やっぱり直垂は動きやすくていい。
試着させてもらった服の着心地を堪能するように、腕や足を軽く動かしてみる。

「あらまぁ、男子の服も似合うのねぇ」
「えへへ、ありがとうございます」

曰く、松太郎殿が齢12の時に仕立てたはいいものの、すぐに丈が合わなくなってしまった物らしい。出茂鹿さんと別れ、奥方様の元へ戻った私に「おまつちゃんは馬に乗るのでしょう? もし欲しいようならあげるから」と、奥方様自らわざわざ引っ張り出してくださったのだ。
これは普通に嬉しい。爽やかな縹色に、流れるような白の縦縞模様が入った、綺麗な布地がまた素敵だ。着心地もいいし、なんなら私がほしい。今回の報酬ってことで、いいかな、おねーちゃん。

などと、心の中の姉上と談判しながらも、どうしても気がかりで仕方ないことが一つ。

出茂鹿さんは、今どこで何をしているのだろう。
作戦の渦中にあって、一番危うい立場にある出茂鹿さんのことが、気になって仕方がなかった。そわそわしつつ、私自身にも姉になりきるという任務が課せられている。もしここで私が怪しまれでもしたら、それこそ出茂鹿さんに迷惑がかかるかもしれない。にっちもさっちもいかない状況なのだ。
もどかしさのまま吐き出しそうになった溜息を慌てて飲み下した時、家人らしき男がバタバタと慌ただしくやってきた。

「ご無礼仕りまする!」
「何事ですか」

跪き、深く頭を下げた男に、目を丸くした奥方様が問いかける。

「賊が屋敷内に入り込んだようです。皆さまは奥へ」

賊、という言葉が出るや、わあきゃあと俄かに騒がしくなった侍女たちを横目に、格子の窓へ駆け寄った。格子にしがみつくようにして屋敷内を見回すと、大量に立ち上る煙が目に留まる。
大量の煙。煙玉。

「おまつ様、何をしておられる。早くこちらへ……」

出茂鹿さんだ。
直感した、その瞬間にはすでに駆け出していた。

「何を!」

焦りを滲ませた男の声と、必死に伸ばされた手をかい潜りながら廊下に出て、転がるように庭へ下りた。
首を伸ばすようにして辺りを見回すと、幸運なことに呑気な顔で馬を引く下男らしき若い男が一人。
着崩した着物の懐に手を突っ込んで脇腹を掻いている男に全速力で駆け寄り、その片手から馬の手綱をひったくるように奪った。

「借ります!」
「へ」

勢いのまま鐙に足をかけ、馬の背に跨る。手綱を軽く引きながら馬の腹を蹴れば、馬は高く嘶き、蹄で土埃を巻き立てながら走り出した。

「ちょっと!? ちょっとー!!」

背後で、下男の困惑したような高い叫び声が響く。「何で馬なんて連れとったんだおのれはー!」「散歩させてたんですよお!」「この非常時に何をしとるんだ、も〜!」などという不毛なやり取りも、うっすら耳に届いた。

「おい、お前! 早う追わんか!」
「は、は!」

申し訳ないが、人の足では馬に追いつくことはできないだろう。
ちょうどよく馬が通りかかるなんていう奇跡、少し引っ掛かりはするが、こちらとしては御都合主義万歳。今は一刻も早く駆けていかなければならないのだ、しばしお借りすることにする。とにかく、急ぎ出茂鹿さんを探さなければならない。
おそらく、一番騒ぎの大きな場所へ行けば何かしらの手がかりがあるだろう。もしかしたら、その渦中に出茂鹿さんがいるかもしれない。
わずかな希望に縋るような思いで、時折止めに入ろうとする家人たちを蹴散らすように駆け回った。
庭を半周ほどした辺りで、黒い塊のような人だかりが目につく。塀の際の、一部分を囲うようにして、人垣ができていた。
まるで、何かを追い込むような。

殺気が渦を巻く中心に、地面に立て膝をつきながらも刀を構える若殿の姿が垣間見えた。

「いた!!」

思わず叫びつつ、馬の腹をもう一度強く蹴った。上がるスピードをそのままに、人だかりのど真ん中へ突っ込んでいく。
こちらに気づいた追手たちに、徐々にどよめきが広がっていった。

「お、おまつ様、止まられよ!」
「邪魔立ては許されませぬぞ!」

口々に言い募りながら、刀や槍を構える男たちの声を無視して、歯をきつく食いしばりながら前のめりに突進していく。

「え、ちょ、ホントに止まって?」
「うわ、ちょっ、待っ」
「あああ危なっ!!」

わっ、と人垣が割れた隙を縫って、その最中へ飛び込む。手綱を腹の方へ強く引き込めば、馬はその場で一度前足を高く上げ、それから徐々に大人しくなった。
鞍からぱっと飛び降りて、さっさと去っていく馬を尻目に、若殿の姿をした出茂鹿さんに駆け寄る。
息を切らしながら、ぎょっと目を見開いている出茂鹿さんの肩にそっと手を置いた。小声で「大丈夫ですか」と問うてみたが、何か言いたげに口を開くばかりで返事はなかった。言葉を失った出茂鹿さんの顔を見て、ようやく自分のしでかした事の無茶苦茶っぷりに気づく。
驚かせてしまったことを心の中で詫びつつ、ひとつ息を吐いて、改めて出茂鹿さんに向き直った。ところどころにすり傷や小さな切り傷がある。いよいよ追い詰められたところだったのだろう。
最悪の事態になる前に出茂鹿さんを見つけられたことに安堵しつつ、再び取り囲まれようとしている現状のまずさを肌で感じた。呆気にとられていた一同が、じりじりと詰め寄る気配が四方から漂ってくる。
このままでは、到底逃げられない。四方八方を囲まれている上、背後の塀の上にすら、弓を携えた追っ手が数人いた。下手に動けば、まず助からないだろう。

「まつ殿、何をしておられる」

姉の名で呼び掛けられ、はっとして声の方を見上げる。
この騒ぎの大元の原因、黒松殿が怪訝そうな顔でこちらを見下していた。
出茂鹿さんを腕で庇うようにしながら、黒松の視線を真っ向から受け止める。

「それはこちらのセリフです、叔父上様は一体何をしておられるのですか!」
「それは小寺の当主ではない。偽物だ」

やはり、バレたのだ。
この作戦の、どこまでが割れているのかは分からない。けれど、出茂鹿さんの身が危ういことだけは、どうしても避けられそうにないらしかった。

「さあ、その男から離れなさい」

ぐ、と押し黙りながら、出茂鹿さんを振り返る。目が合うや、出茂鹿さんは顎の先で私を追っ払うような仕草をした。
何か手立てがあるのか、という考えが一瞬よぎったが、出茂鹿さんの表情からは、いつもの自信がまるで感じられなかった。疲れ果てたような、浅い呼吸がそばで聞こえる。

『あの時、他の連中なんてほっといて逃げていたほうが評価されたと思うぞ』

出茂鹿さんと初めて会った時、言われた言葉。
出茂鹿さんは今、あの時、私が出来なかった選択をさせようとしているのだ。

追試験で、私は人の命を、一つも諦めることが出来なかった。引き際を見極められない自分の未熟さに迷いが生じて、これからどう生きていけばいいのか、分からなくなっていた。

『諦めない心、というのは希望だ』

これも、そう。出茂鹿さんがくれた言葉だ。
この言葉のおかげで、私は私自身の生きる道を信じることができた。未来を明るく照らす灯火のような言葉に、生きていく力をもらったのだ。
私は、この人からもらった、この言葉を忘れない限り、ずっと生きていけると思った。

やっぱり、私はどうあっても諦められない。
出茂鹿さんと、また楽しくお話しする明日を。どうしたって諦めたくない。
だから。

「嫌です」
「は……」

きっぱり言い切ると、出茂鹿さんが鋭く息を吸う音が聞こえた。

「馬鹿! お前、何で……」

責めるような、焦るような、怒気をにじませるような、荒い出茂鹿さんの声に耳を突かれる。

例え出茂鹿さんが望んでいなかろうと、私はここで出茂鹿さんを見捨てて自分だけ助かる、なんてこと、断じてお断りだ。
ここで自分の命だけが助かったとして、これから先の人生で笑って生きていくことなんか出来ない。そんなのきっと、生きているとは言えない。出茂鹿さんがいない世界なんて、少しも楽しくない。
ここで自分を曲げるくらいなら、最後まで望みを捨てずに、命が尽きるその瞬間まで、出茂鹿さんの隣で生きていきたい。

「うん、なるほど。君もグルだったのか」

言い当てられ、口の中の渇きが一気に増した気がした。唇をきつく噛みながら、黒松を睨み上げて無言の抵抗をする。

「まあいい。それなら二人まとめて、ここで始末するまでのことよ」

鼻で笑うような、小さな呼吸を挟んだ黒松は、嘲笑を滲ませた顔で口を切った。

「哀れだなぁ、実に哀れだ。他人の身代わりとなって命を落とすなど、馬鹿馬鹿しいにも程がある。同情するぞ」

こちらを見下す目は、嘲るように歪められている。

「最後に何か言い残したことはあるか?」

いよいよ追い込まれた状況では、これという辞世の句など思いつかないものだということが分かった。目の前で人を見下す男への怒り、こんなことになってしまった、こんなことに出茂鹿さんを巻き込んでしまったことの口惜しさ、未だ生を諦めきれない、自分自身の往生際の悪さ、明日を信じたくて仕方がない、生への執着、希望。
いくつもの感情が絡み合って、言葉が一個も出てきやしない。

「お前、私たちを哀れだと言ったな」

出茂鹿さんが、思いがけずはっきりとした声を上げた。
唇を噛むばかりな私を自らの背中に押し退け、出茂鹿さんは黒松のほうへにじり寄った。

「だが私からしたら、お前たちのほうが哀れだ」
「何?」

目元をヒク、と歪めた黒松を見上げながら、出茂鹿さんは吐き捨てるような声で言葉を続けた。

「騙して騙されてを繰り返しながらでしか生きられない、こんなクソみたいな世界を、あんたたちはこれからずっと生きていかなきゃならないんだ」

こめかみに滲んだ汗をそのままに、出茂鹿さんの声がまた大きくなる。

「今から死ぬっていう私たちよりも、ずっと哀れだなァ!」

ほとんどがなるようになった最期の言葉を投げつけられた黒松は、額に青筋を浮かべながら「クソガキが」と呻いた。

「かかれぇ!!」

わあっ、という怒号に囲まれ、今度こそ終わりだと思った。
ぎゅっと、固く目を瞑った、その時だった。

「お待ちあれ!」

勇ましい、若い男の声が屋敷中に響き渡る。
どよめく人垣の向こう側に、正真正銘、本物の松太郎殿がいた。
自らの手勢数十人ほどを引き連れ、自らの叔父を真っ直ぐに見据えている。

「小寺黒松殿、台帳の改竄および穫れ高の操作を繰り返したこと許し難し。本日をもって政務より追放致す!」
「何!?」

松太郎殿の声を合図にするように、これまで私たちを取り囲んでいた黒松勢の一人が、隣の仲間の胸ぐらを掴み上げて、握り拳でぶん殴った。

「えっ」

仲間割れ、のように見える。
口元に満面の笑みを浮かべての右ストレート、その一発を皮切りに、周りで同じような現象が次々に起こった。
さっきまでこちらを威嚇していた男が隣にいる男にぶん殴られ、塀の上で弓を構えていた男が隣の仲間、だったはずの男に蹴落とされ。
掴みかかってかかられての取っ組み合いが一斉に伝播していき、場は一気に混沌とした。

「いやあ、よく粘りましたね。もうダメかと思いました」

慣れ親しんだ声に、ぎょっとして振り返る。ついさっき馬を奪い取った下男、の顔をした男が、へらへらと笑いながら立っていた。

「……あっ、鉢屋三郎か!?」
「やあ、どうもどうも」

出茂鹿さんに人差し指を突きつけられた鉢屋は、軽い調子で下男の顔のマスクをべり、と雑に剥がした。何故かその下は松太郎殿の顔になっていて、今この場には本物の松太郎殿、出茂鹿さんの変装、鉢屋の変装、三人の松太郎殿がいる。もうめちゃくちゃである。

「鉢屋、いつからここに?」
「最初からだ。多分、出茂鹿さんの身が危うくなったら、どうせお前は駆け出していくだろうと思ってな。御丁寧に馬を用意してやったんだぞ」

鉢屋の手に支えられながら立ち上がり、改めて周囲の様子を見回してみる。
松太郎殿の手勢は、黒松殿が連れてきていた手勢の倍はある。すでに抑え込まれかけ、黒松殿本人も、何事かを喚きながら、松太郎殿の手勢に羽交い締めにされていた。

「敵さんの懐にも、すでに数人こっちの味方を忍ばせていたからなぁ。保険はかけてたんだ。だからこそ、お前に手を……ていうか、馬を貸した」
「あ、だから仲間割れか……し、周到だなぁ……」
「まあな。それと今頃、みょうじ家は小寺分家の屋敷に出向いて交渉に当たってるはずだ。大人しくしなけりゃみょうじの家も武力に訴えますよっつってね」

にひ、と笑ったかと思うと、ふとしおらしい顔をした鉢屋は「悪かったな」と小さく呟き、後ろ手に頭を掻いた。

「お前、こういう隠し事、わりと気に病むタイプだろう」
「や、そんなことは……」

ない、と言い切ることも出来なかった。
やはり、自分の大切な人たちが、自分に何かを隠していたということについて、思うところがないわけではない。
けれど、そうでなければ成し得ないことがあることを、理解しなければいけないことも分かっている。

「そういうのは、知ってる人間が少ないほど安全だって……それくらいは私にも分かるから」

周りの乱闘によって巻き立った土埃を、片手で払い除けながら笑って見せた。

「ありがとね、鉢屋」

鉢屋がいなければ、出茂鹿さんの元へ駆けつけられなかったことは紛れもない事実だ。感謝してもしきれない。

のどかな昼下がりの日差しの中、ここに一つの騒動が終着しようとしていた。