「え、私が? 姉上の代わりに?」

帰って早々、父上からお呼びがかかった。
ひとまず顔を見せねばと部屋を伺ってみると、父上と共に待っていた姉上に深々と頭を下げられたのだった。

「ごめんねなまえ。私、どうしてもやらなければならないことがあって……」
「なまえには、まつのフリをして小寺の家に行ってほしいんだ。約束は取り付けてしまったんだけど、どうしても行けなくなってしまってね」

何となく、奥歯に物が挟まったような言い方をした父は、それ以上を語らなかった。

父の言葉も、姉の言葉も、どことなく不自然だ。
まだ嫁ぐ前の姉が、大事な嫁ぎ先に行くよりも優先するべき「どうしてもやらなければならないこと」など、あるとは思えない。そのことを父がアッサリと受け入れて、「どうしても行けなくなってしまった」と言ってのけるのも、どう考えたっておかしい。
よしんば本当に、何事か足さねばならない用があるのだとして、「行けなくなっちゃいました、ごめんなさい」と言うでもなく、身代わりを立てようというのもおかしな話だ。
というか、なぜ身代わりを立てるのかという話以前に、身代わりを立てたことがバレたら、この家はどうなってしまうのだろうか。バレた時点で、私の立場は、命は。
急ぎで決まった婚姻、嫁ぎ先の黒い話。
どう考えたって、何か裏があると考えるのが普通だ。

でも、じゃあ、姉や父の頼みを、私は断るのか。
そもそもこんな、お家の存続に関わる戦が勃発する中、それでも学園に通わせてもらっている身で、どうこう言える立場ではないのでは。忍術学園という、世間の常識を身につけられる上に、寝食の保証までしてもらえる、そんな恵まれた環境に通わせてもらっている以上、そこで学んだことを家のために活かせなくてどうするのだ。
そうだ。言えないには、言えないなりの事情がきっとある。
ならば、私にできることは、その事情を汲んだ上で波風立てぬように自分の役目を全うすることなのではないか。

そこまで思い至り、瞼を下ろして、肺の奥まで深く息を吸い込んだ。

「わかりました、やります」

きっぱり頷くと、父と姉は口々に「ありがとう」と言いながら、胸を撫で下ろした。

春休み、お気楽な行楽気分で里帰りをしたかと思えば、自分が何に巻き込まれているのかもわからないまま何事かに巻き込まれている。
とはいえ、これまで学んできたことを家のために活かせるのなら光栄なことだ。なにかと失敗もしてきたけど、曲がりなりにも私はかの忍術学園で学び始めて6年目に入ろうとしているくノ一なのだ。
忍びとして以前に、人としての在り方を学んできた。学びを人のために役立てないことは、きっと人の道理に外れることだ。
やるからには、役目を違わず完遂しなければ。
腹を括って、拳を固く握りしめていると、姉が労うように肩を抱いてくれた。緊張しているとでも取られたのかもしれないと思い、大丈夫ですよ、と言おうとした。
が、先に口を開いたのは、不安げな顔をした姉だった。

「危なくなったらすぐ逃げてね」

耳もとで、私にしか聞こえないように言った一言。
それから姉は、もう一度強く私の肩を抱いて、部屋を後にした。



小寺家の屋敷は、周囲を簡易な土塁でぐるりと囲った、防衛意識の高い屋敷である。
どことなく真新しく見える漆喰の壁と瓦屋根が仰々しい表の門を抜け、木塀に囲まれた道をしばらく行くと、再び門がある。大手門よりも古びて見える木門をくぐっていけば、ようやく建屋が見えてくる。
こんなの、まるでちょっとした城ではないか。戦乱ばかりのこんな世の中であるにせよ、城とは別に、屋敷にまでこれだけの設備を整えるのは、まぁ良く言えば周到だ。
しかし、保身と見栄のための、金の使いすぎに見えなくもない。小寺のあまりよろしくない噂は聞いていたが、訪れて早々に、何となくその実態を目の当たりにしてしまったような気がした。

北側奥には、対屋がある。ここに、前当主である夫を亡くして間もない奥方様が暮らしていらっしゃるのだ。

が。

「ホラ、これなんかどーお?」

ほわほわした雰囲気の奥方様は、姉のまつ、もとい姉に変装した私がやってきてからというもの、着物やら扇やらの展覧会を延々と続けている。私をマネキンにして、である。
この色は顔が明るく見えて良いだの、この柄が似合ってるだの、屋敷に訪れた途端にこの調子だったので拍子抜けしてしまった。

「まあ素敵! それはおまつちゃんにあげるわ」
「えっ」

苦笑いが顔に出ないよう、できる限りヤケクソハイテンションで奥方様に話を合わせていたら、いつの間にかそういう話になってしまったらしかった。
手にしていた扇は、淡い藤色の備中和紙に、繊細な筆遣いで描かれた蝶が舞っているものだった。今の私は姉の姿なわけだから、つまり姉は、この雅な扇が似合う姫なのだろう。自分の姉がそんな風に思われているのは、やっぱり嬉しいものだ。

「嬉しいのよ〜、私も。みょうじ家の方と手を携えられるのは」

扇をあれこれ手に取っていた奥方様が、不意にしみじみとした声で言った。

「私はねぇ、みょうじの御家と手を取り合って、この小寺家中が落ち着いたら、剃髪しようと思っているの」
「え……」

つまり、仏門に入るということか。言われてみれば、夫を失った奥方がその道を選ぶというのは自然なことだ。
奥方様にしてみれば、突然のことに落ち込む間もなく、ただ一人の跡取を残していくことも出来ず、この屋敷に留まらざるを得なかったのだろう。そこに、此度の縁談がきた。

「私、こういう綺麗な物は大好きだけどねぇ、持っては行けないからね。みんな、誰かに差し上げようと思っているのよ」

奥方様にとって、きっとこの縁談は、本当に喜ばしいことだったのだ。不安の多い日々だったことだろう。今なお、不安は大きかろう。
姉や、みょうじ家の存在によって、この方もきっと救われるのだろう。これでようやく、心静かに弔うことができるはずだから。

「有り難く頂戴致します。大事に……大事に致します」
「ありがとう」

扇を持つ手に思わず力が入る。
目の前で目尻を下げる、優しげなこの人のためにも、何事もなくこの婚姻がまとまれば良い。そう願わずにはいられなかった。

「母上、少し宜しいでしょうか」

女ばかりの空間に、不意に響いた男の声にはっとして、障子戸のほうを振り返る。
姉の夫となる予定の、小寺家嫡男、いや当主の松太郎殿が来たようだった。

「まつをお借りできますか。庭の花桃が美しいので、二人で眺めたいと思いまして」
「あらあら、まあ。仲がよろしくて何よりです。いってらっしゃいな」
「ありがとうございます。まつ、行こう」
「はい」

大人しく、差し出された手を取って、部屋を後にした。
奥方様から頂いた扇を懐に挟み込んで、先を歩く御当主様の後ろを大人しくついていく。回廊をしばらく行くと、花桃が見頃を迎えた庭を見渡すことができる一画に辿り着いた。設えられた小さな池に花弁が浮かぶのが和やかだ。

「屋敷は息苦しくないか」

問われて、深く頷く。

「はい。幼い頃より訪れておりますゆえ、慣れたものです」
「そうか。母上とは何を話していたのだ」
「扇を見せて頂いておりました。それに、ホラ。こちらも頂いたのです」

さっき頂いたばかりの扇を開いて見せると、松太郎殿は柔らかく目元を緩めた。
かと思うと、口元を拳で覆い、何やら笑いを噛み殺すような声を上げ始めた。

「じゃじゃ馬姫には些か雅が過ぎる気もするな。なあ、みょうじなまえ」

みょうじなまえ。
なまえは、私の名だ。呼ばれて何も不思議なことはないはずのそれが、酷く恐ろしい響きを持っていた。

「な、何を……私は」

首から下全身に大量の冷や汗をかきながら、しどろもどろに口を開く。
なぜ、どこでバレたのだろうか。奥方様にはバレていなかったはずだ。若かろうが、当主たるものには何か思うところがあったのだろうか。というか、そりゃ良い仲同士の女がニセモノだったらバレるのかも……イヤそれでバレるのか? 分からないが、ピンチであることは間違いない。
どうする。どうすればいい。

「そんな焦るなよ。私だ、わたし。分からないか」
「わ、わたし……?」

まるで私、みょうじなまえの顔見知りであるかのような態度に、ますます訳が分からなくなった。目の前の何者かは、慌てるこちらをからかうように、大層おかしそうに笑っている。
何なんだ、この人。誰だか分からないけど、多分意地の悪い人なんだろうということは分かった。

「お前、私のこと勝手に友達とか言ってるくせに分からないのか」
「へ、友達、友達……」

私が友達だと「言っている」。どこか捻くれた言い方だ。本当の友人であるならば、多分こんな言い方はしない。
私が勝手に、友達だと「言っている」人。

「あっ!? で……!!」

唐突に、一人の人の顔に思い至って、思わず大きな声を上げてしまった。

「な、な、なな、何ででもし……むぐ」
「アホ! 声がデカイ!」

目をギャグみたいに吊り上げたその人の手に口を塞がれ、最後までその名前を言い切ることが出来なかった。
アホって言ったな。そして、この口を塞ぐ手の容赦なさ。ちょっと痛かった。
もう、これは出茂鹿さんで間違いない。
ギブです、という意図を伝えようとして、いつまでも口を塞いだままでいる出茂鹿さんの手をぺしぺし叩くと、ようやく離してくれた。

「おい、お前の姉上とこいつ、普段どれくらいの距離感だ」
「え」
「どのくらいの距離感で話すんだよ」

胸を抑えて呼吸を整えていると、声を潜めた出茂鹿さんに耳打ちをされて、今度は心臓がバクバクになった。

「え、え、ああ、ええと……どうでしょう、二人きりの時に身を寄せ合ってたのをたまたま見ちゃったことはありますけど」
「よし」

言うや、出茂鹿さんは周囲の様子を気にしつつ、私の肩を引き寄せた。
突然のことに、変装だとか演技だとかを忘れそうになる勢いでニヤけ面を晒しそうになり、必死で抑え込んだ。

「なに、その顔」
「いや、役得……と思いまして」
「何言ってんの、きみ」

のだが、どうやら抑え切れていなかったらしい。呆れたようにジトリと目を細められて、余計に恥ずかしくなった。

「まあいいや、こっちのほうが声をひそめてでも話しやすいし」

出茂鹿さんは、こうして密着していようがどこ吹く風、涼しい顔である。悔しいような内心を取っ払いながら、とにもかくにも事情を聞かねばなるまい、と口を開いた。

「それで、えっと……何でここに?」
「仕事だ。きみら一族と、ここの連中のための一芝居に手を貸してるところだよ」
「……一芝居?」

出茂鹿さんの、言っている意味がよく分からなかった。
戸惑いがそのまま声になったような私の言いように、出茂鹿さんはわずかに目を見開いた。

「きみ、何も知らないのか?」

おずおずと顎を引くように頷くと、出茂鹿さんはさらに潜めた声で事情を教えてくれた。

「小寺の叔父貴を引き摺り下ろすために、裏で色々動いてるらしい。今、ここの本物の当主はきみの家の者らと一緒に兵を準備しているところなんじゃないかな」
「兵?」
「そうだ。きみの家と手を組む小寺の当主はな、今日これから叔父をひっ捕らえて、政の一切から退かせる算段だ。私はその準備の時間稼ぎで身代わり役をしてるところだ」
「そんな……」
「きみの同郷の同級生が、私にこの件を依頼してきたんだが……」
「三郎……そう、だったんですか」

話の流れで唐突に登場した、三郎と思しき人物に衝撃を受けながら、しかしなるほど、鉢屋の家も絡んでいるとなれば、事態の規模が見えてくる。主家もバックについているのだろう。
事は、想像以上に大きくて厄介だ。私が知らなかっただけで。

「私……何も知らなかった」

意図して潜めようとせずとも、自分の声から生気が抜けて萎んでいくのが分かる。
出茂鹿さんの語った全てを、私は知らなかった。出茂鹿さんを巻き込んでいる、家中の者でありながら。

「何か、事情があるんだろうな、と……思ってはいました。でも、聞かなかったんです。聞けなかった。話せないのには、話せないなりの事情があるんだろうなって思って」

でも、と絞り出す声が震えてしまったような気がして、唇を一度強く噛んだ。

「私だけ……何も知らなかったんですね」

何も知らずに来たことを、今更後悔しているわけではない。
何事かの「言えぬ事情」を抱えた父と姉を、問い詰めてまで全てを知ろうとは思わなかった。父と姉を信頼していたからだ。自分の振る舞いを間違いとは思わない。
この遣る瀬無さは、どこにも気持ちのやり場がない種類のものだ。
事情を教えてくれなかった父や姉を恨もうとも思わない。でも、どうしてそんな大事な話を、これから親類縁者となる一族の存亡がかかった話を、私にだけ何も教えてくれなかったのか。
私は父や姉を信頼して事情を聞かなかった。でも、父や姉は私を信頼していないから、事情を話してくれなかった?

身体を支えている力が、全身からしおしおと抜けていくような、そんな気分だった。

出茂鹿さんは知っていた、鉢屋も。父も姉も。きっと私一人が、何も知らずにここへ来た。
自分の立場の情けなさに、歯をきつく食いしばった。

「悪かった」

悪いほうにばかり突き進んでいく思考に待ったをかけたのは、出茂鹿さんの声だった。
今まで聞いたことがないタイプの、心の底からの、気遣わしげな声色。
思わず顔を上げると、出茂鹿さんは何となく気まずそうな表情を浮かべ、人差し指で頬を掻いた。

「いや……多分だが、きみの御父上や姉上は、きみを巻き込む気は無かったんだろうな」
「え?」
「だって、そうだろ。まさか当主の身代わり役が娘の知り合いで、作戦をそのまま喋っちゃうなんてことは想定してなかっただろうし……私だって、あの胡散臭いツラした忍たまからしか話は聞いてないんだよ」

胡散臭いツラした、とは随分な言いようだ。多分鉢屋のことだろう、少し笑ってしまった。

「何も知らなくていい、危ない目には合わないように、と……気を遣ったのかもしれない。それを、私はふいにした」

言いながら、出茂鹿さんは申し訳なさげに視線をそらした。
変装をしているとはいえ、いつもより近い距離にある顔から、いつもの自信が薄らいでいるのが、何だか寂しいような気がした。

「出茂鹿さんがそんな顔すること、ないです」

努めて明るい声を出すと、出茂鹿さんはこちらに視線を戻してくれた。

こんな、身内同士の面倒ごとに巻き込んでしまっているのなら、むしろ出茂鹿さんに対して申し訳が立たない。
それに、出茂鹿さんの言ってくれた言葉が、素直に嬉しかった。父や姉が、私を心配してくれているのかもしれない、という考え方は、とても優しくて明るいものだ。心配してくれている、というのは、つまりイマイチ信用されていないとも取れなくもない、にしても。身を案じてくれている気持ちがあるのと無いのとでは、気の持ちようは随分違ってくる。
私は大丈夫だ。今はそれより、出茂鹿さんを巻き込んでしまっていることが申し訳なかった。

「むしろ、関係のない私たちの揉め事に巻き込んじゃってるんですよね。謝るのは私のほうです」
「関係ない……って、よく言うよ」
「え?」
「お前なぁ、身勝手もほどほどに」

身勝手、という身に覚えのない言葉に目をぱちくりさせていると、出茂鹿さんは不自然に言葉を切った。

「おや、これは」

聞き慣れない、とって付けたような愛想が浮いた、低く掠れた声が耳に飛び込んでくる。
はっと廊下の先を見ると、小寺家分家の黒松殿がこちらにやってくるところだった。良くない噂を耳にする人だが、一見するとそこまで野心溢れる人には見えなかった。中肉中背、顔色の良い健康的な武士の姿。
初めて間近で見るウワサの人を前に人相の観察なんぞしてしまったが、そういえば男女二人で引っ付いて話していたことを思い出し、出茂鹿さんと二人あわてて身を離した。

「いやいや、仲が良いのは喜ばしいことだ」

相好を崩しながら近づいてくるその人は、出茂鹿さん、もとい甥である松太郎殿に明るく声をかけた。

「若に話したいことがあってね、いいかな」
「は」

底の見えない明るい声色が、むしろ含みがあるように聞こえた気がした。
出茂鹿さんのことが心配でならないけれど、今ここで下手に動くこともできない。ただ、当主殿に変装をした出茂鹿さんを見送ることしか出来なかった。

廊下を連れ立って歩いていく叔父と甥。そんな、どこにでもある日常の風景が、思惑一つ知ってしまっただけで酷く恐ろしいものに見えた。