これまでか。

と、確かにあの時、そう思った。
正体がバレて、敵に囲まれて、多対1の圧倒的不利な状況に追い込まれて。もう、逃げられるのはここまでだろうと、そう悟った。
覚悟といえば格好はつくが、そんな大層なもんじゃない。
ああ、くそ。こんなところで終わりか。最悪だ。さっさと忍術学園の事務員になれていれば、こんなことにはならなかっただろうに。

愚痴にまみれた、往生際の悪い最期になるのだと、そう思った。
こめかみを伝った汗が、いつの間にか頬にできていた傷に滲みて、痛くて惨めでたまらない気持ちになった時、みょうじが現れたのだった。

馬で人垣を蹴散らすという、冗談みたいにアグレッシブな登場の仕方には、失笑すら忘れるほどに度肝を抜かれた。
だが、あいつは多分、初めて会った時からそうだった。ずっと人の命を諦められない奴だった。あいつにとって、私も等しく人だったのだ。
それに比べ、私がみょうじを逃がそうとした理屈といったら、私自身が一番、私自身の命を諦めていたからに他ならないように思う。
どーせ死ぬなら、何もこんな子どもを道連れにすることはないだろう、と。
自暴自棄になる胸の内で、それでもあいつのことを巻き込む気は、さらさら無かったというのに。
だというのに、あいつは最後の最後まで自分を曲げなかった。離れろという黒松の言葉を一蹴するように、きっぱり「否」と言い放った。

正直、馬鹿だと思った。今でも思う。なんなら、出会った時から、ずっと思っている。
馬鹿で頑固でどうしようもなくて、いつも、どうしようもなく眩しかった。



背中を預けていた塀から体を浮かせ、手持ち無沙汰に門の外を覗いてみた。
館の内側から門の外を見ると、真っ正面に連なる山の稜線に太陽が吸い込まれていくのが見えた。茜色に染められた里に、多分もうじき、濃紺の夜空が雪崩れ込んでくる。

「出茂鹿さん?」

ふと、橙色の地面に細い影が伸びてきた。
振り返ると、明らかに疲労を滲ませたみょうじが、ぼんやりとこちらを見つめて立っていた。

「出茂、鹿之介だ」

何度目になるかも分からない訂正をきっちり入れてやる。

みょうじは今まで、松太郎と共にこちらへ来ていたらしいみょうじ家の老臣と、何やら話していたようだった。おそらく、みょうじがここで見聞きしたことなんかの報告やら何やらだろう。それから、おそらくみょうじ本人の安否確認も。
本来なら、家の者が付いて帰るのが当然だろうに、しかしこいつは一人でやってきた。

「きみ、家の人と一緒に帰らないの?」
「はい、適当に言い訳して断りました。今は、ちょっと……」

みょうじは言い淀んで、逸らした視線をそのまま地面に落とした。あまり追従されたくなさそうな様子で、ついには口を真一文字に引き結んでしまう始末だ。

「……ま、いいや。じゃあとっととこんなところ出ていこう。お互い散々な目に合ったなぁ」

さっさと門の外へ歩き出すと、みょうじはおずおずとその後ろをついてきた。

「えっと、出茂し……鹿之介さん」
「ん?」
「ひょっとして、待っててくれたんですか?」
「……別に?」

らしくないことをした、と内心ぎくりとしたが、ふと子供じみた思いつきが頭の隅から湧いて出た。
意地悪くわざとらしい笑みを浮かべ、片眉を上げながらみょうじを振り返ってやる。

「きみと私は『関係ない』もんなぁ?」
「え? ……あっ」

すぐ何のことか思い当たったらしい。遠慮がちに、少し離れて歩いていたみょうじは、慌てたような小走りで隣まで駆けてきた。

「いやアレは、その……家中の揉め事に巻き込むのが申し訳なさすぎて、つい口から出てしまったというか何というか……」
「フーン、まあ別にいいけど」

いつまでも続いていきそうなみょうじの釈明を適当に受け流しながら、すでに人影の少なくなった道をのんびりと歩く。
道の脇には、春起こしの進み始めた田んぼが延々と続いている。寒々とした景色の中、一足先に仄暗くなった東の空を見やると、一番星がうっすら輝いていた。

「鹿之介さんは、小寺の殿と何かお話しされたんですか?」
「ああ、今回の件についての褒美のことをな。銭と、ほら」

腰に差していた大小二振りのうち、小のほうを抜いて見せた。

「刀だ。備前で打たれたものらしい」
「へえ、すごい……」
「ありがた迷惑だよ、こんなの」

思わず吐き捨てるように言うと、みょうじは小さく首を傾げた。

「銭は使えば手元から消えるだろ。けど、刀とか……後に残っていくものは、呪縛になりかねない」
「また、こんな風に……仕事を頼まれたりすることがあるかもしれないってことですか?」
「そういうこと。『これだけ良いもんくれてやるんだから今後も頼むよ』ってことだろうな。全く、厄介極まりないよ」

おそらく一度も使われたことがないのであろうそれを鞘に納め、心の底から湧いたため息をそのまま吐き出した。
大口のご贔屓さんが出来たんだと思えば、フリーターの身としては有り難い話だが、でかい話が来ればくるほどにしがらみも増えるだろう。そういう面倒ごとが嫌で忍術学園の事務員を目指しているというのに、現実はどんどん理想から遠のくばかりだ。
思わず溢れそうになった二度目のため息を飲み込んで、代わりにみょうじへの軽口を叩いてやる。

「それにしてもきみ、本当に姫との入れ替わりって任務向いてないな。石ぶん投げたり、盗んだ馬で行く先も分からぬまま走り出したり……果ては夜の城で障子戸を壊して回り出すんじゃないの?」

疲れを紛らわせてやれるような冗談を言ってやったにも関わらず、みょうじの返事はなかった。返事の代わりみたいに、みょうじは眉を寄せた暗い表情で、俯きがちに足を止めた。

「おい?」

呼びかけながら顔を覗き込むと、みょうじは力無さげに、ぽつぽつと言葉を発した。

「鹿之介さん、さっき……こんなクソみたいな世界で生きていくなんて哀れだって、言ってましたよね」

館で追い詰められた時のことを言っているのだと、一瞬遅れて気づいた。
無我夢中で叫び散らした言葉だった。ほとんどヤケクソで、負け犬の最後の遠吠えのつもりで、どうしても吐き出さずにはいられなかったのだ。

「結局生きてる私たちは……これからずっと哀れなんですかね」

迷子の子どもが不安がるような声だった。
行く先の見えぬ暗闇に、一人で置いていかれたみたいな萎んだ声が、ほんの少しだけ痛ましいと思った。

「悪意に躓いて、信じていた人にも嘘をつかれて、世界が正しく回るために、騙して、騙され続ける……そうやって生きていくしかないんでしょうか」

みょうじが館で言っていた言葉、見せた表情を思い返す。
自分だけが何も知らなかったんだと、唇を噛んで耐えていた時から、ずっと心の内側に押し込めていた不安なのだろう。
忍術を学ぶ場所で長い時間を過ごした、けれど初めて『課題』としてではない、ほんものの任務に触れたみょうじの傷が、言葉として溢れ出たのだと、そう思った。

「そうだね」

一言で返しながら、俯くみょうじに背を向ける。人の姿がすっかりなくなった道の先を、ゆっくりと歩き出した。

きっとこれから、こいつはそういう悔しさを何度も味わっていくことになるのだろう。忍びとして生きていくのなら、当たり前にある数多の辛さを、これからその身に受けていくのだろう。

「でも、きみがまた何かに巻き込まれそうになったら、まず私に相談するといい。少しはマシな選択肢を作ってやれるかもしれない」

砂を踏み締める音に消されないよう、腹から声を出してみた。口に出してみると、あまりにも馬鹿らしくて、笑っちまうような言葉だと思った。

「私は優秀だからね。きみ一人助けるくらい造作なくできるように、すぐにでもなってやるさ」

いつも、なんだかんだで人の助け無しでは、危機を脱することが出来なかった。
悔しいだとか、そういう暑苦しい感情はあんまり湧かない。何かに執着するようなタチでも無し、条件が悪かったんだ、タイミングが悪かったんだと、その場しのぎで生きてきた。それで一向に構わないと、今でも思っている。
でも、俯くみょうじの一人くらいは、何とかしてやれたら、と。
小さな欲のようなものが、うっかり湧いてきてしまった。こういう感情はお荷物になりかねなくて、厄介極まりないものだと分かっているのに、今さら手放すことも出来ない気がしている。

みょうじなまえ。人を思うことを諦められない、諦めの悪い人間。
きっと、こいつにとって世界は息苦しくて、危うい。けど、だからこそ、力になってやろうと思ってしまうのだろう。
長い時間をかけて誑し込まれたような気になって、けどそれが嫌だとは思えなかった。

「鹿之介さん……」

シケた声で名前を呼ばれ、振り返ってみてぎょっとした。みょうじの両目から、だばだばと涙が溢れて止まらなくなっていた。

「だあ〜っ! なぜ泣く!」
「だって〜……」
「あーもう」

懐を探りながらつかつかと歩み寄って、取り出した物をその手に押し付けた。

「ホラ」

みょうじは鼻を啜りながら、手に握らされた橙色の布に視線を落とした。

「これ、私が出茂鹿さんにあげた手拭い……?」
「そうだよ。だから、ちゃんと洗って返せよ」

言外に、また会う約束を取り付けたようなものである。言ってから急激にこっぱずかしくなって、その思惑を悟られる前に超加速で歩き出した。

「はい、絶対に! ちゃんとお返しします!」

明るく跳ねるような声と共に、みょうじが隣へ駆け寄ってくる気配がする。

これから先の人生、きっといくつもの、途方もない数の出会いがある。こうして増えていく人との出会いは面倒極まりなくて、だからこそ、必然たる別れに気が軽くなることもある。
しかし、そう。さよならだけが人生であればいいのに、そうは思わせてくれない人が、出会いが、人の一生にはあるらしい。
そういう気づきを、身をもって思い知らされたのがきみで良かったと、案外素直にそう思っている。この感情に名前をつける時が来ても来なくても、それはどちらでも構わない。
互いの生きる道に関わり合える縁が続けば、それだけでいいような気がしている。