花発多風雨(花発けば風雨多し)
人生足別離(人生別離足る)

人は出会って、また別れ。
出会いは何千何万あれど、別れは必ず訪れる。
さよならだけが人生か。
果たして本当にそうなのか。



何故。
私は何故この軍記物語を、今の今まで読んで来なかったのか。
中在家先輩が目を光らせる図書室で、握った左手をうずうずさせながら、私はそりゃもう猛烈に後悔していた。忍術学園という恵まれた環境に身を置きながら、くノ一教室の生徒として5年も過ごしていながら。
めちゃめちゃに面白いのである。
この書物には、その昔、遠い陸奥国で巻き起こったという、愛憎うず巻き血で血を洗う軍記物語が記されているのだが、これがまた止まらない。
軍記物から発展していき、陸奥や出羽が今現在はどのような勢力状況なのか、商業、文化、食諸々、気になっては調べてを繰り返していくうちに夜も更けていき、ついつい数日後の実技試験の勉強や準備を怠けた。

結果が。

「みょうじさん、追試です」

今日も今日とて大変麗しい山本シナ先生が、こめかみに青筋を浮かべ、おっかない笑顔を張り付けながら静かに一言、そうおっしゃった。

「えっ」
「え、じゃありませんよ。試験前に図書室に入り浸るのは感心ですが、物語にうつつを抜かしてどうするんです?」
「見ていらっしゃったんですか!?」
「たいそう夢中でしたね」

話しながらずっと笑顔でいらっしゃるのが、もう逆に怖い。言葉の端々にチクチクと棘を感じるのは、きっと気のせいではないだろう。
お怒りのシナ先生曰く、追試は私だけらしい。なんてこった。
寝不足の寝ぼけ眼で城の偵察など出来たもんじゃあなかったし、追試は覚悟していたけれども、まさか、たった一人とは。

「追試の内容ですが、学園長先生とご相談した結果、あなたには一仕事して頂くことになりました」
「ひ、一仕事……と言いますと?」

シナ先生は、にっこりと口角を上げたまま、ことの次第を説明された。

忍術学園からそう遠くはない、海にほど近く。
潮風薫る町村一帯を治めている城があった。眼下には荒く波打つ海、背後は連なる山々。となれば当然川もあり、天然の要塞で守られた堅固な城として名を轟かせるほどの名城であった。その城の主は学園長先生の古い知り合いらしく、今でも文のやりとりをしているそうだ。
しかし世は戦国。強いものに巻かれてこそ保身の叶う時代へとひた走っている。
名城と呼ばれた城の主は、最近急速に力をつけた武家の前に跪いた。学園長先生によれば、かなり苦しい選択だったそうだ。
相手方は、海を拠点に勢力を拡大しており、強大な力を持った水軍とも手を組んでいるという話だ。それは私たち生徒の耳にも入っていた。兵庫水軍の方々も手を焼いているらしいと、もっぱらの噂になっている。
海に近い城であるにも関わらず水軍を持たず、商いや漁業で栄えた件の名城に勝ち目はなかった。屈したのは英断である。
さて、その学園長先生の御友人は、戦の火蓋を切らずに済んだものの、人質を要求され、大事に育てた娘を涙を飲んで見送った。
その姫さまは今も慣れ親しんだ土地を離れ、人質として見知らぬ土地に暮らしているのだそうだ。

「その姫様と入れ替わって城の内情を探ること。それがあなたの追試の内容よ」
「……えっ!? 姫様と入れ替わる!?」

半ば他人事のように思っていたらコレである。まさかその苦労を己が身に背負うことになろうとは。

「この試験内容はあらゆる忍術を駆使しなければクリアは出来ませんからね。追試にはうってつけです」
「は、はぁ……」
「それにあなたも武家の娘さん、姫でしょう? きっとうまくやれますよ」

いかにも私は、出雲を治める某氏に仕える武家の娘ではあるが、昔から外で馬に跨り駆け回るのが好きなヤンチャ娘だったので、姫君らしさを要求されるとなると、若干不安ではある。そもそも、武家の娘としての教養を身につけさせるために忍術学園に放り込まれたクチなのだ。
さてその実家も、近頃は周辺のパワーバランスがちっとも安定しない。西のもののふたちが進行してきては合戦が頻発し、周辺の国衆らが戦況を見ながらあっちへこっちへ主君を変えているという話を聞いている。先日帰省した時、久しぶりに会った父上の顔は、少しだけやつれて見えた。よっぽど苦労しているらしい。
イヤ、今は実家のことを憂いているバヤイではなくて。まずは自分の身に迫る危機について、だ。
この追試験、失敗したら死ぬんじゃ? なんて不安が胸のうちをよぎった。が、口には出せずだんまり口を閉ざしていると、シナ先生は呆れ顔で「大丈夫ですよ、サポートはしますから」と付け加えてくださった。

「あなたの、そのボンヤリを直すいい機会です。しっかり熟してきてくださいね」
「はぁい……」
「それに、今回の偵察は……」
「……え、え? な、何ですか!?」

いきなり言葉に詰まって、妙に思い詰めたような表情を浮かべたシナ先生に、思わずぐっと詰め寄る。眉間に皺を寄せた悩ましげな表情も美しい、などと考えてなどいられない。
何だ、この追試。裏に何かがある。
観念したようにため息をついたシナ先生が、ゆっくりと口を開いた。

「そうね、あなたには教えておいた方がいいでしょう。実はね、不穏な噂が学園長先生のお耳に入ったの」
「不穏な噂」
「そう。姫が今人質として過ごしている城についての、ちょっと良くないお話」
「よ、良くないお話」

おうむ返ししかできない自分が悲しくなる。明らかに動揺しているのを隠し切れていないのが惨めだ。
不穏だの良くないだのと、たかが追試のその先に、何があるというのか。

「紀伊で急速に領土を広げている大名が、その、姫がいらっしゃる城を狙っているっていう噂がね、流れているみたいなのよ。もともと、その城の主とその大名の仲は悪くってね。それで、姫のお父上様が学園長先生に調査をご依頼されたみたいで、ちょうどいいからあなたの追試にって」
「待ってください! ちょうど良くないでしょそんな大事な調査を! ボンヤリの私の追試験で!? 大丈夫なんですか!?」
「あなたがそんなに弱気でどうするんですか、自分で自分のことをボンヤリなんて言うものじゃありません。元はといえば、あなたの勉強不足が招いた追試ですよ」
「うっ……」

ピシャリと冷や水をかけられたみたいに、情けなく身が縮まる。シナ先生の漆黒に輝く鋭い視線を受けた私は完全に美女に睨まれた蛙である。

「あなたはあなたの仕事をする。四の五の言わず頑張りなさい」
「ハイ……」



それで、変装の名人である鉢屋三郎に教えを請いながら姫様に変装した私は、無事城内へ侵入し、入れ替わることに成功した。
姫は、あらかじめ話をつけておいた家臣らに連れられて、こっそりと自分の城へと帰っていった。

シナ先生曰く、試験は半月。正体がバレないよう過ごしつつ、城の内情を探るのが私の仕事だ。
姫様にとっては期限つきの里帰りである。しかし私は追試験の身であると同時に、知り合いのいない空間で姫の振りを通さなければならないというストレスフルな状態であった。所作や立ち居振る舞い、言葉遣いに人の名前。とにかくやることなすこと覚えることが山のように積み重なっていて、一日も早く追試の終わりを迎えたいと思っていた。

思ってはいたが。

「何でこうなる!!!」

私、もとい姫の世話をしていた侍女や、他の城からやってきた人質らの悲鳴に覆い被さるような大声で叫んだ。

私が偵察を始めて、まだ7日と経っていないはずだ。
今日の未明、未だ朝日の昇らぬはす向かいの山に松明が灯り、白い朝日が顔を出す頃にはテキパキと手際よく陣が張られていった。城兵がバタバタと騒がしくなった時にはすでに、紀伊のほうで最近力をつけ始めた何某とかいう武将の、その家臣の旗印が上がっていた。
かと思えば間を置かずに、大軍勢が城へ押し寄せてきた。詳細は分からないが、真っ向から突っ込んでくるということはよほど兵力差があるのだろう。攻め込んできた連中はボンボン景気良くカルバリン砲をぶっ放しているようだ。
混乱する城内で、なんとか他の城からの人質たちも連れ立ち、皆で奥の間に逃げ込んだ。鬱陶しいと思っていた見張りは気づいた時には自分だけ逃げていて、今や私たちは寄る辺のない捨て子同然である。
今のところ実害はない。が、爆音のたびに上がる悲鳴が、攻め込んできた敵兵にいつ聞かれてもおかしくない。ここが見つかるのも時間の問題だ。

「みなさま落ち着いて。大声をあげては居どころを知られます!」
「どうせもう、城は落ちます。私たち人質は奴らに連れられ、また遠い地で人質として流れ流され、もしくは身売り、もしくは殺され……」
「あ、諦めてはなりません!きっと助けが」

来ます、と言い切ろうとした矢先だ。

障子戸の向こうに何かが、いる。