障子戸の向こうの気配に、思わず息を飲む。

いつの間に現れた? 言葉を交わしながらでも外の空気を読んでいたはずだ。
これは、自分と同じ気配。対象に気取られず、後ろを取る、その動き。
忍びの者だ。背中に嫌な汗が滲む。体を突き破りそうな心臓の高鳴りが頭の中にまで響き、頭が鈍く痛む。
いや、でも、シナ先生はサポートをする、とおっしゃっていた。忍術学園の先生か? シナ先生? いや、生徒、六年生の可能性もある。
しかし、忍術学園の関係者である可能性は半々だ。

胃の奥がヒリヒリと焼けるように痛む。この際、敵でなければ何だっていい。

「姫様、そちらにいらっしゃいますね」

聞き覚えのない男の声に姫様、と呼びかけられて、心臓が嫌な跳ね方をした。沈黙を通せば、向こう側にいる男は、今度は姫の名を口にした。

「……誰です」
「私は」

スッと障子が開こうという瞬間、咄嗟に帯に挟んであった懐刀に手をかける。

音もなく開いた障子の向こう側の様子に、拍子抜けした。
端色の忍び装束に身を包んだ若い男が、目の前で仰々しく跪き、深く頭を下げ、こちらに手を差し伸べていたのだ。
おもむろに顔を上げた男は、口元に笑みを浮かべながら口を開いた。

「出茂鹿之介、貴女をお救いするようにと城主様よりご依頼を承りました、雇われ者に御座います」
「で、出茂鹿、さん……」
「出茂、鹿之介に御座います。姫様におかれましても、是非お見知り置き頂きたく存じますれば」

思い出した。
デモシカさん、という名前だけは、学園で耳にしたことがある。
乱太郎たち下級生の話によると、小松田さんをあの手この手で蹴落とそうとしては失敗するも、未だに忍術学園の事務員の座を狙っている、イヤミで高慢ちきでイジワルな奴らしい。
が、忍術や武芸の腕は立つと聞く。私もそんなにイヤな男よりは小松田さんに事務員でいてほしいが、今回ばかりは武芸者らしい出茂鹿さんが来てくれておおいに助かった。

いや、しかし待て。

「本当に……父上に頼まれたのですか?」

よく考えてみれば、本物の姫はすでに自分の生まれ育った城へ帰っているはずだ。城主殿からしてみれば、私は赤の他人。愛娘はすでに手元へ戻ってきているというのに、ただのくのたまである私や、姫のお付きのものを救うために、わざわざ忍びを雇うだろうか。

「正確には、城主様と繋がりのある、さる御方から間接的にではありますが……それが何か?」
「あ、なるほど……いえ、何でもないです」

多分、学園長先生だ。出茂鹿さんは学園長先生が寄越してくれた助っ人に違いない。

が、ふと思い立つ。
わざわざ学園関係者ではなく、どうやらフリーター忍者らしい出茂鹿さんを寄越した理由。
これは、私の追試の一環なのではないか? 出茂鹿さんに替え玉だとバレずに逃げ仰せられれば、追試験の点も上がるのではないか。
ナルホドと一人合点をして、よし、と意気込む。

「では参りましょう。さぁ姫、こちらへ」
「え、あの、他の方々は……」

人質は私、もとい姫だけではない。
他の城からやってきた姫やまだ幼い若子も幾人かいる。先ほどから怯えて泣いて、いつ居どころがバレるかと肝を冷やしていたが、私は平静を保っていられたからこそ、怯える彼らを放って一人で逃げるのは気が引ける。彼らも敵方に見つかれば連れ去られてしまうだろう。最悪、殺されるかもしれない。

「彼らも何とか……助けられませんか」
「え、あ、いやぁしかし、彼らにはなんの義理も御座いませぬし……」

引き攣ったわざとらしい笑みを張り付けてはいるが、明らかに「面倒くさい姫だ」と思っている。なんて分かりやすい。顔に書いてあるとか言うけど、ホントにその通りだ。
だけど、やる前から諦めたくはない。仮の姿をしているとはいえ、なんだかんだで7日間を共に過ごした方々だ。私にはその義理だってある。

「お願いします、出茂鹿之介殿……あなたのお力で!」
「し、しかし、大勢で動けば敵に悟られますし……」
「私、忍術学園の学園長、大川平次殿にあなたの完っ璧な仕事ぶりをお口添え致します! さすれば今後のお仕事にもプラスに働くでしょう? どうです?」
「イヤ今後ったって、ここで死んだら今後も何もないん……」
「外に逃してやるだけで構わないですから!」
「う……ああーもう早く、早く逃げなくては……仕方ない! いいでしょう分かりましたよやります! 私は優秀なので!!」
「ありがとう出茂鹿さん!」
「出茂鹿之介に御座います!! 皆さんこちらへ! 早く!」

いちいちご丁寧なツッコミを挟みながら、出茂鹿さんはそのヤケクソっぷりを隠そうともせず、しかしみんなを引き連れて歩き始めた。

頭を抱えながら歩みを進める出茂鹿さんには、どうやら抜け道のあてがあるらしい。聞けば、城の裏手の井戸が抜け穴のようになっていたらしかった。数日ここで過ごしながら、偵察も兼ねてこっそりあちこち見て回ったが、なるほど確かに裏手に井戸があった。あれは抜け穴だったのか。
出茂鹿さんは、私に説明をしている間にも、遠方でこちらに気付いた敵兵の喉元目掛けて棒手裏剣を打ちまくった。声を上げること叶わず立ち往生する兵を横目に、見上げた出茂鹿さんの表情は凛としていて、張り詰めた緊張の糸が切れる様子が一切ない。さすが自分で言うだけあって、本当に武芸の腕は立つらしい。
感心しているうちに、なんと敵に見つからずに城の裏手に回り込むことが出来た。まさにプロの仕事だ。
井戸を覆い隠すように被さっている枝を掃いのけ、出茂鹿さんが開けた蓋の先を覗き込むと、確かに中には階段があり、その先には人一人が這いつくばってやっと通れる、ギリギリ道と呼べる通路があった。

「しかし姫様、この抜け穴はどこに繋がっているかは分かりません。この大人数でじょろじょろ連れ立って正面突破は当然無謀……一か八かです」
「……仕方ないです、ここに賭けましょう」
「では、私が先に」

腰に差していた刀を引き抜き、怪しげな井戸の中を平然と進む出茂鹿さんの様子に戸惑うばかりな皆の背中をなんとか押し切り、私も急いで井戸に足を踏み入れた。



通路を這いつくばり続けて、もうどれくらいになるか。腰が曲がったまま固まってしまいそうなほどの時間は経っている気がした。
先に行ったみんなは無事だろうか。出茂鹿さんは、ちゃんとみんなを守ってくれているだろうか。
先に行く人の姿すら見えない、深い闇の中、何度も天井に頭をぶつけながら、ようやく地上の光が差し込み、白く輝く出口が見えてきた。いい加減、手のひらも膝も、すり減る痛みに耐えかねていたところだ。
出口に近づくにつれ、なんだかそれが異界への入り口のようにも思えてくる。一面の黒に慣れた視界を突き刺すような、乱暴とも言える光は、いつも拝んでいるお天道様と同じものとはとても思えなかった。
手庇を作りながら薄目を開けるのが精一杯なまま、出口から顔を出す。

「お手を」

出口の縁に這いつくばる私に向かって手を差し伸べたのは、出茂鹿さんだった。まるで一国の姫君の繊細な手を丁重に掬い上げでもするみたいに、出茂鹿さんは私のぼろぼろになった手を取った。

「ありがとう……ここは」
「廃寺のようです、おそらくあの城に今の城主が入る、その前の……いつだかは分かりかねますが、先代城主が作った、はるか昔の抜け道だったのでしょう」

抜け道の出口は草生してはいるが、小さな祠のようになっていたようだ。目の前には風が吹けばすぐにでも崩れてしまいそうな、ボロ小屋同然の本堂があった。それなりに立派だったのだろうが、全体が色褪せて、濃緑の苔ばかりが鮮明に色づいている。
本堂がこんなになるほど前のこと、いつだかも分からぬ何代も前の城主が、寺に話を通し、城からの抜け道を作ったのだろう。
ちょうど、こんな時のために。

「感謝しなくてはなりませんね……」

はるか昔、私が生まれるよりも、ひょっとしたら忍びなんてものが生まれるよりもずっと前。この抜け道は作られたのかもしれない。
世の中は、いつだって不安に満ちていたのだ。いつの時代も、きっと。

「この抜け道を作った城主様に……むぐ」
「シッ」

横から伸びてきた手に急に口を塞がれて、妙な声が出てしまった。出茂鹿さんは神妙な顔で辺りを伺い、眉をひそめる。

「来る」

その、たった一言で、何が「来る」のか分かってしまう。

「お、追っ手にしては早すぎませんか?」
「おそらく落人狩りの連中でしょう」

耳をすますと、微かにではあるが草を踏み分ける音や、刃物の類で木肌をザリザリと引っ掻くような音が聞こえてくる。
もう、少しでも声を上げれば、すぐにでも見つかってしまうだろう。身を隠す一瞬の間すらない。

「固まっていては狙われる……とにかく逃げるしか」

出茂鹿さんの呟きに被せるようにして、若い女の、絹を裂くような悲鳴が上がった。
連れ立って逃げてきたうちの一人が、連中に気づいたのだ。

「走れ!! 散り散りになって逃げろ!!」

出茂鹿さんが張り上げた声を合図に、皆弾かれたように四方八方へ駆け出した。
こちらに気づいた連中は、私たち目掛けて突進してくる。お世辞にも立派とは言えないボロの槍やら鎌やらが握られているのを見るに、出茂鹿さんの言う通り落人狩りか、山賊か、どちらかだろう。

「姫様、ボンヤリなさっている暇は御座いません! こちらに!」
「は、はい!」

出茂鹿さんに腕を掴まれ、強引に引っぱられながら、二人でほとんど人の通らぬような獣道へ突っ込んだ。

「みんな、大丈夫でしょうか……」
「人の心配をしているバヤイではないようですよ」

走りながら、チラリと背後の様子を伺う出茂鹿さんに倣って見れば、確かに、奴らは獲物を目の前に、下卑た笑い声を上げながら距離を詰めてきている。

「ったく、なんて仕事だ……」
「ほ、本音……」

言いながらひた走る出茂鹿さんの顔には細かい生傷がいくつも出来ている。そういえば、鬱蒼とした獣道だというのに、私は木の枝一つぶつかっていない。口では文句を言いつつも、私のことを守ってくれているようだった。

「……あっ、出茂鹿さん、あれ!」

あと少しいけば拓けた道に出る、というところに、キョロキョロと辺りを見回す男たちの姿があった。背後から迫る奴らと同じような粗末な服を身に纏っている、多分、仲間だ。
幸い、こちらにはまだ気づいていない。

「仕方ない……押し通ります、姫様もご覚悟を!」
「はい!」

脳みそに満ちるアドレナリンに任せて勢いよく頷き、一気に早まる出茂鹿さんのスピードに合わせる。
出茂鹿さんは声も上げず、音も立てずに抜いた刀で、ようやくこちらに気づいた男たちの脇腹を振り払い、立ち竦む彼らの間をすり抜けた。怯んだ隙を上手く突けたらしい。

「姫様、まだ走れますか」
「は、走れますけど……」
「このままではいずれ追いつかれます、数が多すぎる……」

確かに、仲間と合流した連中は勢いを上げたようで、さっきまでとは精力が違って見える。

「私が足止めを致します。その隙にどこかへ身をお隠しになられませ」
「で、でも!」
「でももしかもないんです、私には貴女を守る義務がある!」

走る足の速度はそのままに、引っ張っていた私の腕を前方に放るようにして離し、出茂鹿さんは流れるような動作で懐から棒手裏剣を取り出し、手始めに二人の喉元をぶち抜いた。
私といえば、体勢を崩しながら、なんとか走る足は止めず。
しかし私は、このまま、出茂鹿さんを見捨てていいのか?

「迷われますな!!」

背中にも目がついているようだ。
私の迷いを見通した出茂鹿さんは、凛々しい顔つきからは意外なほど焦りを含んだ叱責をし、男が振り上げる錆びた刀を自身のそれで受け止めてた。
慌てて足を早めようとした、私の視界の端。出茂鹿さんの背後に、大鎌を振り上げる男の姿。

「出茂鹿さん!!」

危ない、と思うのとほぼ同時に、体が動いてしまった。足元に落ちていた、一番鋭く平らな石を手裏剣に見立て、男の横っ面へ打った。
石は顔面に命中し、男は大鎌を取り落としてもんどりうっている。
一瞬目が合った出茂鹿さんの怪訝な表情から目を逸らし、足を早めた。

やってしまった。
バレただろうか、私がくのたまだと。

なんにしたって、二人で固まって戦うよりは散り散りになって、少しでも勢力を分散したほうがいいだろう。
バレたかもしれない、という事で逆に冷静さを取り戻してきた私は先のことを考えた。
もう少し走れば林を抜ける。潮の香りがするから、多分海があるのだろう。身を隠す場所はあるだろうか。

林を抜け、視界が一気に拓けた。そこは、丘と呼ぶにはあまりに枯れ果てた荒野になっていた。潮風に野ざらしだったせいか草むらの一つもなく、岩がゴロゴロと転がっている。さらに先は崖で、眼前には、こちらの気も知らず呑気に青く広がっている海。
岩と崖、それに海があれば、水遁の術を使える。
出来るだけ海側にある大きな岩に手をかけた。腰を入れて力を入れれば、それはなんとか地面から浮き上がった。
いける。
あとはこれを海へ放り投げて音を立て、私がうまく林のほうへ身を隠せれば、私は海の底に沈んだと錯覚させることができる。
あと少し、もう少しで。

「オイ、いたぞ!」
「ゲッ……」

中腰で岩を持ち上げた、中途半端で情けない格好のまま動きが止まる。まずい、見つかった。さっきより数は減っているものの、武器を持った男数人で詰め寄られては勝てない。
もはや何の意味も持たない岩を海に放り出し、後退る。私がじり、と後退れば、奴らも距離を詰めてくる。
煙玉を使えば逃げられるか?
いや、林のほうから乱暴に草を踏む音や甲冑の鳴る音まで聞こえる。敵兵の追っ手まで来たのかもしれない。おまけに、よしんば逃げられたとして、林に潜む伏兵がいないとも限らない。
戦えば勝てるだろうか?
向こうには一体、何人潜んでいる?

無理に逃げるより、一か八か。
すぅ、と深く息を吸い込む。

「バカ、よせ!!」

焦りで裏返っている出茂鹿さんの声に、あ、と思った時には、すでに両足が地面を離れていた。

自分の体が海に吸い込まれる感覚も、息を切らしながら林から飛び出してきた出茂鹿さんの顔が、苦々しく歪んでいくのも、全てがスローモーションのようだった。
出茂鹿さんが遠くで伸ばす、届くはずのない手が見えなくなり、瞬間、時間は通常のスピードで流れ出す。

幸い、岩に体や頭をぶつけることはなかったが、潮の流れが強いらしく、もがくことしか出来ない。水練、飛び込みの練習もしておくべきだったな。

しばらく止めていた息も、そう長くは続かない。
海月のような泡がゆらゆらと、いくつも列をなして海面へ昇っていく。
自分の口の端から漏れ出た空気が、そうして揺らめくのを、呆然と見送った。
口に溜め込んでいた空気がしこたま海水に入れ替わって、喉の奥からじわじわと生きる気力を奪っていく。もがきながら、浮き上がることも出来ず、焦りで足を上手く動かすことすら出来ず、波に揉まれるがままだ。
目玉で塩っ辛い海水を味わっているせいだろうか、目の奥から別の塩っぱいものが溢れ出てくるのが分かる。

追試験なんて受けずに済むよう、ちゃんと勉強をしておくべきだった。
無理に術なんて使おうと思わず、さっさと身を隠しておくべきだった。
止まらない後悔の波に押し潰されながら、私は自分がいかに無謀だったかを思い知り、絶望した。
私のせいだ、全部。
捨てられなかったものの重さに耐えかねたように、私の心が、体が、沈んでいく。

ふっつり途切れる意識の、そのギリギリのところで、ぼんやりと影が見えた。海に差し込む陽光が海面を通し、青く光って影を濃くする。
ほとんど、思考することも出来なくなった私は、なんとなくそのシルエットに見覚えがあるような気がした。
そうして勝手に安心した私は、それで意識を放り投げた。