度は安全だろうし。きみが帰りたくないなら帰らなきゃいいんじゃないの」
「そう、ですね……」
「ま、私には関係のないことだけどね」
「関係、ありませんか……」

みょうじが箸を持つ手から、あからさまに元気がなくなっていくのが目に見えた。
え、いや、関係ないだろう、と重ねようとして、しかしみょうじが勢いよく身を乗り出したので、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしながら怯んでしまった。

「一緒にご飯を食べたんですから、友達くらいには!」

なれませんか……と、声と体をしおしおと萎ませていくみょうじの顔は、真夏の太陽にでもやられたみたいに赤くなっていく。視線はうどんの汁の中に泳がせているせいで、こっちがどんな顔をしているのかも見えてないだろう。

「友達……なぁ」

独り言のように呟いてみたが、みょうじはなおも顔を上げようとしない。
ひょっとしたら、もしかしたらだが、みょうじが私を招き入れた理由は、もう少し複雑なのかもしれなかった。

「すいません、変なこと言って……」
「友達がどういうもので、どうやってなるのかもよく分からないからな、私は」
「そんな悲しい話しないでくださいって……」
「だからまぁ、きみが言うならそれでいいんじゃないの」

え、と顔を上げたみょうじに顔を見られないようにさっさと立ち上がり、皿を厨のほうへ下げた。

「ごちそうさま、もう行くよ」
「え、待って……」
「じゃあね、良いお年を」

中途半端に腰を上げたまま固まっているみょうじを横目にひょいと片手を上げ、出来るだけ早足で食堂をあとにした。

外に出ると、うどんを食べていたほんの少しの間に闇が深くなって、吐く息の白さもさらに濃くなっている。
出門表を咥えて早々と駆け寄ってきたヘムヘムの元に歩み寄り、腰を下ろした。

「ヘムヘムは優秀だな。小松田より私のライバルに相応しいかもしれない」
「ヘムゥ……」

受け取った出門表にサインをしながら言うと、ヘムヘムは照れたような困ったような、複雑な表情になってしまった。何故だ。

「さて、優秀なきみに頼みたいことがある」

首を傾げるヘムヘムの前で、懐から紙を一枚と矢立を取り出し、膝の上で素早く筆を走らせた。誰かに見つかりたくはないから、出来る限り急いで、要点だけを記した。
すでに悴みはじめて動かしにくい指先で紙を軽く折り畳み、不思議そうにこちらを見上げるヘムヘムに差し出す。

「これをみょうじなまえに」

自分で渡すのは癪だ。こんなやり方をすれば、またここに来る時、逆に自分の首を絞めるかもしれない。
それでも、今はなんとなく、面と向かってあいつと話すのは気が引ける。

「追っかけて来られたらたまったもんじゃないからな……そうだな、あいつが寝た後にでも、枕元に投げといてくれ」

なおも不思議そうな顔をしているヘムヘムに「じゃあよろしく」と重ねて頼み、その丸い頭をひと撫でしてすぐ、学園の門を出た。

どうしたもんかなぁ。
誰かに話してしまいたいような、誰にも話したくないような、落ち着かない気持ちを抱え込んだまま、その場から走り去った。
頬も耳も、手も首元も、冷たい風に晒されているのに、おかしな熱がこもっているような気がする。こちらに向けられた、その感情への戸惑いを振り払うように走った。
これは死んでも口に出せないが、戸惑っているくせに、少し浮かれてるような気もして。
喜怒哀楽、どこにも当てはまらない難解な気持ちを抱えたまま、どこに向かうでもなく足を早めた。


『うどん美味かった。
今度は山菜うどんで頼む。』