さて、鉢屋三郎だ。
少し時間を戻させてもらおう。

作戦の日から遡って、数日前。
忍たま長屋の一室の戸を引いた出茂鹿さんは、やってきて早々に顔を顰めた。

「あっ、やっと来た。待ちくたびれましたよ〜」
「時間通りだろうが。ていうか何だ、このでっかいホワイトボードは」

『これでカンペキ! 小寺家のあれこれ講座』と、でっかい表題および小寺家家系図を簡易的に記したホワイトボードを前にして、出茂鹿さんは呆れたように目を細くした。

「や、ですからね、事前にお話しした通り、入れ替わりの潜入にあたって必要な知識をお教えしようと思って、用意しといたんですよ」
「話の都合上どうしても必要だったアイテムってことか」
「そーゆうことです」

メタい物言いだが、その通りである。
しばらく付き合ってみると分かることだが、出茂鹿さんは案外、物わかりの良い人だと思う。頭の回転が早く、故にことの成り行きを悟るのが早いから、ウェットが同等レベルな人間からすれば、結構話しやすい人なのだ。そこを案外気に入っている自覚はある。

「さ、じゃあとっとと始めちゃいましょう。今日は私を先生と思ってくださいね」
「フン、せいぜい期待してるよ」

しかしまぁ生意気な生徒である。
仕切り直すように両手をぱちん、と打ってから、黒ペンのキャップを外した。

「じゃーまず小寺家の現状から。小寺の家は今財政に関わる全てを叔父である黒松さんが管理してます。で、まだ家督を継いで間もない松太郎くんは、これに異議申し立てをすることすら出来ない。何ででしょう」
「ど〜せ叔父サイドで、不正の旨みを啜ってる古株の取り巻きも大勢いるんだろ。おまけに家督相続間もないとなれば、仲介役に立ってもらえそうな外部のツテもないだろうし」
「ハイ正解」
「先生ヅラヤメロ」

イ、と威嚇するように歯を見せた出茂鹿さんの文句は無視して、話を続ける。

「おまけに、前当主の御方様は、隣り合った領地との境い目争いの末、人質同然に娶った方なんです。夫婦仲は良かったみたいなんですけどね。
まぁなので、小寺の家で黒い金の動きがあるのに気づいても、御方様はあまり強く出られないんです。つまり、御方様サイドの家の力もアテにはできない」
「だからこそ、みょうじの家を頼った、と」
「そうです」

ホワイトボード上に書いた家系図の、御方様サイドにバッテンをつけ、松太郎から線で繋がるみょうじ家サイドをマルで囲った。

「松太郎くんからしたら、惚れた女性の実家にこんな形で頼らなきゃならないわけですから、ちょっと可哀想な話ではあるんですけどね」
「面目立たないよなぁ」
「でも、みょうじ家は基本人がいいんで。おまつ様的にも、惚れた男の頼みな上に正妻に迎えてもらえるワケだから、まぁ悪い話ではなかった、というわけです」
「傍目には政略結婚でも、結果的にウィンウィンな恋愛結婚になったってことね」
「言い方があけすけですけど、まぁそーです」

御家騒動の顛末なんて、改まって話そうとすると案外おばちゃんたちの大好きなゴシップ、噂話と大差ないなと思う。結局、どちらも人間関係の話に他ならないのだから、当たり前といえば当たり前かもしれない。

「んで、出茂鹿さんにとって一番大事なのは」
「出茂、鹿之介だ」
「ハイハイ。出茂さんにとって一番大事なのは、出茂さんが入れ替わる松太郎くんの情報ですよ」
「そーだ、それが無きゃ仕事にならないだろ」

早よ教えろ、と催促でもするように、出茂鹿さんは手のひらでぺしぺしと膝を叩いた。

「ハイ。では御当主様について。小寺家嫡男。19歳。生まれも育ちも出雲の端っこの田舎。真面目だが世間知らずでやや控えめ、正義感はあれど力はなく、このところ自分の未熟さを嘆いてらっしゃる」
「若くして家督継ぐなんて思ってもみなかっただろうしな」
「はい。とはいえものの道理は弁えている。それなりに頭はいいほうだと思います。弁えているのに自由に動く力が足りない分、やれることが少ない……っていうのも、ツライんでしょうね。だから、今回の作戦には相当ノリ気だし、意気込んでます」

まあ、あの人が意気込めば意気込むほど敵方にもそれが悟られるから、周囲でのサポートが要となるのだが。
などという、野暮なことは言いっこなしだと思い直して、その言葉は喉の奥にしまい込んだ。

「まあキャラクター的な話をすると、言ってしまえばどこにでもいる、青臭い青年ってところですかねぇ」

人差し指をピ、と真上に立てて言うと、出茂鹿さんはぎょっとしたように、引き気味で目を剥いた。

「お前……メタい上に年寄りみたいなこと言うな……」
「失礼な」

理不尽な年寄り扱いに、律儀にむっとしてみたが、出茂鹿さんはすぐにこちらへの関心をなくしたような顔で胡座の足を軽く崩した。

「あ、あと身体的な情報も教えろよな、利き手とかクセとか」
「もちろん。それが無ければ変化の論は為し得ない」

にこ、と効果音がつきそうなくらいに態とらしく笑ってみせると、出茂鹿さんは心底鬱陶しそうに顔をしかめた。案外リアクションが単純なので、返ってくる反応をいちいち楽しんでしまう。

とはいえ、こちとら大仕事の成功がかかっているので楽しんでばかりもいられない。

さて、ぼちぼち時を今に戻そうか。出茂鹿さん、しっかり頼みますよ。
私もどこかで、ずーっと見ていますからね。うふふ。



我慢できないほどの悪寒がした。

「はっくしゅっ……んん、失礼」

思わず飛び出たくしゃみのその一瞬、くしゃみ一つとっても人にはクセがあるということに考え至り、必死でそれを抑え込もうとしたが、悲しいかな生理現象。それは叶わなかった。
マズったか、と内心冷や汗ダラダラになりながら、将棋盤を挟んだ反対側にいる小寺叔父貴の様子を伺った。

「おや、風邪かな」
「いえ……大丈夫です。失礼しました」

伸ばした背筋はそのままに、静かに頭を下げる。
所作の一つ一つを、真面目な当主をトレースする気持ちで過ごしているが、我ながら結構しっくり来ているんじゃないかと思う。己が一応武家の出であることに、今さら少しだけ感謝しながら、手元の銀将を盤上に打った。

「妻を娶る前に、私に将棋で一勝したい……なんて殊勝なことだ。勝ち戦は武士の誉だからなぁ」
「ええ」

この部屋に来るまでの道中、どうもそういうことらしい、と話を聞かされた。
思わず「聞いてないぞ!!!」と内心で叫び散らし荒れ狂いながらも平静を保った自分を褒めたい。
鉢屋が伝え忘れたのか、そもそも小寺のアホ坊が鉢屋にそのことを教えていなかったのか。分からないが、そもそもこんな企み事など未経験であろう若殿にそこまでの配慮を求めるほうがいけないのか。
将棋の手など、それこそ人間性が丸裸になるようなことをぶっつけ本番でやらなければならないわけである。ここに来てからというもの、ずっと心の中が冷や汗でびしゃびしゃになっている。

ぱち、ぱち、という、駒を置く小気味よい音だけが部屋に響く。
真面目で正義感がありつつ、未だ未熟な当主の指し筋とは、一体どういうものか。一手一手、ただ勝ち筋を探すよりも、一人の男を演じながら将棋を指す、なんてことのほうが、よほど難易度が高いと思う。
あくまで歩兵一つも惜しみつつ、なるべく持ち駒を取られない方向で、かつ真っ正直に、頭の首を取りに行く姿勢も見せつつ、という具合だろうか。
頭の中で、己がなぞるべき男の手を想像しつつ、駒を動かしていく。
そういう作業に没頭するうち、ふと胸騒ぎがした。

人の気配が、増えている。
この部屋の中にいるのは私、黒松叔父、互いの近習のみであるはずだ。
不審に思われないよう、視線は盤上から外さずに、身体中の全神経を研ぎ澄ませる。
左手と背後は庭に通じる障子戸、右手は別室に通じる襖。それら全ての裏側に、人の気配を感じる。

間違いない、囲まれている。
それぞれの持ち場に二人程度だろうか、物音はしなかったから、おそらく具足はつけていない。
最小限の装備で、数の差で押し包む。そういう算段かもしれない。

バレたのだ、おそらく。

「君は優秀だよ、よくやっている」

指し手を考え込むように、人差し指の背で顎を撫でていた黒松が急に口を開いた。
きみ、の指している人物が、いよいよ分からなくなっていた。

「指し手がそっくりだよ、未熟で浅はか、だが油断ならない。そういうところをよく再現している」

遠回しに「全て分かっている」とでも言いたげな、自信に満ちた物言いだった。準備が整った、ということだろう。
お前が下手に動けばすぐにでもやっちまえるぞ、という、言外の脅迫だ。

「だが、あれは思った以上に強かだったようでな、早々に死んでもらうつもりが、先を越されたらしい。君は、おおかた私を殺しにでもきた間者なのだろうが……惜しかったなぁ」

当たらずとも遠からず、である。ともかく私が当主と入れ替わっていることは、完全にバレてしまっているわけだ。
笑いまじりの濁声に耳を撫でられて、口を開くことができなくなる。固く閉じた唇の裏側で、舌打ちを噛み殺した。
こんなところで斬り死になんぞしたくない、何とかして逃げられまいか。こんな依頼、やっぱり引き受けるべきじゃなかった、他人の身代わりに死ぬなんて。
今さらどこにぶつけても仕方がない文句が湧いては溢れ湧いては溢れて、胡座の膝の上で握った拳に爪が食い込んだ。

「どうだ、君。こちらにつかないか」

声色をカラリと明るくした男の顔が、やはり明るくこちらに向けられた。

「は?」

思わず素で聞き返すと、おもむろに盤上の玉将を拾い上げた黒松は

「今ここでこちらの配下につくと約束するならば、悪いようにはしない。むしろ、倍の褒美を与えよう」

と、殺気の感じぬ笑みで、玉将を掌の内側に握り込みながら言うのだった。

ここで、この男につけば私は助かる。
自らの命を長らえるための道筋をひとつ得たことで、焦るばかりだった心に幾らかの平安が戻ってきた。

なるほど、この男のやり方は合理的だ。
これから当主を亡き者にしようという時、そのための戦力を今ここで無駄に働かせるよりも、おそらく金で雇われたであろう部外者を取り込むほうが賢明だと考えたのだろう。悪いことをやれる奴は、だいたい頭がいいし、損得勘定もうまい。
自分もきっと、そういう男なのだろうな、と思う。
現に、己の保身のために敵方に走る、という選択肢を、選択肢として数えてしまっているわけだから、つまり、目の前の男と私は似ているのだ。
その時々で、自分に利が舞い込むよう臨機応変に動ける人間同士なのだ。

『むしろ、関係のない私たちの揉め事に巻き込んじゃってるんですよね。謝るのは私のほうです』

みょうじの言っていた言葉を思い出す。そうだ、私は関係ない。あいつの言う通りだ。

でも、じゃあ何故あいつに「関係ない」と言われた時、腹が立つような思いを抱いた?
散々慕ってくれていたはずの奴に、今さらそんな突き放すような言葉を使われたのが、気にいらなかったのだろうか?
いっそ「関係ない」などと突き放された仕返しに、本当に関係を切ってやろうか。相手方に走っちまおうか。
そこまで考え至ってみて、不意に笑い出したくなるような、おかしな気持ちになった。

大人気ないな、私。
と、心の中で自嘲した。あんな子どもの言うことにいちいち目くじらを立てて、馬鹿みたいだ。

どうせなら、とことん関わり合ってやったほうが、仕返しとしては面白いかもしれない。
散々首を突っ込んで、巻き込まれまくった末に、みょうじに再会したら「お前あの時、私に『関係ない』とか言いやがったよな」と嫌味を言ってやろう。きっとそのほうが、ずっと面白い。
鉢屋にだって、文句を言ってやりたいことが山ほどある。敵に回っちゃそれもできない。
小寺の殿には倍の褒美をもらうとしよう。明日の仕事も保証されないフリーター忍者にとっては、金も信用も必要不可欠だから。
だから。

「お断り致しまする。どうか御容赦下さい」

膝を揃えて手をつき、背筋を伸ばしたままきっちりと腰を折る。
声に出してみると、案外清々とした気持ちになった。

「そうか……残念だ」

言うや、黒松は傍らに置いていた刀で盤上を叩きつけた。駒がジャラ、と軽快に飛び跳ねて大きな音を立てる。
それを合図にするように、三方の障子戸や襖が鋭い音を立てながら一斉に開け放たれる。刀を手にした幾人もの手下が、我先にと襲いかかってきた。

装備つけてないわりにトロいなぁ、と思う余裕すらあった。
懐から煙玉と打竹を取り出し、手早く着火する。見慣れぬ煙玉にぎょっとする連中のど真ん中で、それを畳に叩きつけると、部屋はすぐさま白い煙で溢れかえっていった。ケムリマシマシ大サービスの煙玉である。
松太郎の近侍として控えていた男の腕を引っ張り上げつつ、転がるように部屋を飛び出た。

「燻されてろ!!」

部屋の中で噎せ返っている連中に吐き捨てながら、後ろ手に障子戸を閉めてやった。

「逃がすな!」

げほげほ咳き込みながら叫ぶ声を背に、庭へ駆け下り、近習の男の薄い背をどん、と押しやった。

「お前も逃げろ、私も勝手に逃げる!」
「あっ、ちょっと! 殿!」

ああ、もう! と焦るような声に若干申し訳ない気持ちになりつつ、ここは確実に二手に分かれたほうがいいと判断した。
庭の植木やら物陰やらから、わらわらと追っ手が湧いてきている。まさか部屋の中で殺り損ねると思っていなかったのか、わたわたと統率の取れていない連中の手を抜き身の刀片手に躱しつつ、とにかく逃げることに専念した。

黒松の口ぶりからして、おそらく正体がバレているのは私だけだ。みょうじは、多分あいつはバレていない。
私さえ逃げ切れればいい。もう十分時間は稼げただろう。

ここを切り抜ければ、とりあえずは私の勝ちだ。